小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」-2

2009-05-04 23:03:28 | 音楽
(1万字を超えて入らず、「」の承前)

●「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」

と、くだらぬ昔話を書き連ねてきたが、『たとえばこんなラブソング』のたとえがあるように、誰かが死んだ時にもっともふさわしいのは、できるだけどうでもいい昔話ではなかろうか。それが身近な人でも、はるかなスターでも。
今回の訃報を知ったのは、そんなに清志郎に詳しくない同級生が送ってくれたメールである。ニュースをみる気はしなかったが、よくいっしょにテレビをみた弟からもメールが届いた。
それから1曲だけ。PCに入っている『空がまた暗くなる』をきいて、Mixiで4月16日以降に入ったばかりの「忌野清志郎  RCサクセション」コミュニティに続々連なる書き込みに、ネット社会でのスターの死というのはこういうことなのかと驚いた。朝には「1000」でいっぱいになった「訃報」というトピックに、「おとなだろ 知ってるはずさ 悲しいときも 涙なんか もう二度とは 流せない」という歌詞を書き込んだらちょうど200番。少しして寝てしまった。
すると、やってきたのは「何気ない朝」。そうだ、今日は天皇賞だ、清志郎の代わりに馬券買わないとなと、新聞を買いに行くとスポーツ紙の一面は清志郎とアサクサキングスに分かれていて、一応、清志郎が写っていた日刊スポーツを買ったのだが、考えてみると「どっかの山師」がいうことばかりでたいしたことは書いてないはずだから馬柱しかみなかった。今回ツインターボになりそうなテイエムプリキュアの3連複も買っておいたが、実際には逃げずにしかも3コーナーで下がっていったので、鼻血でも出したかなあ、と思ったりもした。
Mixiの日記にも清志郎関連の記事は多く、コメントを書いたりしながら、Youtubeやニコニコ動画などで知ってるも知らないのもずいぶんみた。そのどれもにも、日付の新しいコメントが積み重なっていく。そして考えた。「忌野清志郎」はどういう人物だったのだろうと。
ここであらためて日曜の日刊スポーツを取り出して癌による死を伝える以外の言葉を探すと、「日本を代表するロックスター」「タブーにがんに挑み」「ロックに託した社会メッセージ」「過激な歌で発売禁止も」「まさにライブの王者」いった文字が並ぶ。いずれも間違いではないし、こうして私自身の清志郎歴29年を振り返っても『COVERS』以降の「社会的ロッカー」イメージのウェートは大きい。とくに4月16日付で紹介した『赤い原付』や今回初めて知ったアルカイダーズなど、過激な笑いをまぶしての社会批判のあり方は誰にもまねできないだろう。
だけど私にとって何より「ミュージシャン」であり「ソングライター」で、社会的でなくても自分の歌や誰かがつくった歌を歌ったり演奏したりしていれば十分なのだ。
「ソングライター・清志郎」から語ろう。何しろ40年近いキャリアだから多少のスタイルの変遷はあるが、正統なポピュラー音楽の継承である音像に、日本文学の伝統上にある示唆に富んだ言葉を乗せるというかたちは一貫していたと思える。
多くの文学関係者が絶賛する清志郎の詩世界。「悪い予感のかけらもないさ」「調子に乗ってるぜ 運のいいエンジェル」「お月さまのぞいてる 君の口に似てる」「居眠りばかりしてたら 目が小さくなっちまった」といった宮沢賢治、稲垣足穂、寺山修司らを思わせるのような言語空間から、「金がほしくて働いて 眠るだけ」といったプロレタリア文学までを自由に動き回る。
そして『雨上がりの夜空に』に代表されるダブルミーニングの巧みさ。単語が次々に変奏される『楽(LARK)』には舌を巻く限りだが、私はずっと『スローバラード』の「市営グラウンド」はNYの「シェイスタジアム」をかけているのではないかと主張していて、大学の友人Sが酔ってRCの話をするといつも、おれは「月光仮面が来ないの」の意味がわかったぜといっていたように、ファンがあちこちに暗号を読もうとしてしまうのはさながらジェイムス・ジョイス作品だ。
これらの歌が、きき手の日々のテーマとなってしまう汎用性もすごい。バイトをしながら『ボスしけてるぜ』や『いい事ばかりはありゃしない』を歌った人は多いだろうし、後者を私はよくテストで苦しむ高校生にきかせた。ここ数日でもっとも取り上げられていた『ヒッピーに捧ぐ』を身近な誰かが死んだ時にきいた、歌ったという人は多かったし、私自身もねこのカロンタンが事故で死んで畑に埋めに行く時に口をついて出たのは『ヒッピーに捧ぐ』で、連れて来てくれたOGへのメールにはこのタイトルをつけて送った。
それでいながら、意外にほかの誰かが歌っても「清志郎の歌を歌っている」という感じを拭えるシンガーはめったにいない。記憶をたぐっても成功例は、テクニックと意外なアレンジ、歌唱の独特さでねじ伏せた感じの山崎まさよし『トランジスタ・ラジオ』くらいではないか。
一方で、清志郎自身はカバーが得意中の得意。前回紹介した矢野『ひとつだけ』や『COVERS』収録の名曲の数々、『デイドリームビリーバー』は日本ではすでに清志郎の歌だろう。ビートルズ Don't let me down は多くの人がカバーしているが、昭和の終わり頃に出た東芝のトリビュート盤『抱きしめたい』に入っていたチャボとのヴァージョンよりいい演奏をきいたことはない。
と、清志郎のことを長々と綴ってきた。なんだかいつまでも書いていられるような気もするけれど、きりがないのでそろそろ。すごいカバーと詞ということで、昨日初めてきいたこの曲のことを書いて締めくくろう。
MCも最高の『イマジン』(多分2005年のジョンレノン・スーパーライブ)

忌野清志郎 IMAGINE


『COVERS』で最初にクラスメイト三浦友和もコーラスで参加のこのカバーをきいた時、付け足された「ぼくらは薄着で笑っちゃう」というフレーズの詩としての力に圧倒された。何を意味するかは考えていない。アレンジとしては清志郎が何かいってた記憶はないレッド・ツェッペリン『天国への階段』を思わせる飛翔感のある展開に、「ぼくらは薄着で笑っちゃう」のリフレイン。
このフレーズが、シングルカットされた『つ・き・あ・い・た・い』のB面『窓の外は雪』のリユースだったということは今回検索していて初めて知った。そして「憲法九条を世界中に自慢しよう」という清志郎の発言を見つけた2009年憲法記念日の朝、そうか、「薄着」って「非武装」のことか、と勝手に思った。
清志郎の政治的発言の本当の意味はわからない。おそらくそれほど考えたわけじゃなくて、「世間知らず」らしく「君は若いね」といわれても、原発やら国家やら警察やらに、ひとまず反対していた、「ただそれだけで歌うぼく」だったろう。でも、「ぼくら何もまちがってない」からそれはきく者にまっすぐに届いて、「頭のいかれたやつら」や「信念を金で売っちまう おエラ方」の「うそばっかり」の世の中を撃つ。そうだ、「知ってることが 誰にも言えないことばかりじゃ 空がまた暗くなる」。
そして、そういう「メッセージ」が乗っているのはいつだって「あのいかれたナンバー」。緩いテンポの『イマジン』はジョンの歌の中でもかっこよく演奏するのが難しい方だと思うが、何度も歌ううちにスタイルができてきたのだろう。ここでは本家ジョンも「聞いたことのない」リズムを巧みに崩しながらから「甘いメロディー」を歌い、そこにドラムが、それも『イマジン』というより『ジョンの魂』を思わせるドラミングが加わってドライブ感を強め、「薄着」以降はまるで現代アメリカの若き過激姉弟デュオ、ホワイトストライプスばりに迫力あるエンディングは、54歳、まだまだみなぎっている。
ああ、もっとききたかった。「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」の歌を。
でも、もう新しい歌はきけない。死ぬっていうのはそういうことだ。こっちも「そのうち死ぬだろう」。けれどもそれまでは見ていられる。清志郎が見たのと「とってもよく似た夢を」。

(BGMはもちろん清志郎のいろいろ)
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「悪い予感のかけらもないから薄着で笑っちゃうほど調子に乗ってるぼくの好きな役立たずの神様」-1

2009-05-04 22:59:05 | 音楽
フジロック2002 Day2 グリーンステージのモニターで清志郎&矢野顕子 フィルムで撮った唯一の清志郎画像です。


週間日記は後回しで、この偉大な人物との三十年足らずの話を。
いつにもまして長大になりました。約9千文字あって途中だるいですが、すみません、カットしないで掲載します。

・・・

●1980
最初に知ったのは高校2年だった1980年。当時愛読していた「ロッキンf」で紹介されていた『ラプソディー』(1980年6月)のアルバムレビューだったと思う。けれど周囲に誰もRCのことを話す者さえいなくて、最初にきいた音源はおそらく、ニッポン放送かなんか、AMのCMできいた『トランジスタ・ラジオ』(1980年10月発売)のコマーシャルだったのではないだろうか。
今から思えば、当時のいわゆる「産業ロック」的なディストーションのイントロにそれから三十年近くきき続けるすっとんきょうなボーカルがかぶさり、
「ベイエリアから……(ずんずんずん)……リバプールから……」
という、学校の屋上と教室、それと英米を、青い空と電波で一つのものにする、日本ポップ史上有数の夢のような数秒がトランジスタのラジカセから流れ、誰だかはまったくわからない女の子が、
「う~ん、いい曲ー」
と、つぶやいて終わるそのコマーシャルを何度もきいて、ああ、あの目つきの悪いやつらはこういう歌を歌ってたんだと思った。
しかし、当時よくきいていたのは、レッド・ツェッペリンやプログレのオールドロックや、YMOやP-MODELなど日本のテクノポップ。1980年といえば、以後ずっと個人ベストワンに置いていたピーター・ガブリエルのサードはじめ、ケイト・ブッシュ『魔物語』、デヴィッド・ボウイの『スケアリー・モンスターズ』、PIL『メタルボックス』など当時の個人的洋楽重要盤もたくさん出た年で、国内でもYMO経由で知った大貫妙子などをきくのに忙しく、よくわからない目つきの悪いやつらにまでチェックは回らなかった。

●1981
しかしその後、RCブレイク直前の名作ライブ『ラプソディー』と『トランジスタ・ラジオ』の入った『PLEASE』(1980年12月)は、確か1本のSONY-BHF、90分テープに録音してきいていた。まだレンタルレコードはなかったから、誰に借りたんだったかなと記憶をたぐると、高校の同級生Ⅰに借りたのだったと思い出す。録音したのはジョン・レノンが倒れた12月より前だったか後だったか。とにかく、
「清志郎がいってたぜ、『群馬って毛深いんですよ』って」
と、どこできいたのかの名言をおしえてくれたⅠとは、それからずいぶんと清志郎の話をしてきた。

●1982
この2枚の入ったBHF、それと1981年11月っていえば高3で名目上は受験生だった頃かに発売された『BLUE』のこれもやっぱりBHFは、農村の地元の同級生たちとマージャンしながらもよくきいていた。この頃には熊谷にも深谷にもレンタルレコード店ができていて、『シングル・マン』や『EPLP』は友だちでなくレンタルで借りたように思う。
最初にRCをみたのは『BLUE』が出て高校を卒業して就職する同級生たちがだいたいはまだ親の車に乗り始めた頃、Jの家のクリーム色のサニーで行って、会場は通っていた高校からそう遠くない熊谷会館でなのだが、そのサニーのことをおぼえているのは、免許を取って間もないJが会場近くの電信柱かなんかにぶつけたからだ。といっても、「バッテリーはビンビン」で無事熊谷会館について、高校の同級生のⅠやKもいて、北関東の片隅の『ロックン・ロール・ショー』が始まった。
『よォーこそ』を歌った後だろうか、「クマガヤ・べぇいべぇ」といった後で清志郎がいった、当時はMCとは呼ばれなかったろうセリフを憶えている。
「いい道路ができたんで、あっという間に着いちまったぜ」
どうでもいいけど、検索すると「東松山~前橋」開通が1980年7月でこのことかな、熊谷に来るには東松山ICでいいから1975年には開通していたはず。要するに高校も出ていなかった私は、近辺の高速道路さえも知らなかったのだ。
そんなわけだからちゃんとしたライブにもそれほど行ったことはなかったし、その時のRCがどうだったかを伝えることはできない。すごいライブだったなんていえばうそになるのだが、その後も何度か客席で右手を突き上げた『Jonny Blue』の「じゃあ、いくぜ、今度は1万回だ!」も、もうこの時やってた。『the Dock of the Bay』から延々と続く『Sweet Soul Music』のインプロビゼイションではドクトル梅津だったのかどうかはわからないがサックス奏者と肉体的なパフォーマンスを延々と繰り広げていて、そういうものかと思ったし、そういえばその間奏部がオーティス・レディングの名曲だということも、おそらくⅠからきいたな。ついでにいうと『チャンスは今夜』のチャボは、その後もずっとそうだったように実直そのもの。『BLUE』で一番好きな『多摩蘭坂』は歌ったかどうか憶えていないし、その美しい名前の坂がどこにあるかも含めて、まだ何も知らない18歳だった。
高校を卒業したこの春、『い・け・な・いルージュマジック』が資生堂のCMソングとなる。話題になった「ヒットスタジオ」は家でみた記憶があるから、今日は清志郎と坂本龍一が出るからと早く帰ったのかも知れない。まだ家にビデオなんてなかった。
『ルージュマジック』というと、浪人時代の夜に家にいると自分が通っていた定時制に連れて行かれた中学の同級生Iが乗っていた親のローレルでよくきいた気がする。普段の車内では近藤真彦や中森明菜をかけていたIは熊谷会館にもいっしょに行った一人だが、ある時、めったにないことだったがうちの親のスターレットに乗って出かけてラジオ、当時だからAMをきいていたら『雨上がりの夜空』がかかったら、興奮してその頃の若者の乗車作法の一つである箱乗りで騒ぎ出したことがあった。この日本ロック史に残る名曲は、唯一のスタジオ録音が時代を感じさせる音なのが欠点だが、そんなことはIのように時間があれば車で動いてた若者たちには関係ない。「こんな夜にお前に乗れないなんて」というすばらしいフレーズは、その頃のほとんどの若者にも受け入れられていた。
そんなこの年、卒業したばかりの高校が28年ぶりに甲子園に出場したりして何もしないまま夏が過ぎ、まずいこのままじゃ浪人から抜け出せん、と思い始めた10月に『BEAT POPS』が出ている。なにやらカラフルなジャケットのこの盤は、何のテープだったか思い出せないようにあまりきかなかった。通っていた予備校近くのレンタル店で安いのがいっぱい売っていたことがきっかけで、キース・ジャレットなんかのジャズをよくきくようになっていたのだ。高校の同級生のIとは、この頃、『雨上がりの夜空』オープニングでやっていたことの是非を話し合った記憶があり、なんとなく『つ・き・あ・い・た・い』や『SUMMER TOUR』をライブできいたような気もするが、会場をいえないことからして行ってはいなかったのだろう。

●1983-87
大学生で実家を離れていた時期で、この間に発表された音源はあまりきいたおぼえがない。
『OK』(1983年7月)や『FEEL SO BAD』(1984年11月)は多分、レンタルすらしてない。はっきり憶えているのは、中森明菜も歌っていた『スカイパイロット』や『山のふもとで犬と暮らしている』が印象的な『HEART ACE』(1985年11月)だけ。デザインが変わったAHFにジャケットの記述にしたがって、HEARTとACEの間にハートマークを書いていた。
『THE KING OF LIVE』(1983年)は大学の友人Kの富士見が丘のアパートで『指輪をはめたい』をきいたのはおぼえているが、それより1986年頃、SONYベータのデッキを買った弟がダビングしていた映像をみた時の、どこかさめた感じの方が印象が強い。多少知識のついた今思えば、武道館の“広さ”や進化の途中でのっぺらぼうの白になってしまう機材に対応し切れていないキャメラのおざなりさゆえなのだろうが、ワールドミュージックなんかにも興味を示しながら、全体でいえば引きこもりぎみの学生生活に、清志郎は遠かったというのが実際だったろう。
この間、一度もライブには行かなかったけど、その中でおぼえているのは西国分寺に住んでいた姉一家に居候していた頃に通った国立の多摩蘭坂。夏の暑い昼、知らなくて通りがかって、「ふさわしく暮らしてる」のはこんな坂だったんだなと思ったのを憶えている。
そうだ、大学の時にやってたバンドでは、『よォーこそ』をヒントにしてロックンロール進行の小林亜星の名曲「ひみつのアッコちゃん」の終わりの歌をソロパートつきでよくやっていた。

●1988-1990
と、ここまで思い出してみると、一回り下のうさぎ年の自分にとって二十代前半まで清志郎とRCは、それほど重要なミュージシャンとはいえなかったという気がしてきた。もともと、それほどのめりこまない体質があるにしても。
この間、学校勤めをするようになり、授業で中学生と歌っていた stand by me をB・E・キングのオリジナル、ジョン・レノンに続き、じゃあ、日本人が歌うのもきいてみようと『HAPPY HEADS』のをかけていたら、CD録音のためボリュームが大き過ぎて怒られた失敗もあったが全体としてはそれほどきいていたわけではなく、大きく変わったのはやはりあの『COVERS』(1988年8月)騒動だった。
タイマーズが出てきた「ヒットスタジオ」(1989年10月13日)は弟と録画しながら生でみていたし、多分二度目で最後のRCのライブも確かこの年、大宮で、「これから発売する曲やっから録音よろしく頼むぜ」といってたライブをみている。まだ著作権もゆるかったのか音楽ビデオを置くレンタル店もあったので、絶唱の『ヒッピーに捧ぐ』、strawberry fields を挿入した『Sweet Soul Music』など残されたうち最高の演奏と思う『the TEARS OF a CLOWN 』や『コブラの悩み』などのビデオも借りて録画。よくみていた。
そしてRC最後のアルバムで、もっとも好きな『Baby a Go Go』。自身27歳の誕生日翌日に発売されている。ちなみにビートルズの最終アルバム『Abbey Road』が発売されたのは、資料によれば6歳の誕生日だったそうだ。
晴れた日の多かったこの秋、曲も歌詞もアコースティックなサウンドも極上の『Baby a Go Go』をよくきいた。そうか、アコースティックがいいなと、十三年ぶりに生ギターというか、セミアコで緑色の APPLAUSE も買ったほどだ。
今でも『Baby a Go Go』の、アコースティックな『I LIKE YOU』『ヒロイン』『あふれる熱い涙』『June Bride』『冬の寒い夜』、ポリス『見つめていたい』を思わせるポップな『空がまた暗くなる』などは大好きなのだが、心身ともに疲れ切っていて、仲のいい先生方とカラオケなどに行くと「何いってんだふざけんじゃね~」と清志郎の替え歌の替え歌で、世の中全体に文句をぶつけていた困った二十代後半は、『Rock'n Roll Showはもう終わりだ』の「Rock」を「教育」に替えて、『楽(LARK)』の「1日でも多く楽をしていたい」「ハゲシイこの職業 わずかでも多く 遠くを見ていたい」と歌っていたら、その『冬の寒い夜』が来る頃には学校にいなかった。
いまちょうど当時に買った2枚に分かれたベストをきいててかかったのは『すべてはALRIGHT』。こんな歌詞だったか清志郎が歌うのは、「夢を見るのは 悪いことじゃない」。
そういえば1990年有馬記念オグリキャップ・ラストランの前日、その8年前にサニーをぶつけたJと後楽園に出かけ、オサイチジョージからの馬券を買った後にドームでみたジョン・レノン50thアニバーサリー。清志郎はまずレニー・クラヴィッツの紹介のMCで登場し、自分の出番では「あにさん、ばーさん」の名訳『Help!』とこの日来ていたショーンのことなのか『カラスの赤ちゃん』を歌った。
そういえば、4月16日付「世界を肯定する『世間知らず』」で書いたように、「いやあ、おれ、今までなんか苦労ってしたことねえや」と口走ったのはこの頃のJほかとの会話で、その時Jがいった「だっておれ、もう8年も働いてんだぜ」という言葉は、今、同じ年代にある若いやつにもよくしている。

●1991-2009
それから現在の、これまた今かかっている名曲をもじれば『畑の真ん中でねこと暮らしている』生活の形成期に入るわけだが、その暮らしの中でもそれほど熱心なリスナーだったわけではない。
RC休止以降のディスコグラフィを確認すると、レンタルでなくCDを買ったのはチャボと久しぶりにステージに立った『GLAD ALL OVER』(1994年12月)と、確かどっかのディスカウントで安かったから買った『Rainbow Cafe』(1998年10月)だけか。むしろ「世界を肯定する『世間知らず』」でリンクを貼り付けたようにソロ以降は、多チャンネル時代を迎えて放送が増えたテレビでみたことが多かった。
前に貼り付けた「ナニワサリバンショー」などのほか、NHKでみた確か「段ボールなんとか」と名乗っていた障害者とのバンドなど忘れられないパフォーマンスは多い。すっかり有名になった自転車や一時やってた丹下左善のコスプレなど、ミュージシャン部門でない「タレント」としてもすごかった。
オグリキャップ前日以降、ライブは二度。
まず、1994年のクリスマス武道館。同年JRAの『競馬場で会いましょう』を出していたこともあってか当日行われたナリタブライアンが勝った有馬記念で、「おまえら当たったか、おれはツインターボだ、あいつはほんとは強えんだ」と、道中鼻血を出して失速した稀代の逃げ馬の話をして、その日は私もツインターボから買ったのでうれしかった。当時中日にいた川又米利選手が登場し、武道館のステージで黙々とスイングを披露していたのもかっこよかった。
もう一回はフジロック02。グリーンステージで矢野顕子と歌った『ひとつだけ』のすばらしさは4月16日付に書いた。
ということで、今回あらためて数えて全部で5回みている清志郎。出不精なので一人のミュージシャンとしては多い方で、もっとみとけばよかったとも思いつつ十分とも思う。
接触しようとしたのは一度だけ。これも競馬関連で年も憶えている、強いのか弱いのかまったくわからない逃げ馬サニーブライアンがダービーを勝った1997年で、つくっていた競馬のムックで誰か競馬好きな有名人に取材しようということになって、『競馬場で会いましょう』のある清志郎を推したのだ。
じゃあ、小林さん、依頼のファックスつくってください、ということになって当時はまだPC-98機で事務所向けの依頼文をつくり、どうせ断られるだろうしいうことだけはいっとこうと、下の方に手書きで次のような文を書いた。

「清志郎さんがツインターボを買ったといった1994年のクリスマス有馬記念の日。私は武道館にいました。馬券は外れたけど、その日武道館で清志郎さんと同じツインターボを応援していたと知り、自分は馬券が当たるより正しいことをしたのだなと幸せな気分になりました。よろしくお願いします」

馬券べたなりの予想からすれば、マネージャーかなんかが「清志郎さん、競馬の取材だそうですよ」、清「なんだ、そいつは」ってくらいで、清志郎の目に、どころか耳に「正しいツインターボ」が届いた可能性は低いと思うが、もし清志郎が「めんどくせえから取材なんかやんねえけど、ツインターボはいい馬だった」とか何とかいってくれていたらなんともうれしいのだが。

(入りきらず「2」へ)
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