外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 7 五里霧中、英語に夢中の巻

2018年12月24日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

 

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福沢諭吉の愉快な英語修行  7 五里霧中、英語に夢中の巻

横浜開港地図1859年半ば以降のことですが、開港したての横浜でオランダ語が通じないことにショックを受け、改めて世が英語になったことを認識します。さて、英語学習を始めたいのですが、まったく方途が分からない。長崎から来た森山という通詞のところへ行っても安請け合いはするものの、忙しいからと言って毎回、鉄砲洲から小石川への人寂しい道のりを行ったり来たりしてもいっこうに教えてくれない。難しい手続きを済ませて、裃を着て幕府の蛮書調所という役所に行っても辞書を貸し出すことは相ならぬという始末。同じ英語を志す人を求めて、適塾の同窓生を誘っても、前回触れた村田蔵六などは「イヤ読まぬ、僕は(英語は)一切読まぬ」というような次第。神田孝平、原田敬作という蘭学者からようやくポジティヴな反応を得ます。ちなみに、原田は数年後村田が暗殺される直前に村田と大阪で鍋料理を共にしています。当時の蘭学社会はかくも小さく、お互いどこかでつながっていたようです。

英蘭辞書なんとか高価な蘭英辞書を中津藩の奥平に買ってもらって、さきに横浜で購入した「蘭英会話書」を頼りに自学自習がはじまります。諭吉の文にあたってみましょう。

(-----) サアもうこれでよろしい、この字引さえあればもう先生はいらないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首引(くびっぴき)で、毎日毎夜ひとり勉強、又あるいは英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。(-----)

(-----) 始めはまず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引いてソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。 (-----)

よく、「英語学習は○○に学べ」として過去の有名人の英語学習「法」を取り上げる場合があって福沢の場合も挙げられることがありますが、このようなゼロからの学習を真似することは意味がありません。「○○に学べ」というのは何かの権威付けと新味欲しさのために、考えもなく言っている場合が多いのでご注意。

ただ、この「ゼロ」ということはいろいろなことを考えさせてくれます。現代ではあらゆる種類の教科書、参考書、番組がそろっているので、それに頼っていると何のために外国語を習得するのかを忘れてしまう、ということに気が付かせてくれます。現代では、英語学習が試験のためにだったり、ま、一番多いのは周りがやっているからというのが多いでしょう。しかし、ちょっと考えれば分かることですが、外国語学習は私たちと異なる言語を使っている人を理解するため、理解させるためです。向こうの人の考えを知るという動機なくして語学だけを切り離すのはもともと無理なことなのです。『福翁自伝』中、英語学習開始の直前には次のような記述があります。

(------) その時に主人(島村鼎甫、緒方門下の医者)は生理書の飜訳最中、その原書を持出して云うには、この文の一節がどうしても分らないと云う。それから私がこれを見た所が、なるほど解(げ)にくい所だ。よって主人に向って、れはほかの朋友にも相談して見たかとえば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たがどうしてもらぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕がこれして見せようと云って、本当に見ろうそくた所が中々むずかしい。およそ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体れはう云う意味であるがどうだ、物事は分って見ると造作(ぞうさ)のないものだと云て、主客共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、ろうそくを二本けてその灯光(あかり)をどうかすると影法師がどうとかなると云う随分むかしい処で、島村の飜訳した生理発蒙と云う訳書中にあるはずです。

ここで言われている「難しい」というのは、語学上の問題でしょうか、内容上の問題でしょうか。その区別はつきません。たしかなのは、原文を書いた人間がある意図で書いたということです。その意図に近づくために学問的知識、普遍的論理、常識が必要、それに加えてオランダ語の知識が加わります。肝心なのは書いた人に迫ろうという意思がなければ、オランダ語も分からないということ。同じ人間が考えたのだからオランダ語の文法もこうなるはずだという見込みがあってはじめてオランダ語学習がなりたつのです。オランダ語だけを切り離してオランダ語ができるということは少し無理があります。諭吉が解読できたのは、せまい意味でのオランダ語ができたからではないでしょう。

このように考えてくると、純粋に英語能力だけを切り離して英語という科目を大学作成の入試科目からはずすということへの疑問がわいてきます。大学で何を読み、何を英語で伝えるかという目的がなくては「どういう面」を英語の試験で問うのか迷うはずです。じっさい、現行の大学入試の英語でも、で慶応き不できは、せまい意味での英語力ではなく、内容の理解力…、よく国語力と言われる能力ですね、これにかかっているのは、ある程度難しい大学入試を経験した人ならみな知っていることです。この間の報道では慶應義塾大学では、英語の入試のアウトソーシングはしないことに決めたとか。福沢さん以来の熟慮の伝統がそうさせたのか。興味のあるところです。

諭吉のゼロからの英語学習は、いつの世でも変わらない外国語学習の基本を考えさせてくれるという意味で、「福沢に学べ」ということもなりたつのかもしれませんね。

ところで、福沢が一番難渋したのが、英語の発音。

長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を知って居ると云うので、そんな小供を呼んで来て発音を習うたり、又あるいは漂流人でおりふし帰るものがある、長くあっちへ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。その時に英学で一番むずかしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、小供でもよければ漂流人でも構わぬ、そう云う者を捜しまわっては学んで居ました。

ここではたんに漂流民となっていますが、時事新報史:第8回:政党機関紙の盛衰と福地桜痴(戸倉武之)によると、その一人はジョン・万次郎のことだそうです。漢学者、蘭学者である福沢諭吉にとって、日本語もろくに書けない漂流漁民である万次郎のことは目に入らない存在だったのかもしれません。しかし、数か月後、諭吉の命は万次郎にかかっていたかもしれない。終生諭吉はそれに気が付かなかったようです。次回は、万延元年、1860年、1月、諭吉の出世の鍵となる渡米について。咸臨丸です。

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