小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

赤城おろし音楽祭 2024 ラインナップ決定

2024-02-16 15:03:41 | 音楽

NINOKURA 恒例「赤城おろし音楽祭」まで早くもあと十日足らず。ラインナップが揃いました。初出演含む、小学校1年からの多彩な顔ぶれ。お楽しみに。

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今日27日は「利根川フェーン音楽祭」です

2023-08-27 08:45:40 | 音楽

12年間続いています。
夏の終わりを楽しみましょう。

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2.26「赤城おろし音楽祭 2023 本庄宮本・蔵の街」

2023-02-06 06:45:01 | 音楽

2月26日、NINOKURAで2月・8月の第4日曜に開催しているローシキイ(敷居の低い)音楽祭の冬版「赤城おろし音楽祭」が開催されます。facebook instagram で使っているプロフィール画像は唯一レンガ倉庫で行った「2020利根川フェーン」のもの。昨年の「県北スポーツ文化祭」はこの音楽祭の拡大版といえる企画でした。
すでにエントリーちらほら。わたしも交くんとレパートリーを練っています。

2/6時点参加表明:Shu、ムーア、まいきぃ奥田、Mitsu、ささばり、バド横田、NAKATA、ふ・ふ・ふ・すみ、orchesta NINOKURA

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4〜6月3枚のアルバムはブラック・キーズ、コーラ、ポリッジ・レディオ

2022-09-07 05:27:11 | 音楽

「やらねばならぬことがたまって行き詰まったら別のこと」ルールに則り、3月に計画したサブスクでよくきいている3枚のアルバムを3か月ごとに記録していく第2弾を2か月遅れで書きます。
ウィルコ、ベル&セバスチャン、タジ・マハール&ライ・クーダー、国内では佐野元春、坂本慎太郎となじみの新作もよかったが、今回の知ってた組いちばんは

ブラック・キーズ『DROPOUT BOOGIE』
タワーレコードのレビューにあった“アメリカの最も信頼置けるバンド”はご尤もと思ったが、この新作はもともとのガレージで硬派な持ち味に加え、変化に富んだなまめかしさとでもいうのだろうかやわらかさがあって移動の車中よくきいた。1曲はそんな側面がもっともよく出た、スローテンポでサビにリフレインが心地よい

コーラ『Deep in View』
これは知らなかった組。カナダ/モントリオール拠点のポストパンクバンドのデビュー作だそう。元Oughtのメンバーってこっちも初めて知ったけど、小刻みな音のトリオで実に好き勝手に弾いてる感じのベースが気に入りました。

ポリッジ・レディオ『Waterslide, Diving Board, Ladder To The Sky』

やはり知らなかった組でUKブライトンのインディーズ、ポスト・パンクバンドの3枚だそう。女性ボーカルダナ・マーゴリンの歌声がチャーミング。「感情的なハリケーンであなたを打ちのめした後、ほろ苦いユーモアの瞬間であなたを盲目にする」能力を持つ、最も魅力的なバンドリーダーの一人としての評判(NME)というと、なんだ、と思いますが、きくといかにも。『誕生パーティ』と題されたこの曲をいちばんききました。

「おすすめの曲」や「Radiko ライムフリー」で広がるリスナーズライフ。7〜9月もすでにいい知らなかった組2枚に出会っています。

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ピーター・ドハーティ、ヤード・アクト、ブラック・カントリー・ニュー・ロード;1〜3月の3枚

2022-04-15 05:13:41 | 音楽



「最近、どういうのきいてますか」「何できいてるんですか」
50代以上の音楽ファンに久しぶりに会うとよくそうきく。
わたしはといえば、昨年からすっかりサブスク、アマゾンアンリミテッド。昔の…自らの若き黄金のリスナー期の音楽さえきければ十分なんだけど、今の新譜ってのはどんなんだろうと気にもなるので、ピーター・バラカンやら渋谷陽一やらを「聴き逃し」でカバーしつつ、「お客様へのおすすめ」でも愛聴盤は増えていく。ネットにアナログ愛好心を売り渡せば耳は軽い。
そんなわけで、今年1〜3月には3枚のアルバムを繰り返しきいた。ミュージシャンのデータは検索にまかせて、思ったことだけ書こう。

1)ピーター・ドハーティ
「すぐれたメロディメーカー」というものは長年疑問だったが、このアルバムをきいて謎が解けた。自分が好きなメロディを書く人がそうなのだ。思い出すのは、とくに後期のレイ・デイヴィス。一つひとつの節回し、曲全体の構成・展開を何度も味わって飽きない。リバティーンズはあまりきかなかったが、こっちのほうが断然好き。

2)ヤード・アクト
 これは確か、渋谷陽一がおしえてくれた。ほかのメンバーの音をきいてないかのような勝手に弾いてる感の強いギターというのは大いに好みで、ちょうどよい奥行きの音場が落ち着く。思い出すのは、ザ・コーラルとかフランツ・フェルディナントとか。



3)ブラック・カントリー・ニュー・ロード
 雑多なもんがち、おもちゃ箱の魅力。思い出すのは、カーラ・ブレイやバッド・プラスとかルー・リードとか。



3枚すべて英国盤と集中はネット利用のたまものだろう。なので今日は朝の別所哲也のJ-WAVEでグラミー賞で盛り上がるニューオーリンズものをきこう。


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【聴き逃し】12日のウィークエンドサンシャイン ▽セローニアス・マンク特集

2022-02-19 05:30:26 | 音楽
やっぱりタッチや音色からするとバド・パウエルいちばん好きだなとか、アンリ・ルソーとの相性か、とか思いつつあっという間の2時間弱。今回も20年くらい前か、浦和のディスクユニオンでハル・ウィルナーの「モンクに捧ぐ」約2000円を買わなかったのを後悔しました。本番組でもこの盤からはかからず。
先週分は、イールズやらトム・ヨークのバンドとかレッチリやリアム・ギャラガー、エディ・ヴェダーの新曲がきけたワールドロックナウも含めてNHKFMの聴き逃しよくききました。
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ローリング・ストーンズ記念日

2021-07-12 09:23:19 | 音楽

午前中はうちで作業で、朝の別所哲也で今日はローリング・ストーンズ記念日と知ったので、たまにはストーンズ三昧にしようと思い立つ。
庭に出て朝の味噌汁用のニラをちぎりながら、そういえばビートルズはマイベスト曲の話をよくするがストーンズでそういうことになった記憶がないなと、では、一般的な人気曲はなんだとアマゾンミュージックの「人気のある楽曲」を確認。ふうむ、と思って、自分はなんだろうと、

タイム・イズ・オン・マイ・サイド
悪魔を憐れむ歌
ルビー・チューズデイ
タンブリング・ダイス
アンダーカヴァー
アンダー・マイ・サム(スティル・ライフ版)
ストリート・ファイティング・マン
ギミー・シェルター
シーズ・ア・レインボー
ホンキー・トンク・ウィメン

と実際、自分はあんまりストーンズきかないなとありふれた10曲ラインナップ。
世の中はどうなんだと検索すると、2013年選という「ローリング・ストーン誌」版

ギミー・シェルター1位はねえんじゃねえの、と思いつつ、
9日に発売というライブ盤 Bigger Bang をアンリミテッドできいてます。
おっ、ワイルド・ホ―シーズもいいなあ 

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ザ・ポーグス peace & love

2018-11-04 04:56:59 | 音楽



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spotify 

パソコン作業の思い出アルバムBGMシリーズ今回はリリース年みたら「平成元年」。ということで平成30年間をよくきいていたアルバムで振り返るというシリーズにしてブログ記事にしようと思いたつ。


26歳の1989年は臨時採用教員で、いまでいう熊谷圏の中学校に務めていました。
ポーグスのこのアルバムは、大学時代と思ってたら卒業してたんだ。当時飛ぶ鳥を落とす勢いのスティーブ・リリーホワイトによるプロデュースは評価が別れたおぼえがあるが、この愛しのバンドのあらくれ感をキープして一歩進んだ音にした感。オープニングもわくわくするけど、一曲選ぶならメリハリとカタルシスのM3。

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埼玉県北、最初の「人々のまつり」

2018-10-07 04:05:15 | 音楽


楽しみだな。
今までのどのインベントよりずっとワクワクする、「カミサマ」でなく、何十年も、「ここらへん」で続いてきた、人々の「思い」がうねりをあげる「まつり」。
夜が明けて、この場所に行けることがうれしい。交くんと行って、18年したらどのくらいおぼえているかきこう。埼玉県北、最初の「人々のまつり」のことを。
関係のみなさん、ありがとう。

Wake Up Fes

※ピーアイピー発行「NAOZANE」9月号「クローズアップヒストリー 熊谷 after 1945」P6中段「80年頃、フジクラ楽器主催のイベント」の部分を「80年頃、フジクラ楽器、ウィンドウベル、オサム企画などが主催するイベント」に訂正します
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夜明けのスティーヴ・ウィンウッド

2018-05-27 16:22:54 | 音楽

day 709 初登場。ウェルカムホーム

Makoto Kobayashiさん(@quarante_ans)がシェアした投稿 - <time style=" font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; line-height:17px;" datetime="2018-05-26T21:26:26+00:00">2018年 5月月26日午後2時26分PDT</time>


5月26日はいっぱいだった。
03:00 起きておにぎりつくって食べ、遅れてる朝までの原稿開始
07:45 後送部分いっぱいのまま送信
08:00 保育園のプールづくり
10:00 籠原タリーズで籠原プロジェクト打合せ
12:00 保育園迎え
12:30 Code for コーダー道場に貸す約束のプロジェクタ届けと昨日、出しそびれた郵便出すため熊谷へ
13:00 バイパスで交くん着眠
13:30 プロジェクタ届けて郵便局に。交くん起きて「シェンシェンセンター」騒ぐのをだましながら市内郵便手続終え、そういえばとコミュニティ広場のエコライフフェアへ。途中角にいたふっかちゃん、はにぽんと会話。おなじみの支援センター利用者のみなさんに「大きなったね、(いつもお世話んなってます、バイビー)」サクセション。ゴーヤ苗配布に並んで整体の藤原さん夫妻といろいろ話し、ゴーヤとひままり苗持って支援センターに
15:30 支援センターに苗届けて、交くんキッズスペースで遊。コーダー道場参加のおしえご息子中学生とも話、交くんと電車見学に移動。途中、本庄方面からママビーノ音響の電話しながら、ニットーモール丸亀製麺でぶっかけ並頼んだら、交くんどしどし食って8割たいらげ
16:00 秩父線入場券買ってSLその他見学。電車好きなのに乗車未経験の交くんを通過待ちの車内に連れて行くと、「いらないいらない」、なんでかな。とはいえSL見学は十分楽しみ、40キロハイク帰りのさえない後輩どもをみたり、交くんはなぜか秩父線階段が気に入り2.5上下
17:30 再び支援センターに行くと、コーダー道場は終了で地域通貨研究会のみなさん。長谷川くんに免許とったかきいたりしながら、キッズスペース復習少しで帰路。上増田地内に入って「深谷市歌」聴 18:30 交くんと話し合いの結果、ごはんの前に風呂
19:00 入浴後の乾杯を経てリクエストにより、樋口製麺うどん茹でチャーハンを作成。途中かーさん帰宅。交くん、今日はチャーハンそれほどでなく、きんぴらと樋口製麺うどんをつるつると食い続ける。さっき丸亀食ったのに、というのはナンセンス。丸亀は悪くはないが、赤城おろし文化圏うどんとは別カテゴリーだ。丸亀製麺と樋口ほか近辺の製麺所、さらには近年の武蔵野系うどん店との差異を、さらにいえば同じチェーンの丸亀製麺と山田うどんの比較から、前者の完成度が高いと思いつつ「時々行きたくなるのは山田。丸亀に行きたいと思ったことは一度もない」という心象をどう説明できるが、午前の籠原プロジェクトのキーになるように思う
20:00 BSの『釣りバカ』で西田・石田とともに写っていた電車をみてたのに、「おやすみ」と交くんいいだして寝床へ。父子ともあっという間に寝る
27:00 交くん少し騒ぐ。寝てみたけど眠れないので、トイレで「いま経済史が面白い」で始まる「先週の本棚」三浦雅士評『「大分岐」を超えて アジアからみた19世紀論再考』を読んでから、ここしばらくいちばん書くのを楽しみにしていた原稿を書こうと起きる。

BGMを何しようか、フリー版のスポティファイより安いけど有料会員のアマゾンプレミアで探すの原則で検索。カーラ・ブレイ、スタッフなどの後、思い当たったのがスティーヴ・ウィンウッドで、2017発売とある「グレイテスト・ヒッツライブ」を選。 なんともいえぬタメの美学とB3の気持ちいい音色、管と一体化したオブリガードの巧みさと、ウィンウッドのどこを切っても金太郎的ハイトーンヴォーカル。 夜明けにきく音楽に迷ったら、スティーヴ・ウィンウッドを候補上位とおぼえておこう。

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“もっとも近い”ロックの祭典「第6回深谷ロックフェスティバル」に行く

2010-08-02 12:23:14 | 音楽
発券ナンバーは「069(ロック)」


しばらくぶりの長文は、土曜の深谷ロックフェスティバル( 以下、「FRF」はフジじゃなくてこっち)のレビュー。まだ書いてる途中、こっちも深谷もの、『SR』シリーズレビューは長くなる一方なのでまずこっちからです。

07年冬の2回目、夏の3回目に行ったFRFについては、2回目を半年遅れて長文レビュー。自らの「ロック観」も叩きつけた、深谷ロックな人々に触発されたか、今読むと先走った文章です。
 深谷ロックフェスティバル―「違うを信じる」ものどもの、なだらか、情熱、健全、“真冬の祭典”(07/06/28)

 確か4回目は仕事があって行けず、5回目は記憶にないから気づかなかったか。今回はTwitterやMixiで主宰の蔦木さん;なお、面識はありません:から情報があり、あれ、こんなところに、と深谷シネマでフライヤーも手にしていたので、前2回にも同行のOB・Yト君にはちょっと前から連絡、それと次の仕事の打ち合わせで朝からシネマに同行、最近は市内一部で話題の『SR2』ロケマップ作画のニートマンガ家OB・Mマ君、さらには元シネマのスタッフで長野松本からやって来たSノさんもいっしょにということでしたが、私は最近仲よくさせていただいている弁当屋(ひわまりさん)の夏カレー試食会に行く約束があったのでMマ君に送ってもらい、同じ方向から来るYト君に乗せて行ってもらおうと思ってたら、やつはすでに最近買った米国製のかっこいいチャリで直接行っていたので、なんと、とばかりに駅まで10分くらい、祭囃子がのんびり鳴る道のりを、雷文手ぬぐいで汗を拭きながら行きました。

 2回のレビューに書いたように、駅ギャラリーのちょっと大き目の教室といった風情の会場への到着は開演の15:30ちょうど。これまでで最も多い観衆で席はいっぱいでしたが、ひとまずなんと驚きのコストパフォーマンス1500円を支払い彼らを探しますがいません。
「TASKE」とやらの不思議な司会の中、すでに1組目の「CARRE」が平和なニセ東京駅レンガ造りの一階に「腐敗インダストリアル」(FRFのHPより)なサウンドを響かせています。こういった決してききやすくはない音が、まったく通常のこととしてきこえているのが懐の深さは日本有数の音楽フェス、FRFのすばらしさだと思います。
 と、外をみるとベレー帽のMマ君が頭をぴくぴく動かしています。行ってみるとYト君もいて喫煙中。高価な愛車を「駅なんかに置けないですよ」、というので私が近くのおばの家に電話をかけて預かってもらうよう手配し、「座れねえじゃないっすか、おれ3時間も立ってんやですよ」と軟弱なことをいうMマ君とともに座席横を左ウィング的に進出し、なぜか空いていた前から2番目の席を確保。Yト君に「左前から二列目に座ってます」とメールを送ると、少ししてビールを持ったYト君が来ます。
 CARREはギターとMTRの2人組。キュンキュン、グワグワ展開したその全1曲は曲想をふくらせたままフィナーレを迎え、それから3時間半の鋭い音の束を受け止める観衆をFRFの世界になじませるには、十分なトップバッターぶりだったといえましょう。

 ここでビールを買いに受付付近へ。みたことのない国から輸入された品名「ビール」が150円で買えるのもFRFのすごいところです。入場料が18000円のフジロックは確か500円していたので、3時間おきとか調整しながら飲んでました。なおここで、シネマで連絡できなかったSノさんはわれらの二つ後ろの席に座っているのに気づき、あいさつしました。
 と思う間に、こちらは突段BBS出身という常連女子スリーピース「おにんこ!」。結成10年、ドラムの方は出産明けとのことですが、もうなじみになった歌もギターも変わらないまま年季が入った感じ。もっとも重要なレパートリー『おにんこ!は東京が嫌い=Oninko! hate Tokyo』(myspace できけます)は、時間の都合でその前の一曲を抜かして演奏したようです。ボーカルのないCARREの時はわかりませんでしたが、今回は最後までボーカルがきき取りにくかった。ただこれはスピーカーに近い、位置のせいかも知れず、そう気になるほどではありません。

 さて、ここから佳境。3組目は「KIRIHITO」my Space )です。
 名前はきいたことあっても、音源はまったくきいたことがないバンドを初めてきく。フェスならではの喜びですが、9年ぶりの新譜がミュージックマガジンで国内ロック年間5位にランクされた二人組KIRIHITOとの出会いは、それは強烈なでした。
 正確無比な上、きわめてホット。いわば、燃える尖ったコンペイトウのような鋭いギター+ヴォーカルを、異様な大音量、入幕を果したばかりの学生出身力士のような坊主頭が張り手のように叩きつける変幻自在なスタンディングドラムスが、コンペイトウを包む巨大で柔らかくも硬くもなりしかも重みがあるまんじゅう皮が包み込む。わかりにくいたとえですが、そんな印象の音の塊です。デュオの関係は一見するとギター&ヴォーカルがフロントマンにみえますが、実際には和風からファンクまで縦横無尽なドラムスを化学構造的なギター&ヴォーカルがバッキングを務めるイメージ。もちろん、長い取り組みのようにその関係性は移動します。何しろわれらの席は前から二番目。すぐ前の立ったままドラムス張り手を、まるで砂かぶりでみる本場所のように体験できました。降参です。

 そして、日本パンク界重鎮率いるスリーピース「恒松正敏GROUP」。「本日最高齢」と紹介したTASKEとやらは、確かここで時間調整に七夕と納豆の日をモチーフにした自作の詩を朗読しました。それまで何いってるのかわかりませんでしたが、詩の時は活舌しっかりでさすがというべきでしょう。
 それにしてもこの演奏は、ロックの年季の入り方ということでは世界的にも最上位の部類に位置するのではないでしょうか。重厚活軽やかなリズム隊が変幻自在な恒松のギター&ヴォーカルをサポートする。スリーピースの王道です。
 とにかく、永遠の少年のような風貌の恒松のギターがすごい。切れ味鋭いフレージングにカッティング、色気のあるチョーキングも効果的、などというありふれた表現では語りつくせないほど魅力的。その魅力をあえて言葉にすれば、黄金率を体現したスタイルの触れ幅とでもいえばでしょうか。個人的にはそんな気がします。
 鋭い、スピードのあるギタリストはほかにもいくらでもいるし、渋みのチョーキングも同様。たとえば、スタイルこそ違うが世界の大御所ジェフ・ベックなんぞはその言葉両方に渡る演奏をします。そしてジェフ・ベックの魅力がその振れ幅、つまり守備範囲の広さにあるとしたら恒松のそれは奇跡的な振れ幅の絞り方、いわば意図的に守備範囲というか振れ幅を限定することによって濃厚で推進力のある音世界を形成している、そんなイメージを持ちました。
 すみません、わけわからないこと書いて。演奏後、TASKEとやらも賛辞を送ったバラードはだからこそ印象深い一曲でした。そして、後でみたら好きだったP-MODELの一員だった、また後でYト君が「ずっとセンセイに思えてしょうがなかったですよ」、いや、私にはあんな体力ありません、のドラムス、律儀な好漢の印象ながら実は殺し屋かも知れないとも思わせる、チョッパーさえも地味な印象を与えるベースも実にかっこよかった。何というか、あえて疾走感だけに絞ったポリスとでもいうか、そんなバンドでした。

 そしてセットチェンジの間、さらに朗読しようとするTASKEとやらを、「みんなヒいてるよ」と笑顔でたしなめて登場は主宰蔦木俊二率いる突然段ボール。リズム隊にツインギター、女性コーラスは前と同じかな。第2回のレビューとほぼ同じになりますが、独特の世界を30年かけて磨いてきた揺るぎのない演奏が逞しさを感じさせます。ツインリード、リード/サイドを効果的に入れ替えるギター二人のコンビネーションなどはその具体的な現われと思います。
 そして何より、MCにも現れていた、赤い上下を身に着けた祭主・蔦木のごきげんさ。7日付のブログで言及された「プリミティブな衝動」が健在で、「もっと風通し良く音楽(ロック)をやりたいという願い」(上記HP)がかたちになったことの喜びに満ちた姿が印象的でした。アンコールも十分に堪能して、7時の終演時間を迎えます。

 その後は、隣町熊谷から来たSノさんの友人と駅前で別れ、Sノさん、Mマ君、自転車とってきたYト君とシネマへ。その道中の話から、今回のまとめとします。
 若いのにこのあたりの音楽に詳しいSノさんにきかれ、突然段ボールや恒松正敏のいたフリクションの話をしました。実際に私は高校の頃にFMで『ホワイントマン』をきいたくらいで、フリクションについては雑誌みたレコードジャケットはおぼえているものの音をきいたことはあるのかわからない、というか曲名をいえないのできいたことないのも同然。当時、まわりにこのへんをきいているやつはいなかったし、YMOやP-MODELは買ったもののききたい洋楽もいくらでもあるし、ここまでは耳が回らなかったというのが実際のところです。つまり、雑誌で知ってるだけのバンド。ミュージックマガジンから突然普段ボールが深谷在住と知ったのは大学の頃だし、アルバムをきいたのは卒業してからだったと思います。
 だから、29歳のMマ君やYト君と同じように、ほぼ新しい音楽として突然段ボールや恒松正敏GROUP、その他もっと歴史の新しい3バンドと、OBたいも「何だかんだいってあいつが一番強烈だったかも」というとんでもないパフォーマーTASKEに触れることができた。頼んだ深谷シネマビアガーデンチラシの締め切りを恐れていたMマ君は、「きっと今日1500円払ってこれをみることは、Mマの表現に必ずいい作用を与える」といって参加したのですが、「いや、締め切りはまずいけど、みてよかったっすよ」といっている。とすれば、蔦木さんの

・・・
まず「突然段ボール」の地元に音楽(ロック)を根付かしたい。そしてライブハウスじゃなくても、都内からちょっと離れた地方でもライブが出来る。そして駅という場所で、いろんな人が行き来する場所で、ロックミュージックに縁遠い人でもこういう場所でライブをやっているという事知ってもらいたい。(普段ライブハウスに行くという感覚の無い老若男女にも来てもらいたいという願い。)そして最近のバンドは、何故ライブハウスでライブする事しか考えられないのか?。所謂一つの活動場所を広げる為の草の根運動であるし、規制のバンド活動の概念を解体し、もっと風通し良く音楽(ロック)をやりたいという願い(上記HPより)
・・・

は少なくともわれら市民には届いたわけです。ありがとうございました。
それにしても、家から5キロちょっとの近い場所で、しかも3メートルくらいの砂かぶりの場所で、教室みたいな場所で恒松正敏のギターをきけたことはまったくおそるべし体験。「近くだけみるな、遠くをみろ」とは、そうあからさまにいわないまでもいつも中学生などにいつもいってることですが、「近い」ということはそれだけで「うれしい」、英国からやって来たグラム~プログレ界の重鎮を100キロ離れた新潟の森で新幹線で行っておっきなテレビでみて歓声をあげるのも何物にも替えがたいが、近くは近くで替えがたい。何しろ、長野から来てる人もいる。
 だいたい、あっちは入場券18,000円する上、新幹線代はかかるしビールだって500円する、ま、「高い」より「安い」がいいことだけは確かだろう。
 でも、1500円は安過ぎないか、と駅ギャラリーについて調べたら、 使用料金は 。なるほど、このへんに地方のライブのヒントはありそう。日本全国に箱物バブルでできた“潜在的ライブハウス”はいくらでもあるはずだ。

 と、まあ、いろいろ考えた七月最後の夜。私とYト君は雷文に歩いて行き、仕事を終えてきたもやしやMト君と地方で仕事をすることなどを話し合ったのでした。
 ビバ、“もっとも近い”ロックの祭典「深谷ロックフェスティバル」。
 蔦木さん、今「私もこの街(深谷)が好きだ」といえます。
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"Get widget wanted!"

2010-02-13 13:59:04 | 音楽
すまん、今回はお前らまだ主役じゃないけど、きっと画像多くみたい人がいるので登場お願いします。
「もみあい親子」 01/06午後1時ごろ


さらに更新。昨日の続きです。

その後いろいろやっていたら、groovesharkのTwitterリンクは前のやつが無効になっていることに気づきました。これは「iphoneアプリ」にあるネットラジオの「favorite」ツイートに時間制限があることからもわからないではありません。

まいったなあ、と思って、どうでもいいと思ってた Widget をつくってみると、これがなかなかいい。
NTTが母体のgooはリンクされていませんでしたので、持っているGoogleアカウントでBloggerというのを開設し、完成済みの12月~1月分を、140w解説も過去ログから集めてアップロードしました。でも、解説アップロードの作業は面倒。これはすでに対策を考えました。

今のところ専用なので、これで全部みられます。

http://quaranteansblogger.blogspot.com/

これなら、ウィジェットのボタンを押すだけで音楽がきける。こんなことができて本当にうれしい。こういうのがやりたかったんです。だいたい widget ってどういう意味かなと思ってたら、「(名前が分からない[思い出せない])何とかいう部品[装置]」(「EXCEED英和辞典」gooより)。なるほどそうか。しかもメインサイトより再生が安定しているような気がします。
バンクーバーもみないで、午前中ずっとやってたかいがありました。

詳しくは前回予告の『2010年のネットラジオ(後編) 森田芳光のブリジット・フォンティーヌ』としてまとめようと思いますが、こうした音楽共有サイトに関する現在の考え方をまとめると、

1)ビットレートの制限
2)技術的に難しいですがダウンロードの防止。ただし、ユビキタスがさらに進行したら「ダウンロード」の意味がなくなります。
3)権利者への自主的送金システムの確立

と思っています。

先ごろのiPad関連の「書籍」を含め技術的にも「著作権」の思想自体を見直すべきと考え、車運転しながらとか風呂とかに考えていまのところの結論。ここ数年読んでいる渡辺裕なども参考になりました。

何より、忌野清志郎の言葉「聞かせたい歌が 沢山あるのさ」(『よォーこそ』)はその衝動自体、“悪いことではない”と信じるからです。

(BGMはもちろん12月と1月のプレイリスト)
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「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」-2

2009-05-04 23:03:28 | 音楽
(1万字を超えて入らず、「」の承前)

●「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」

と、くだらぬ昔話を書き連ねてきたが、『たとえばこんなラブソング』のたとえがあるように、誰かが死んだ時にもっともふさわしいのは、できるだけどうでもいい昔話ではなかろうか。それが身近な人でも、はるかなスターでも。
今回の訃報を知ったのは、そんなに清志郎に詳しくない同級生が送ってくれたメールである。ニュースをみる気はしなかったが、よくいっしょにテレビをみた弟からもメールが届いた。
それから1曲だけ。PCに入っている『空がまた暗くなる』をきいて、Mixiで4月16日以降に入ったばかりの「忌野清志郎  RCサクセション」コミュニティに続々連なる書き込みに、ネット社会でのスターの死というのはこういうことなのかと驚いた。朝には「1000」でいっぱいになった「訃報」というトピックに、「おとなだろ 知ってるはずさ 悲しいときも 涙なんか もう二度とは 流せない」という歌詞を書き込んだらちょうど200番。少しして寝てしまった。
すると、やってきたのは「何気ない朝」。そうだ、今日は天皇賞だ、清志郎の代わりに馬券買わないとなと、新聞を買いに行くとスポーツ紙の一面は清志郎とアサクサキングスに分かれていて、一応、清志郎が写っていた日刊スポーツを買ったのだが、考えてみると「どっかの山師」がいうことばかりでたいしたことは書いてないはずだから馬柱しかみなかった。今回ツインターボになりそうなテイエムプリキュアの3連複も買っておいたが、実際には逃げずにしかも3コーナーで下がっていったので、鼻血でも出したかなあ、と思ったりもした。
Mixiの日記にも清志郎関連の記事は多く、コメントを書いたりしながら、Youtubeやニコニコ動画などで知ってるも知らないのもずいぶんみた。そのどれもにも、日付の新しいコメントが積み重なっていく。そして考えた。「忌野清志郎」はどういう人物だったのだろうと。
ここであらためて日曜の日刊スポーツを取り出して癌による死を伝える以外の言葉を探すと、「日本を代表するロックスター」「タブーにがんに挑み」「ロックに託した社会メッセージ」「過激な歌で発売禁止も」「まさにライブの王者」いった文字が並ぶ。いずれも間違いではないし、こうして私自身の清志郎歴29年を振り返っても『COVERS』以降の「社会的ロッカー」イメージのウェートは大きい。とくに4月16日付で紹介した『赤い原付』や今回初めて知ったアルカイダーズなど、過激な笑いをまぶしての社会批判のあり方は誰にもまねできないだろう。
だけど私にとって何より「ミュージシャン」であり「ソングライター」で、社会的でなくても自分の歌や誰かがつくった歌を歌ったり演奏したりしていれば十分なのだ。
「ソングライター・清志郎」から語ろう。何しろ40年近いキャリアだから多少のスタイルの変遷はあるが、正統なポピュラー音楽の継承である音像に、日本文学の伝統上にある示唆に富んだ言葉を乗せるというかたちは一貫していたと思える。
多くの文学関係者が絶賛する清志郎の詩世界。「悪い予感のかけらもないさ」「調子に乗ってるぜ 運のいいエンジェル」「お月さまのぞいてる 君の口に似てる」「居眠りばかりしてたら 目が小さくなっちまった」といった宮沢賢治、稲垣足穂、寺山修司らを思わせるのような言語空間から、「金がほしくて働いて 眠るだけ」といったプロレタリア文学までを自由に動き回る。
そして『雨上がりの夜空に』に代表されるダブルミーニングの巧みさ。単語が次々に変奏される『楽(LARK)』には舌を巻く限りだが、私はずっと『スローバラード』の「市営グラウンド」はNYの「シェイスタジアム」をかけているのではないかと主張していて、大学の友人Sが酔ってRCの話をするといつも、おれは「月光仮面が来ないの」の意味がわかったぜといっていたように、ファンがあちこちに暗号を読もうとしてしまうのはさながらジェイムス・ジョイス作品だ。
これらの歌が、きき手の日々のテーマとなってしまう汎用性もすごい。バイトをしながら『ボスしけてるぜ』や『いい事ばかりはありゃしない』を歌った人は多いだろうし、後者を私はよくテストで苦しむ高校生にきかせた。ここ数日でもっとも取り上げられていた『ヒッピーに捧ぐ』を身近な誰かが死んだ時にきいた、歌ったという人は多かったし、私自身もねこのカロンタンが事故で死んで畑に埋めに行く時に口をついて出たのは『ヒッピーに捧ぐ』で、連れて来てくれたOGへのメールにはこのタイトルをつけて送った。
それでいながら、意外にほかの誰かが歌っても「清志郎の歌を歌っている」という感じを拭えるシンガーはめったにいない。記憶をたぐっても成功例は、テクニックと意外なアレンジ、歌唱の独特さでねじ伏せた感じの山崎まさよし『トランジスタ・ラジオ』くらいではないか。
一方で、清志郎自身はカバーが得意中の得意。前回紹介した矢野『ひとつだけ』や『COVERS』収録の名曲の数々、『デイドリームビリーバー』は日本ではすでに清志郎の歌だろう。ビートルズ Don't let me down は多くの人がカバーしているが、昭和の終わり頃に出た東芝のトリビュート盤『抱きしめたい』に入っていたチャボとのヴァージョンよりいい演奏をきいたことはない。
と、清志郎のことを長々と綴ってきた。なんだかいつまでも書いていられるような気もするけれど、きりがないのでそろそろ。すごいカバーと詞ということで、昨日初めてきいたこの曲のことを書いて締めくくろう。
MCも最高の『イマジン』(多分2005年のジョンレノン・スーパーライブ)

忌野清志郎 IMAGINE


『COVERS』で最初にクラスメイト三浦友和もコーラスで参加のこのカバーをきいた時、付け足された「ぼくらは薄着で笑っちゃう」というフレーズの詩としての力に圧倒された。何を意味するかは考えていない。アレンジとしては清志郎が何かいってた記憶はないレッド・ツェッペリン『天国への階段』を思わせる飛翔感のある展開に、「ぼくらは薄着で笑っちゃう」のリフレイン。
このフレーズが、シングルカットされた『つ・き・あ・い・た・い』のB面『窓の外は雪』のリユースだったということは今回検索していて初めて知った。そして「憲法九条を世界中に自慢しよう」という清志郎の発言を見つけた2009年憲法記念日の朝、そうか、「薄着」って「非武装」のことか、と勝手に思った。
清志郎の政治的発言の本当の意味はわからない。おそらくそれほど考えたわけじゃなくて、「世間知らず」らしく「君は若いね」といわれても、原発やら国家やら警察やらに、ひとまず反対していた、「ただそれだけで歌うぼく」だったろう。でも、「ぼくら何もまちがってない」からそれはきく者にまっすぐに届いて、「頭のいかれたやつら」や「信念を金で売っちまう おエラ方」の「うそばっかり」の世の中を撃つ。そうだ、「知ってることが 誰にも言えないことばかりじゃ 空がまた暗くなる」。
そして、そういう「メッセージ」が乗っているのはいつだって「あのいかれたナンバー」。緩いテンポの『イマジン』はジョンの歌の中でもかっこよく演奏するのが難しい方だと思うが、何度も歌ううちにスタイルができてきたのだろう。ここでは本家ジョンも「聞いたことのない」リズムを巧みに崩しながらから「甘いメロディー」を歌い、そこにドラムが、それも『イマジン』というより『ジョンの魂』を思わせるドラミングが加わってドライブ感を強め、「薄着」以降はまるで現代アメリカの若き過激姉弟デュオ、ホワイトストライプスばりに迫力あるエンディングは、54歳、まだまだみなぎっている。
ああ、もっとききたかった。「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」の歌を。
でも、もう新しい歌はきけない。死ぬっていうのはそういうことだ。こっちも「そのうち死ぬだろう」。けれどもそれまでは見ていられる。清志郎が見たのと「とってもよく似た夢を」。

(BGMはもちろん清志郎のいろいろ)
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「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」-1

2009-05-04 22:59:05 | 音楽
フジロック2002 Day2 グリーンステージのモニターで清志郎&矢野顕子 フィルムで撮った唯一の清志郎画像です。


週間日記は後回しで、この偉大な人物との三十年足らずの話を。
いつにもまして長大になりました。約9千文字あって途中だるいですが、すみません、カットしないで掲載します。

・・・

●1980
最初に知ったのは高校2年だった1980年。当時愛読していた「ロッキンf」で紹介されていた『ラプソディー』(1980年6月)のアルバムレビューだったと思う。けれど周囲に誰もRCのことを話す者さえいなくて、最初にきいた音源はおそらく、ニッポン放送かなんか、AMのCMできいた『トランジスタ・ラジオ』(1980年10月発売)のコマーシャルだったのではないだろうか。
今から思えば、当時のいわゆる「産業ロック」的なディストーションのイントロにそれから三十年近くきき続けるすっとんきょうなボーカルがかぶさり、
「ベイエリアから……(ずんずんずん)……リバプールから……」
という、学校の屋上と教室、それと英米を、青い空と電波で一つのものにする、日本ポップ史上有数の夢のような数秒がトランジスタのラジカセから流れ、誰だかはまったくわからない女の子が、
「う~ん、いい曲ー」
と、つぶやいて終わるそのコマーシャルを何度もきいて、ああ、あの目つきの悪いやつらはこういう歌を歌ってたんだと思った。
しかし、当時よくきいていたのは、レッド・ツェッペリンやプログレのオールドロックや、YMOやP-MODELなど日本のテクノポップ。1980年といえば、以後ずっと個人ベストワンに置いていたピーター・ガブリエルのサードはじめ、ケイト・ブッシュ『魔物語』、デヴィッド・ボウイの『スケアリー・モンスターズ』、PIL『メタルボックス』など当時の個人的洋楽重要盤もたくさん出た年で、国内でもYMO経由で知った大貫妙子などをきくのに忙しく、よくわからない目つきの悪いやつらにまでチェックは回らなかった。

●1981
しかしその後、RCブレイク直前の名作ライブ『ラプソディー』と『トランジスタ・ラジオ』の入った『PLEASE』(1980年12月)は、確か1本のSONY-BHF、90分テープに録音してきいていた。まだレンタルレコードはなかったから、誰に借りたんだったかなと記憶をたぐると、高校の同級生Ⅰに借りたのだったと思い出す。録音したのはジョン・レノンが倒れた12月より前だったか後だったか。とにかく、
「清志郎がいってたぜ、『群馬って毛深いんですよ』って」
と、どこできいたのかの名言をおしえてくれたⅠとは、それからずいぶんと清志郎の話をしてきた。

●1982
この2枚の入ったBHF、それと1981年11月っていえば高3で名目上は受験生だった頃かに発売された『BLUE』のこれもやっぱりBHFは、農村の地元の同級生たちとマージャンしながらもよくきいていた。この頃には熊谷にも深谷にもレンタルレコード店ができていて、『シングル・マン』や『EPLP』は友だちでなくレンタルで借りたように思う。
最初にRCをみたのは『BLUE』が出て高校を卒業して就職する同級生たちがだいたいはまだ親の車に乗り始めた頃、Jの家のクリーム色のサニーで行って、会場は通っていた高校からそう遠くない熊谷会館でなのだが、そのサニーのことをおぼえているのは、免許を取って間もないJが会場近くの電信柱かなんかにぶつけたからだ。といっても、「バッテリーはビンビン」で無事熊谷会館について、高校の同級生のⅠやKもいて、北関東の片隅の『ロックン・ロール・ショー』が始まった。
『よォーこそ』を歌った後だろうか、「クマガヤ・べぇいべぇ」といった後で清志郎がいった、当時はMCとは呼ばれなかったろうセリフを憶えている。
「いい道路ができたんで、あっという間に着いちまったぜ」
どうでもいいけど、検索すると「東松山~前橋」開通が1980年7月でこのことかな、熊谷に来るには東松山ICでいいから1975年には開通していたはず。要するに高校も出ていなかった私は、近辺の高速道路さえも知らなかったのだ。
そんなわけだからちゃんとしたライブにもそれほど行ったことはなかったし、その時のRCがどうだったかを伝えることはできない。すごいライブだったなんていえばうそになるのだが、その後も何度か客席で右手を突き上げた『Jonny Blue』の「じゃあ、いくぜ、今度は1万回だ!」も、もうこの時やってた。『the Dock of the Bay』から延々と続く『Sweet Soul Music』のインプロビゼイションではドクトル梅津だったのかどうかはわからないがサックス奏者と肉体的なパフォーマンスを延々と繰り広げていて、そういうものかと思ったし、そういえばその間奏部がオーティス・レディングの名曲だということも、おそらくⅠからきいたな。ついでにいうと『チャンスは今夜』のチャボは、その後もずっとそうだったように実直そのもの。『BLUE』で一番好きな『多摩蘭坂』は歌ったかどうか憶えていないし、その美しい名前の坂がどこにあるかも含めて、まだ何も知らない18歳だった。
高校を卒業したこの春、『い・け・な・いルージュマジック』が資生堂のCMソングとなる。話題になった「ヒットスタジオ」は家でみた記憶があるから、今日は清志郎と坂本龍一が出るからと早く帰ったのかも知れない。まだ家にビデオなんてなかった。
『ルージュマジック』というと、浪人時代の夜に家にいると自分が通っていた定時制に連れて行かれた中学の同級生Iが乗っていた親のローレルでよくきいた気がする。普段の車内では近藤真彦や中森明菜をかけていたIは熊谷会館にもいっしょに行った一人だが、ある時、めったにないことだったがうちの親のスターレットに乗って出かけてラジオ、当時だからAMをきいていたら『雨上がりの夜空』がかかったら、興奮してその頃の若者の乗車作法の一つである箱乗りで騒ぎ出したことがあった。この日本ロック史に残る名曲は、唯一のスタジオ録音が時代を感じさせる音なのが欠点だが、そんなことはIのように時間があれば車で動いてた若者たちには関係ない。「こんな夜にお前に乗れないなんて」というすばらしいフレーズは、その頃のほとんどの若者にも受け入れられていた。
そんなこの年、卒業したばかりの高校が28年ぶりに甲子園に出場したりして何もしないまま夏が過ぎ、まずいこのままじゃ浪人から抜け出せん、と思い始めた10月に『BEAT POPS』が出ている。なにやらカラフルなジャケットのこの盤は、何のテープだったか思い出せないようにあまりきかなかった。通っていた予備校近くのレンタル店で安いのがいっぱい売っていたことがきっかけで、キース・ジャレットなんかのジャズをよくきくようになっていたのだ。高校の同級生のIとは、この頃、『雨上がりの夜空』オープニングでやっていたことの是非を話し合った記憶があり、なんとなく『つ・き・あ・い・た・い』や『SUMMER TOUR』をライブできいたような気もするが、会場をいえないことからして行ってはいなかったのだろう。

●1983-87
大学生で実家を離れていた時期で、この間に発表された音源はあまりきいたおぼえがない。
『OK』(1983年7月)や『FEEL SO BAD』(1984年11月)は多分、レンタルすらしてない。はっきり憶えているのは、中森明菜も歌っていた『スカイパイロット』や『山のふもとで犬と暮らしている』が印象的な『HEART ACE』(1985年11月)だけ。デザインが変わったAHFにジャケットの記述にしたがって、HEARTとACEの間にハートマークを書いていた。
『THE KING OF LIVE』(1983年)は大学の友人Kの富士見が丘のアパートで『指輪をはめたい』をきいたのはおぼえているが、それより1986年頃、SONYベータのデッキを買った弟がダビングしていた映像をみた時の、どこかさめた感じの方が印象が強い。多少知識のついた今思えば、武道館の“広さ”や進化の途中でのっぺらぼうの白になってしまう機材に対応し切れていないキャメラのおざなりさゆえなのだろうが、ワールドミュージックなんかにも興味を示しながら、全体でいえば引きこもりぎみの学生生活に、清志郎は遠かったというのが実際だったろう。
この間、一度もライブには行かなかったけど、その中でおぼえているのは西国分寺に住んでいた姉一家に居候していた頃に通った国立の多摩蘭坂。夏の暑い昼、知らなくて通りがかって、「ふさわしく暮らしてる」のはこんな坂だったんだなと思ったのを憶えている。
そうだ、大学の時にやってたバンドでは、『よォーこそ』をヒントにしてロックンロール進行の小林亜星の名曲「ひみつのアッコちゃん」の終わりの歌をソロパートつきでよくやっていた。

●1988-1990
と、ここまで思い出してみると、一回り下のうさぎ年の自分にとって二十代前半まで清志郎とRCは、それほど重要なミュージシャンとはいえなかったという気がしてきた。もともと、それほどのめりこまない体質があるにしても。
この間、学校勤めをするようになり、授業で中学生と歌っていた stand by me をB・E・キングのオリジナル、ジョン・レノンに続き、じゃあ、日本人が歌うのもきいてみようと『HAPPY HEADS』のをかけていたら、CD録音のためボリュームが大き過ぎて怒られた失敗もあったが全体としてはそれほどきいていたわけではなく、大きく変わったのはやはりあの『COVERS』(1988年8月)騒動だった。
タイマーズが出てきた「ヒットスタジオ」(1989年10月13日)は弟と録画しながら生でみていたし、多分二度目で最後のRCのライブも確かこの年、大宮で、「これから発売する曲やっから録音よろしく頼むぜ」といってたライブをみている。まだ著作権もゆるかったのか音楽ビデオを置くレンタル店もあったので、絶唱の『ヒッピーに捧ぐ』、strawberry fields を挿入した『Sweet Soul Music』など残されたうち最高の演奏と思う『the TEARS OF a CLOWN 』や『コブラの悩み』などのビデオも借りて録画。よくみていた。
そしてRC最後のアルバムで、もっとも好きな『Baby a Go Go』。自身27歳の誕生日翌日に発売されている。ちなみにビートルズの最終アルバム『Abbey Road』が発売されたのは、資料によれば6歳の誕生日だったそうだ。
晴れた日の多かったこの秋、曲も歌詞もアコースティックなサウンドも極上の『Baby a Go Go』をよくきいた。そうか、アコースティックがいいなと、十三年ぶりに生ギターというか、セミアコで緑色の APPLAUSE も買ったほどだ。
今でも『Baby a Go Go』の、アコースティックな『I LIKE YOU』『ヒロイン』『あふれる熱い涙』『June Bride』『冬の寒い夜』、ポリス『見つめていたい』を思わせるポップな『空がまた暗くなる』などは大好きなのだが、心身ともに疲れ切っていて、仲のいい先生方とカラオケなどに行くと「何いってんだふざけんじゃね~」と清志郎の替え歌の替え歌で、世の中全体に文句をぶつけていた困った二十代後半は、『Rock'n Roll Showはもう終わりだ』の「Rock」を「教育」に替えて、『楽(LARK)』の「1日でも多く楽をしていたい」「ハゲシイこの職業 わずかでも多く 遠くを見ていたい」と歌っていたら、その『冬の寒い夜』が来る頃には学校にいなかった。
いまちょうど当時に買った2枚に分かれたベストをきいててかかったのは『すべてはALRIGHT』。こんな歌詞だったか清志郎が歌うのは、「夢を見るのは 悪いことじゃない」。
そういえば1990年有馬記念オグリキャップ・ラストランの前日、その8年前にサニーをぶつけたJと後楽園に出かけ、オサイチジョージからの馬券を買った後にドームでみたジョン・レノン50thアニバーサリー。清志郎はまずレニー・クラヴィッツの紹介のMCで登場し、自分の出番では「あにさん、ばーさん」の名訳『Help!』とこの日来ていたショーンのことなのか『カラスの赤ちゃん』を歌った。
そういえば、4月16日付「世界を肯定する『世間知らず』」で書いたように、「いやあ、おれ、今までなんか苦労ってしたことねえや」と口走ったのはこの頃のJほかとの会話で、その時Jがいった「だっておれ、もう8年も働いてんだぜ」という言葉は、今、同じ年代にある若いやつにもよくしている。

●1991-2009
それから現在の、これまた今かかっている名曲をもじれば『畑の真ん中でねこと暮らしている』生活の形成期に入るわけだが、その暮らしの中でもそれほど熱心なリスナーだったわけではない。
RC休止以降のディスコグラフィを確認すると、レンタルでなくCDを買ったのはチャボと久しぶりにステージに立った『GLAD ALL OVER』(1994年12月)と、確かどっかのディスカウントで安かったから買った『Rainbow Cafe』(1998年10月)だけか。むしろ「世界を肯定する『世間知らず』」でリンクを貼り付けたようにソロ以降は、多チャンネル時代を迎えて放送が増えたテレビでみたことが多かった。
前に貼り付けた「ナニワサリバンショー」などのほか、NHKでみた確か「段ボールなんとか」と名乗っていた障害者とのバンドなど忘れられないパフォーマンスは多い。すっかり有名になった自転車や一時やってた丹下左善のコスプレなど、ミュージシャン部門でない「タレント」としてもすごかった。
オグリキャップ前日以降、ライブは二度。
まず、1994年のクリスマス武道館。同年JRAの『競馬場で会いましょう』を出していたこともあってか当日行われたナリタブライアンが勝った有馬記念で、「おまえら当たったか、おれはツインターボだ、あいつはほんとは強えんだ」と、道中鼻血を出して失速した稀代の逃げ馬の話をして、その日は私もツインターボから買ったのでうれしかった。当時中日にいた川又米利選手が登場し、武道館のステージで黙々とスイングを披露していたのもかっこよかった。
もう一回はフジロック02。グリーンステージで矢野顕子と歌った『ひとつだけ』のすばらしさは4月16日付に書いた。
ということで、今回あらためて数えて全部で5回みている清志郎。出不精なので一人のミュージシャンとしては多い方で、もっとみとけばよかったとも思いつつ十分とも思う。
接触しようとしたのは一度だけ。これも競馬関連で年も憶えている、強いのか弱いのかまったくわからない逃げ馬サニーブライアンがダービーを勝った1997年で、つくっていた競馬のムックで誰か競馬好きな有名人に取材しようということになって、『競馬場で会いましょう』のある清志郎を推したのだ。
じゃあ、小林さん、依頼のファックスつくってください、ということになって当時はまだPC-98機で事務所向けの依頼文をつくり、どうせ断られるだろうしいうことだけはいっとこうと、下の方に手書きで次のような文を書いた。

「清志郎さんがツインターボを買ったといった1994年のクリスマス有馬記念の日。私は武道館にいました。馬券は外れたけど、その日武道館で清志郎さんと同じツインターボを応援していたと知り、自分は馬券が当たるより正しいことをしたのだなと幸せな気分になりました。よろしくお願いします」

馬券べたなりの予想からすれば、マネージャーかなんかが「清志郎さん、競馬の取材だそうですよ」、清「なんだ、そいつは」ってくらいで、清志郎の目に、どころか耳に「正しいツインターボ」が届いた可能性は低いと思うが、もし清志郎が「めんどくせえから取材なんかやんねえけど、ツインターボはいい馬だった」とか何とかいってくれていたらなんともうれしいのだが。

(入りきらず「2」へ)
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【未完成投稿】私にとってのエリック・クラプトン~「人生十二年周期説」と

2009-02-22 13:23:50 | 音楽

さっき

気持ちのいい日曜、にゃんにゃんにゃんの日。
これからエリック・クラプトン+ジェフ・ベックをみにさいたまスーパーアリーナに行くことになりました。ともに、みるのは初めてです。
そこで、このタイミングで書くのがベストといえる、二十数年前に思った、私にとっての、ある象徴としてのエリック・クラプトンについて書くことにします。ジェフ・ベックさん、すみません。でもきっと、後半のレビューで触れます。
なお、人生十二年周期説は、もちろん干支が関係ありますが、やはり十数年前に読んだ西部邁が『生まじめな戯れ』で主張していた「人生十五年周期説」が参考です。

・・・
クラプトンはもちろん好きです。かっこいいです、すごいです。最初に知ったのはいつかも思い出せません。ビートルズ、while my guitar で、えっ、クラプトンが弾いてんのと思った記憶はありますから、多分、ギター雑誌かなんかで「三大ギタリスト」の話を読んで知ったのではないでしょうか。

おそらく、たとえば『愛しのレイラ』のリフをきいて、かっこいいということを否定するやつはいたとしてもたぶんものすごく少ないのではないでしょうか。『ワンダフル・トゥナイト』をきけば、レイドバックなんて概念を知らなくても、いやあ、大人の音楽っておしゃれだな、と思うだろうし、ずっと後、『ティアーズ・イン・ヘヴン』をきいて、というか、息子さんの悲しい事件を知って、人生っていろいろだな、クラプトン渋いな、と思わない人はむしろ少ないと思います。

もちろん私も、クラプトンファンの一員です。
アルバム単位でいえば一番好きなのは『461 オーシャン・ブールヴァード』かなと思いますが;予断ながら、多くのファンと同じようにずっとカタカナで Blue Bird と思ってました、どの時期がいいかときかれたらやっぱりクリームの頃かな。なんといってもあのギターですからサポートやっても一流で、昨年二枚しか買わなかった新譜の一枚、ブラインド・フェイスの盟友、スティーヴ・ウィンウッド nine lives の dirty city のオブリガートなんかは、いやあ、かっこいい人っていうのはいつまでもかっこいいんだなと舌を巻いたし、たとえば大好きなケイト・ブッシュはブルースロックのクラプトンのイメージからは遠いですが、93年作の red shoes、and so is love では、もはやラテンロックのサンタナと同等の"そのままいればマッチする性"を感じさせて圧巻でした。
そして、何より支持層の厚さ。ロック好きでクラプトンが嫌いな人はいないといっていいですから、当然クラプトンの話をすることは多く、とくに彼らの中で評判のいい『ベルボトムブルース』、『いとしのエリー』は姉の名と「エリック」からとったといわれるほどで「エリック・クプトソ」の変名もあるサザン桑田もフェバレットにあげるこの曲、じゃあ、一番好きなのは『ベルボトムブルース』だろとファンにいうと、「どうしてわかるんですか」と応えられたことは多分二度以上はあったと思います。

そんな中、むむ、ひょっとしたらおれはそれほどクラプトンが好きではないと気づき始めたのは二三歳、大学を卒業した頃でした。

私と付き合いの長い方はおそらく同意していただけると思いますが、私は何に対しても「好き嫌いのコントラスト」があまりない方で、それはいいかどうかはともかく、生き方に大きく関係しています。
じゃあ、なんでそんなにいつもラーメンばっか食ってんだ、秋にはさんましか食わねえじゃねえかといわれれば、すみません、というしかありませんが、ちょっとここで触れるといつまでたっても進まないのでまたの機会にしますが、反論はできます。ただ、食べ物でも何でも、とくに嫌いなものもないし、好きなものも、世間のひとほど頓着しないというのが、基本的なスタンスだと思っています。「おたく」「マニア」はある意味、憧れなのです。

そんな私にとってクラプトンファンたちの話が二四歳の頃、なぜか「違う」と思われたのです。こちらはずっと、はっきり好きといえる、たとえばレッド・ツェッペリン、ジミー・ペイジなどと違って、クラプトンの話をしている時の私は、それほど嬉しそうではないのではないかと何となく気づいた、そしてそれは当時の偉大なロックアイコンのうち、ローリングストーンズなどにも感じ始めていました・・・

13:16

あっと、もう出かけなければなりません。
うれしい。
続きは今日帰ってきてから書きます。

・・・『ベルボトムブルース』をききながら
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