デジタル写真のデータは『言葉』に似ている。
銀塩写真とデジタル写真の決定的な違いは、オリジナルが存在するかしないかだろう。
銀塩写真においてはフィルムがオリジナルとされる。写真家が自分で現像した紙焼き写真があるならばそれもオリジナルとされる。
だが、デジタルにおいてはオリジナルという概念じたいが成り立たない。
なぜなら、撮影した映像はデジタルカメラの内部で、ただちにコンピュータだけが読み取れる記号の羅列に変換されてしまう。銀塩と違い、映像そのものはどこにもない。その暗号のような記号の羅列を読み取る器械がないかぎり、人間の目に見える映像として姿をあらわす事はない。
デジタルカメラの最大の利点は、コピーの容易さと劣化がないことである。
デジカメの映像データはただの記号の羅列なので、情報を劣化させずにコピー出来る。
コピーするには、ただ間違わないように写し取れば良いだけで、そういうのはコンピュータの得意技だ。
その点フィルムは、リアセチルセルロースを素材としたフィルムの表面に銀の感光材を何層にも塗布した、、、ようするにペラペラの『物』なのである。『物』であるから当然にして劣化もする。また、現像にはそれなりの設備や手間。熟練なども要する。
デジカメのデータはただの記号の羅列である。ただの命令文だ。
人間が使う言葉じたいも、ただの記号である。
ところで、記号じたいには意味は無い。
デジカメのデータは、それを読み取る器械があってはじめて意味のある映像となる。
また、言葉も聞き取る人がいてこそ意味を生じる。誰も聞いていない独り言など自身の内省の役には立つかもしれないが、言葉としては意味を生まない。
己が発する言葉はただのデータである。
データとは記号の羅列だ。
聞き手がいないかぎり、データはただの記号の羅列にすぎない。
データに意味を与えるものは他人である。
言葉を聞く人間が『意味』を生むのだ。
独り言に意味は無い。
意味は受け手が創造する。
意味は世間や他人が創造するものであり、自分の言葉や生き様はただのデータのようなものである。
自分の生き様や言葉に意味は無い。意味を生み出すのは他人や世間だ。
ただ、デジカメのデータならだいたい同一規格で、ほぼ同じ意味の映像をデータから読み込んでくれるが、人間は人それぞれで全く同一規格ではない。
同じデータからでも人によって違う意味を生む。
自分をこう思って欲しいのにという望みを、そう思うまま他人に理解される事が人から理解される事ではないだろうと思う。
自分にとって、それは誤解だという理解のされ方さえ理解である。
自分の言葉や生き様などただのデータであり、データを解析するのは他人である。
同じ国籍で同じ言語を話していたとしても、相手は生身の人間なので、規格はすごく不統一である。その人なりにしか、自分は理解されない。
自分が思う自分など、記号の羅列だ。解読する他者がいなければ意味など生まれない。
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