小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

“認定”、イカの塩辛と餅―母21回目の命日に

2006-09-24 17:33:57 | 身のまわり
美しい空の一日で、J-WAVEの天気アナも「めったにない好天です」。こういう空を見ていると、「杞憂」という考えを持った古代中国の人々に共感できます。
22日は母親の21回目の命日。昨年(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/f0865ad2844402576c5aaaef851de89a)に引き続いて、思い出というか考えたことを。こういうことを考えられるのも、ブログというかたちあればこそでしょう。

いつからか母の命日は弟と帰ってからの深夜、日付だとだいたい翌23日に墓参りに行くのが恒例になった。5年前からは家に住みついた姉の次男も、家にいなかった昨年以外、姉の代理として参加している。
一番いい時季の夜中の墓場は、風もひんやりして気持ちがいい。今年は弟と一度行ってから、帰ってきた甥とその友人一名と「よるーははっかっばっでうん・どう・かい」に出かけた。
墓前に供えるのは好物だったイカの塩辛と餅。ふだん家にないものだから今回も帰りにベルクで買ったが、そういえばと、この二品が選択された経緯を思い出した。

何だかわからないうちにくも膜下出血で倒れてからわずかのうちに死んでしまった母。今より若かった私たちも、まだ肉親の死にも馴れていなかったのだろう。死の翌日にも、どうしたらいいかわからないきょうだい3人はなぜか揃って髪を切りに行ったりし、夜はこういう非常事態の常として父親が大いに酔っ払って寝てしまった後、大学生の私は姉と酒を飲み、高校生だった弟はレコードなどめったに買ったことのなかった母が買った記憶の中で唯一のシングル盤である『北の宿から』などをかけていた。
好物がイカの塩辛と餅に“決まった”のはいつだったか。家族以外にも墓参りに行く死んで間もなくではそういうことにならないから、一年くらい経ってかも知れない。
おそらく、墓前に好きだったものでもあげようと思ったはいいが「何が好きなんだっけ」ということになり、確か姉が「塩辛。よく食べてたよ」と、餅の方はちょっとそうした状況にいるとは考えにくいが父が「餅。いっしょにそば屋に行くと必ず力うどんを食べてた」といっていたような気がする。私としては、死ぬ数年前にめったにないことながら、姉の家で母のおごりでうなぎ重の店屋物をとり、たまにはうなぎでも食べたいがあまり好きでないのか父がいい顔しないからつならないので食べないといっていたのを憶えていたが、うなぎはちょっと高いのでやめておいた。
つまり考えてみれば、母の好物は“捏造”したといっては言い過ぎだが、実際は残された家族の協議の結果、イカの塩辛と餅に“認定”したのだ。
しばらくあまり考えないで「好物はイカの塩辛と餅」ということにしていた私は、この事実に気づいて今更ながら愕然とした。当時22歳だった私は、母の好きな食べ物すら把握していなかったのだ。
だいたい姉や父の発言も、まったく推定の域を出ないではないか。一生のうちある食べ物を集中的に食べるということはよくあることで、例えば私などは今年の冬は集中的にヤマトイモを食べていたし、外食ではあんかけ焼きそばばかりだった時期もある。その頃にたまたまよく見かけていたに過ぎない甥かなんかが、私が死んで何が好きだったかときかれ、やつはヤマトイモばかり食っていたといったら、私としては、いや、あの時は確かにそうだったが、実は人生全体の中ではそんなに好きだったというわけではないんだといいたくなるだろう。まあ、死んでしまった後だからどうでもいいが。
「墓前には好物を供える」という「物語」、「箱」のようなものが先にあり、何を供えるか、つまり「中身」の方が後にくるというのはよくある話だ。ずっと前、音楽に興味がなくサッカー少年だったS君がほかの生徒が好きなアーチスト、確かスジャダラパーかその辺の新譜を楽しみにしているという話をきき、「いいなー、オレもそうやって自分の好きなのの新しいCDを楽しみにしてえ」といっていて驚いたことがある。考えれば中高生が「カノジョ/カレがほしい」なんていうのは、好きな誰かという「中身」より「箱」の方がほしいことがほとんどだ。こうした行動形式は基本的に幼稚なものだが、ある段階の人間には必要なことにも思われる。ただ、ずっと「中身」でなく「箱」だけだと困ると思うが。

話がそれたけれども、問題は母にとってイカの塩辛と餅が上位だったかどうかということより、私がそういうものをわかっていなかったということなのだ。22歳にとって親なんて疎ましいだけの存在とはいえ、当時の私は母親になんてほとんど関心がなかった。それはしかたがないといえばしかたがないが、やはり心苦しい気持ちは消えない。

母よりずっと後に、90歳を過ぎて死んだ祖父母の場合、より多くの時間、その人生に触れられたし言葉もたくさん交わしたから、こういうのもおかしいが十分という思いは強い。だが母の場合は何もわからず何もしないままいなくなってしまったから、半分だけ読んでどこかへいってしまった本のようなすっきりしない思いが残っている。
生前、母には文句ばかりいってた父親似の姉も、最近は母に似てきたとよくいわれるという。もうすぐ43になる私は、これで母が生きていた年より死んでからの年が長くなると今年の墓参りの時に弟にいった。われらきょうだいにとっては、まだまだどこかへいってしまった本の中身を考える日が続くのだろう。だがそれは何度も読み返して暗記してしまったほどの本に触れるのとは、また違った味わいがある。

そうだ。まだ手もとにあるもう一冊の本もいるが、こっちは一升瓶を持っていって墓石にかければいいので簡単。ずっと一貫してもずくとかおじやとかそーめんとかばかり食っているが、食べ物にあまり関心がないのはこの夫婦の特徴なのか、それとも戦前生まれ共通することなのか。
もっとも、自分の親に食べ物は何が好きかなんてきくのもおかしいから、こういった場合の「好物」はすべて“認定”でしかないのかも知れないけれど。

(写真は父親が植えた前の畑の青空もっともが似合う花コスモス。BGMは1985年の音楽を調べ、スティング『ブルータートルの夢』はアナログでしかなく見送り、ライブエイドで大活躍のフィル・コリンズのベストを探したが見つからず、代わりに見つかったスクリッティ・ポリッティのその名も "cupid & psyche 85"。最近、ミュージックマガジンでも特集して再評価されているが、こういう音楽が流行っていた頃なんだと感慨深し)
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