外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

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福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

2018年12月09日 | シリーズ:日本人の英語

福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

前回

安政5年(西暦1855年)満21歳で適塾に入門してから諭吉の生活はあわただしく移り変わっていきます。それは、1853年にペリーが米国から来日してから急に日本中があわただしくなったのと並行に進みます。

福沢記念館1856年には、兄、三之助をリューマチで亡くし、いったんは緒方の塾での学業を諦めなければならないという事態に追い込まれますが、親戚、近所の反対にも拘らず母のとりなしで、再度大阪に戻ることがかないます。福翁自伝によると、諭吉の懇願に対し母はこう答えたそうです。

「ウムよろしい。「アナタさえそう云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまたよそに出て死ぬかも知れぬが、死生(しにいき)の事は一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい」。

この母も並みの人ではなかった。『福翁自伝』に、何か所かで触れていますのでお読みください。一人の偉人が生まれるのは、偶然ではなく、この母だけでなく、亡き父の遺訓、兄、漢学塾の白石先生、緒方洪庵、こうした人たちによって育てられてきたことがわかります。

諭吉はめきめきとオランダ語の実力をつけてきますが、忘れてならないのは、13歳から5年間、みっちり漢学を学んだことが無関係ではないことです(それ以前は勉強というほどのことはしていなかったようですヨ)。孟子、孔子などの経書をはじめ、史記などの歴史書も繰り返し読みました。つまり西洋におけるフィロロジー(philology)の素養が出来ていたのです。フィロロジーという概念はいまだ日本語には定着していませんが、何語であれ古代の人の書いたものを解読することを意味し、西洋の人文学問の柱です。シナの文書であれ、オランダ語、英語であれ、人が書いたものであれば何か共通するものがあるはすだという見込みで、書いた人の精神に近づく知的営みです。諭吉にとって古代中国語であれ、オランダ語であれ、理解の骨組みは同じだったに違いありません。こうして1857年にはすでに塾頭になります。(フィロロジーは文献学と訳すこともあります。)

1858年、24歳、江戸の中津藩屋敷で蘭学を教えるよう藩命を受けます。ペリー来航から5年、九州の片田舎の藩にも「砲学」ブームが押し寄せて来た結果、漸く諭吉のような蘭学者にも日が差してきました。幕府もあわててお台場を建設した時代です。築地、中津藩の中屋敷で諭吉は蘭学塾を開くととになったのです。これが今に続く慶應義塾の最初の年とされます。

1859年、7月以降になりますが、開国したばかりの横浜に出かけます。大河ドラマなどでも扱われた場面を福沢自身に語らせましょう。

註:今回の挿絵の3つの錦絵のうち一番下のものが1859年頃の様子に一番近いそうです。

横浜居留地その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人がそこに住んで店を出して居る。そこへ行て見た所がちょいとも言葉が通じない。こっちの云うことも分わからなければ、あっちの云うことももちろん分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字(もんじ)と云うものはない。英語だか仏語だか一向計(わか)らない。居留地をブラ/\歩くうちにドイツ人でキニツフルと云う商人の店にぶちあたった。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。こっちの言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、ちょいと買物をしたりして江戸に帰って来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、ちょうど一昼夜歩いて居たわけだ。

註:キニツフル商会はこの年陽暦で7月15日、他の外国商社に先駆けて開業。通常クニフラーと表記され、商会名をイリスと変えて2018年にても盛業中。

横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。これは/\どうも仕方がない、今まで数年(すねん)の間、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。

ペリーが来て5年も経っているのですから少々脚色気味に語っているのではないかと思う方もおられるでしょうが、オランダ語に死にもの狂いになっていた日々を送っていたわけですから、気持ちがそれについていけなかったということを伝えたいのでしょう。このことは特殊語学をやった身になれば分からないでもありません。ところが諭吉の変身の速さにも注目すべきものがあります。

邂逅横浜2けれども決して落胆して居られる場合でない。あすこに行われて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云うことはかねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むよりほかに仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、ひとたびは落胆したが同時に又あらたに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟をきめて、さてその英語を学ぶと云うことについてどうしていいか取付端(とりつきは)がない。

この部分を読むと英語を始めるのは至極当然のようにみえますが。当時かならずしもそうではなかったようです。英語を学習しようと呼びかけても、自分はオランダ語でいくという朋友も多かったそうです。長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎(靖国神社の入り口に銅像がそびえたっています)など、「イヤ読まぬ。僕は一切(英語は)読まぬ」と威張るほどでした。ここでは、習慣というものの力がいかに大きいかということが分かります。私たちの日常生活でも、りくつではわかっていてもどうしてもやめられない、ということが多いです。甘いもの、たばこぐらいならいいのですが、自動車の検査の規則に反していることは分かっていても、長年の慣行を変えられないとしたら恐ろしいことです。

横浜開港3さきほど、「福沢の変身の速さ」ということを云いましたが、正確には、福沢の場合、気持ちと理解の両方を矛盾しながらも並行して持てた、という方がよいでしょう。うすうす気が付いていたからこそ、横浜ショックをきっかけにすぐに行動に移せたのではないかと思います。矛盾する二つの面があると、ふつう人間は、都合のいい時、都合のいい面を選んで見て、他方を忘れる傾向があります。現代の防衛論論議などその典型と言えるでしょう。ところが、福沢には、両面の対立、矛盾自体が、考えと行動を先に進める力になっていると言える場合がしばしばみられます。漢学の素養と腐儒への反発、文明開化論者の面と洋学者への非難。有名な「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という一節も、封建的な言葉で封建制度を批判しているおかしみ、があります。

さて、英語発心は1859年半ば過ぎのことながら、まことに運のよいことに、翌年早々、1860年、万延元年、1月なんと米国へ行くチャンスに恵まれます。その時までの半年に満たない期間の英語修行は、死にもの狂い...といえるかどうか、むしろ暗中模索と言った方がよいでしょう。あらゆる教材と制度がそろった現代と正反対の状況ですが、言語習得に今と違いはありません。逆に整った制度の裏に見えなくなったなにかを垣間見させてくれるかもしれません。

続く












 

 




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