外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 9 サンフランシスコからの三つの土産の巻

2019年02月06日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 9 サンフランシスコからの三つの土産の巻

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咸臨丸サンフアンシスコ諭吉、数えで25歳。横浜で1859年の夏以降、英語学習に目覚め、1860年(万延元年)1月から5月までサンフランシスコ旅行がかないました。木村提督の家来として忙しかったからか、他の乗組員のように乗船日誌を残していません。しかし、晩年の『福翁自伝』や、木村提督の後日談、同じく木村の家来の長尾幸作の航海記録からその一片は伺えます。

往路は難航海のため、ほとんどの日本人乗組員が倒れてたのですが、諭吉は平気だった数人の日本人の一人でした。「航海中私は身体(からだ)が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「これは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入って毎日毎夜大地震にあって居ると思えばいいじゃないかと笑ってる位くらいな事」だったそうです。サンフランシスコでは忙しい木村提督に代わって提督のために相応のお土産を買ってきてくれたと木村は感謝しています。長尾によると、諭吉がサメのてんぷらを作っているとき油に火がついて大騒ぎだったとか。諭吉は武士とはいえ貧乏な下級武士なので、炊事洗濯をはじめこまごまとした細工なども幼少のころから得意だったそうですが、失敗も多かったようです。

サンフランシスコでは町を挙げての大歓迎。連日のようなパーティーに諭吉も御相伴にあずかります。日本からの渡来に町はその将来を夢見ていたのでしょう。その流れは今に続きます。

タバコを一服と思った所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火でちょいとつけた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄てる所がない。それから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉んで揉んで火の気のないようにねじつけてたもとに入れて、暫くして又あとの一服をやろうとするその時に、袂からけぶりが出て居る。何ぞ図からん、よく消したと思たその吸殻の火が紙に移って煙が出て来たとはおおいに胆を潰した。

このような笑い話はたくさん『福翁自伝』に出てきます。

咸臨丸 シスコでの生活それからあちらの貴女紳士が打寄りダンシングとかいって踊りをして見せるというのは毎度の事で、さて行って見た処が少しも分わからず、妙な風をして男女(なんにょ)が座敷中を飛廻るその様子は、どうにもこうにもただ可笑しくてたまらない、けれども笑っては悪いと思うからなるたけ我慢して笑わないようにして見ていたが、これも初めの中は随分苦労であった。

日本人が来たということを口実に、ゴールドラッシュのあと余裕のできた市民たちが自分たちで楽しんでいる様子が伺えます。まだ引用したいところも数々あるのですがぜひ『福翁自伝』を読んでみてください。ここでは、単に福翁自伝の記述がたんにおもしろ話に終わっていない点を指摘しておきましょう。それは、単に事実の記述ではなくその解釈をしているということです。それも後代の思想的な枠にはめるやり方ではなく、常識に基づく推論です。じつはこれが『福翁自伝』を他の書とちがうものにしています。

まず、大歓迎の心理的推察。

アメリカ人の身になって見れば、アメリカ人が日本に来て始めて国を開いたとうその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云うわけであるから、ちょうど自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じ事をすると同様、おれがその端緒を開いたと云わぬばかりの心持ちであったに違いない。

その歓迎ぶりは実利の予測からだけでなく、兄貴分としての大盤振る舞いだと推察しています。一方日本人の心理状態は。

すべてこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば雑談を云う者もあるその中で、お嫁さんばかりひとり静かにしてお行儀をつくろい、人に笑われぬようにしようとしてかえってマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、およそ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張って居た磊落(らいらく)書生も、始めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でも可笑しかった。

窮理図解じつは、科学技術についてはそれほど驚きません。オランダ語をとおして少なくとも理屈だけは分かっていたことばかりです(適塾の巻参照)。諭吉が注意を留めた点、あるいは感慨を持って晩年振り返るのは、目に見えない社会構造と経済です。幕府が望んだ、操船、造船のようなことについては同行の上級士官、小野友五郎などがしっかりと学習していますが、この旅で、社会、経済の構造に目を向け考える端緒を見出したのは諭吉の特異な点ではないでしょうか。

男女の社会関係については。

その医者の家に行った所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走が出る中に、いかにも不審な事には、お内儀さんが出て来て座敷に坐り込んでしきりに客の取持ちをすると、御亭主が周旋奔走して居る。これは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。

アメリカが共和国ということの実感も理屈ではなく現地で経験して初めて分かるものです。じつは、諭吉は、馬に車付きの箱が付いているのが馬車だということが、一見しただけでは分かりませんでした。理解ということは頭だけではできないというよい例でしょう。さて、共和国。

私がふと胸に浮かんである人に聞いて見たのはほかでない、今ワシントンの子孫はどうなって居るかと尋ねた所が、その人の云うに、ワシントンの子孫には女があるはずだ、今どうして居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居るようすだといかにも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、ワシントンの子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、こっちの脳中には源頼朝、徳川家康と云うような考えがあって、ソレから割出りだして聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でもよく覚えて居る。

そして経済。しっかりとごみの観察も怠りません。

ただ驚いたのは、掃溜めに行って見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の空がらなどがたくさん棄すてゝある。これは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾いがウヤウヤ出て居る。所でアメリカに行て見ると、鉄は丸でごみ同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。

たんに珍しがるのではなく、人が目を目を付けないところにも隠された真理が潜んでいると考えるのは諭吉流。後の優れた著作活動に一直線につながります。その思考方法は『窮理図解』という諭吉流物理学入門書(1871『福沢諭吉の「科学のススメ」』桜井邦明著 祥伝社刊に収録)などをご覧になるとよく分かります。

ウエブスターさて、英語ですが、表題の3つの一つ目はウエブスターの辞書の購入。

その時に私と通弁(つうべん)の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買って来た。これが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウほかには何も残ることなく、首尾克よく出帆して来た。

当時、日本人の些細な行動も新聞ねたになったいたので、この購買行動も記録に残っています。万次郎が流暢な英語を話せたという記事でした。ところで、「第一番」と諭吉は言っていますが、ワシントンに向かった本使節の一行も数冊ウエブスターを買ったそうです。 

二つ目は、『華英通語』という支那語の英単語集を購入したこと。これにカタカナの発音と和訳をつけて帰朝後、出版しました。これが諭吉の最初の出版物です。後半には簡単な会話英文集もあります。諭吉がどんな訳をつけたか少し見てみましょう。

Is breakfast ready?

イズ、ブレッキフハースト、レヂ   ハとトはッ同様小さい字。

「アサメシハデケタカ。」

Will you ake tiffin with us to day?

ウ井ル、ユー、テーキ、チョッフヌ、ウ井ヅ、ヲス、ツー、デー  井は小さな字

「アナタハ コンニチ ワタシドモト チヤヲ ヲアガリナサレヌカ。」

Thank you, sir, with much  pleasure.

センキ ユー シャル ウ井ジ モッチュ プレジャール。

「アリガタフゾンジマス。」

英語のカタカナ表記では昔も今もムリがあります。このカタカナを参考に話しても皆目通じないでしょう。それにしても、古風な日本語が今見ると可笑しいですね。諭吉自身の英語力もまだまだのようで、帰国後、塾ではオランダ語を排して英語を専らにしますが、苦労しているようすです。

所がマダなかなか英書がむずかしくて自由自在に読めない。読めないからたよる所は英蘭対訳の字書のみ。教授とはいながら、実は教うるがごとく学ぶがごとく、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方に雇われた。

ペリー以降、外交文書は、英語、オランダ語、日本語併記が基本だったので、それらの文献に日々接するうちに少なくとも英語を読む力はついたに違いありません。それが、さっそく1862年、幕府に雇われ、赴いた1年間の欧州旅行につながります。(ちなみに、ようやく生活も安定し結婚することになりました。諭吉、数えで28歳。)

話を咸臨丸に戻します。往路は沈むのではないかという難航海、37日の航海のあとサンフランシスコでは3人の水夫が病死するという始末でしたが、復路は南より、ハワイにもたちより、日本人士官の操船技術も上達し楽な航海でした。今回の巻、3つめの土産は少々長いですが、『福翁自伝』をそのまま写しておきましょう。

諭吉 少女それからハワイで石炭を積込んで出帆した。その時にちょいした事だが奇談がある。私はかねて申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどゝ云うことはかりそめにも身に犯した事のないのみならず、口でもそんないかがわしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云うくらいには思うて居たろう。それからハワイを出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。これはどうだ。その写真と云うのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かはもちろんその時に見さかいのあるわけはない――お前達はサンフランシスコに長く逗留して居たが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕口でばかりくだらない事を云って居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、大いに冷やかしてやった。これは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にも行ったことがあるが、ちょうど雨の降る日だ、その時私独りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、アメリカの娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒に取ったのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、くやしくも出来なかろう、と云うのはサンフランシスコでこの事を云出だすとぐに真似をする者があるから黙って隠しておいて、いよいよハワイを雛れてもうアメリカにもどこにも縁のないと云う時に見せてやって、一時の戯れに人を冷かしたことがある。

続く(福沢諭吉10へ)

 

 

 

 

 


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