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 鴨長明『発心集』(1214頃)「第一」:「三」大部分の人は、名誉や利益に心とらわれることが、無意味などと思わない!この世は名誉や利益を求めての命がけの戦いだ!すさまじい世界だ!

2020-02-10 18:48:54 | 日記
※鴨長明(1155頃-1216)。 ※現代語訳は角川ソフィア文庫を参照。
「発心集 第一」「三 平等供奉(ビョウドウグブ)、山を離れて異州に趣く事。」
C 比叡山の高僧、平等供奉がある日便所で、突然、「いったいなぜ、このように儚い世に、名誉や利益(「名利」)にばかり心がとらわれて、厭うべきわが身を惜しみながら、空しく日を送っているのだろう」と思い、そのままどこへともなくさまよい出た。かれは伊予の国まで行き、乞食をして日を送った。そして彼はついに深山の奥の清水の湧いているところに、西に向かい合掌して坐り、即身成仏した。《感想》①この世の激しい生存競争に平等供奉は疲れた。あるいは彼は②やがて死ぬのに、名誉や利益に心とらわれても意味がない、つまりこの世は「儚い世」だと思った。③だが彼も死ぬのが怖い。かくてこの世の真理つまり死への確信(悟り)が持てるまで彼は修業する必要があった。そのため彼は乞食をして生きた。④やがて、彼はついに悟りを得て、即身成仏した。⑤人は必ず死ぬ。これは真理だ。死はすべての人に平等だ。⑥だが大部分の人は、「名誉や利益に心とらわれることが無意味だ」などと思わない。この世は名誉や利益を求めての命がけの戦いだ。すさまじい世界だ。⑦「年取って死が近づけば、名誉や利益(名利)の追求から、離れられる」との見解もある。⑧だが最近、「枯れた年寄り」など見たことない。特に男の老人は、多くがイライラし意固地で我執の塊だ。「発心」から程遠い。⑨女の老人の場合は、ヒステリー的になることが多い。やはり「発心」から程遠い。⑩名誉や利益(名利)の追求を生活の中で上手に処理し、イライラし意固地で我執の塊になることなく、またヒステリー的になることなく、上手に自己コントロールできる老人が多くなれば、住みやすい超高齢社会になるだろう。
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鴨長明『発心集』(1214頃)「第一」:「一」「欲を持たない」欲望!「二」並の者は、謙譲し遁世する前にまず出世し権力を持たねばならない!

2020-02-10 10:11:07 | 日記
※鴨長明(1155頃-1216)。 ※現代語訳は角川ソフィア文庫を参照。
「発心集 第一」「一 玄敏(ゲンビン)僧都、遁世逐電の事」
A 玄敏僧都は、平城(ヘイゼイ)天皇が大僧都の職をお与えになろうとしたのに、姿を消してしまった。そして遠い国で「渡し守」の船頭になって過ごした。《感想》①この世で出世と権力は普通、誰もが欲しがるものだ。それを拒否するとは、玄敏僧都は確かに偉いお坊様だ。②人とは欲望(自発性)だ。彼の欲望は、普通と異なり、「欲を持たない」欲望だ。

「発心集 第一」「二 同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事」
B 玄敏僧都が、僧として高い地位であることを隠し、みすぼらしい法師の姿で、伊賀の国郡司のもとで働いていた。よく働く彼を、郡司は気に入った。僧都も郡司を良い人と思った。ある日、郡司は国司とトラブルになり、国を追放されることになった。郡司は嘆いた。すると玄敏僧都は郡司とともに都に行き大納言に申し入れ、郡司の追放を中止させた。郡司はひどく懼れた。その直後、僧都は郡司のもとから姿を消した。《感想》①玄敏僧都が僧として高い地位にあることが、話の前提だ。並の僧にはまねできない。②玄敏僧都はなんと、時の大権力者大納言から崇敬されている。そもそも権力が無くては人事は動かない。権力こそこの世では重要だ。③この世の出世と権力を拒否する者も、この世で影響力を持つためには出世と権力が必要だ。④玄敏僧都は、大僧都の職を固辞したが、この世の人は彼を大僧都相当で遇する。彼は個人としては出世と権力を拒否し遁世するものだが、社会的にはつまり他の者たちから見れば、すでに出世し権力を持つ者だ。⑤並の者は、謙譲し遁世する前にまず出世し権力を持たねばならない。
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鴨長明『発心集』(1214頃)「序」:この世は「悪の心」に満ちる!この状況で鴨長明の関心はいかに「悪の心」を克服し自分が「極楽の浄土」に至ることができるかにのみある!

2020-02-10 01:28:23 | 日記
※鴨長明(1155頃-1216)。 ※現代語訳は角川ソフィア文庫を参照。
「発心集 序」
A 鴨長明が言う。「善の心は、戸外に遊ぶ鹿のようで、繋ぎ留めがたい。」《感想》誠にその通りだ。この世では①偽善がまかり通る。あるいは②悪と知りつつ欲のために悪事をなす。あるいは③悪と思うことなく好き放題に欲を追求し悪事を平気でなす。以上、①②③いずれであれ、この世は悪にまみれている。
A-2 かくて鴨長明が言う。「悪の心は家内にいる犬のようで、常に身にまとわり、つき、離れようとしない。」
B 要するに「わが心ははかなく、愚かである」と鴨長明は言う。そして彼は、この「愚かな心」を「教えさとし」、ついに「極楽の浄土に生まれたい」と思う。《感想》鴨長明は「悪の心」が他者に害を及ぼし苦しめることに関心を向けない。彼は「はかなく愚か」な心つまり「悪の心」を持つことによって、自分が「極楽の浄土に生まれ」ることができないことだけを心配する。彼には他者との相互作用の観点つまり社会的観点から「悪の心」を論じるつもりがない。彼は自己救済の観点から「悪の心」を克服したい、つまり「発心」したいと思うだけだ。彼は「悪の心」が、この世に①偽善、②自覚的悪事、③無自覚的悪事を生み出し、他者にとって害悪であり苦痛の原因であることに関心を向けない。
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