2014年も無事終わりそうです。
深谷で1月に補助金による32ページの冊子というかたちで単著といえるものを出してもらったり、本庄でイベントだの素人劇団だのといった続けてきたことごとが少しずつ進展したり、熊谷では8月から15年ぶりくらいに月給をもらうことになったり。五十歳をこえればもちろん、時々はどこまでも続く壁のように不動な世界のかなしさ、微粒子のように気まぐれな人の心の摩擦に途方に暮れることはあったにしても、出来事のおおむねが「いいこと」であることはみなさんのおかげです。どうもありがとうごさいました。
2015年もきっと同じようなことをやっているのでしょう。
でもそんな中、確信してきたことがある。
どうやら今やりたいことのほとんどはできないということ、それと、きっとまわりの人々に「よい」と思うことをしていれば、世の中のところどころが「よく」なっていくこと、このふたつ。ああ、「たしかなこと」は気が落ち着く。
と、ここまで考えて、「近代」がわかった気がした。
よく、そんなの「近代以降」だろとか、「戦後になってから」じゃないかとか、「平成からこっちのことじゃないか」といってるその「近代」が何なのかを実はよくわかってなかったが、「きっとまわりの人々に『よい』と思うことをしていれば、世の中のところどころが『よく』なっていく」というまったく根拠のない確信こそ近代のきものひとつじゃないだろうか。
大晦日もわけのわからないことを考えてわけわからないことを書いている。
来年もたいしたことはできないから、できるだけ「それはできません」とはいわず、「できないかも知れませんけど、どうやったらうまくいくか考えてやってみましょう」といおう。
それでよい年になる。