「俺の経歴なんか話してどうなる?
俺を含め、人間の人生なんて無意味だ。過去にも意味はない。
存在そのものに意味ない者の成り立ちを話したところで時間の無駄だ」
「例えば初恋の人の甘酸っぱい思い出とか、幼き頃の懐かしい思い出とかさぁ。死神にだっていろいろと語りたい事とかあるんじゃないの?
そんなんを、せっかく聞いてあげようと思ったのに。聞いたげるよ!」
「中学生とはいえやはり女だな。そんな下らない事に興味があるのか?」
「なんだよ。じゃあいいよ話さなくて」
「いや、せっかくだから人生の意味について話そう!」
うわっ。また話が長くなりそうなお題目だっ!
「死の前においての平等。
死は全ての人に平等に訪れ、平等の安息を与える。
生命は誕生の瞬間に死の恩恵を受ける権利を手に入れる。
死は誰彼かまわず平等に、誰もが必ず死ぬ。
どんな素晴らしい人間で、どのような成功をおさめようとも死んだら死ぬ。そして、成功の記録も繁栄の記憶もいずれは土に返るだろう。
死の前においては、人生などいずれは無に帰る無意味なものだ。
人生の成功、人生の意味、人生の目的、すべて死の前では無意味でナンセンスで意味は無い!
だが、悲しむな。
それこそが真の平等である。大統領もホームレスも死の前においては同じく無意味な人生だ!
成功した者も、無力な者も、同じく無意味という平等。
それが、死の慈悲であり平等さである。
死は生命の終わりである。ゲーム・オーバーだ。
死の前では人生などゲームにすぎない。
社会生活を営む人間は、社会生活の枠組み。ゲームのルールにのっとって勝った負けたの言っているだけのただのゲーマーだ。
人生など、勝ち負けの枠で見るならすべてゲーム。
ニヒリズムと無常は真実であろう。
人生ゲームの勝者がいくら奢ろうとも、祇園精舎の鐘の音で、盛者必衰のことわりありだ。
だからこそ、死が救いになる。
どんな人生だって最期の結果は同じだ。
逆にいうなら、人生を悲観する必要など1ミリもない。
死という結末の前では、全ての人生は無意味。勝ち組も負け組もない」
「死が救いになるの?」
「そう死こそ救いだ。最大の平等である。死の前では全ての人生は同じく無意味であり、勝者をうらやむ必要もない」
「じゃあさ、なんで生きているの?」
「生きる事に意味なんかない。生きる事は生命の義務だ」
「ふーん」
「宗教も死の前では無意味である。
教祖から信者までみんな死んじゃったら、その宗教はたちまち廃れる。
神の実在は誰にも証明できないし、神を否定する事も誰にも出来ない。
だが、神を信じるという行為は、じつは現世の教祖なり神官なりの力を信じるという事だ。
宗教は力があるからこそ、信仰される。
誰が、力ない者が勝手にでっちあげた神を誰が信じるだろうか?
子供が勝手に作った神など誰も信じないだろう。だが、その神を否定する事はもちろん不可能だ。
神を信じること、イコール、神を奉る者の力を信奉することである。
無神論者とは、あらゆる社会的な力を否定する本当に真摯な生き方。
死の前で生命が成す行為は、種の存続以外すべて無意味である。
だが、あらゆる事が無意味となる事で、逆にナニがどうなろうとも無意味という自由が与えらえるのだ。
なにがなにまで無意味なのだ!
なんという幸せか!」
「じゃあさぁ、例えばだよ。
私が死神の事が好き。
彼女になりたいとか思ったとして、ソレも無意味?」
「えぁ?」