皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

意識が描く世界

2009-09-23 19:22:24 | 認知の歪み
パソコンを修理に出して数カ月、帰って来たかと思えば治ってなかったなんてことがあったりして、改めて自分自身の生活の一部をコンピューターに依存している事を感じるとともに、それが存在しなくても成立する世界を覗けたり、こうして携帯から繋ぐ事を覚えたり、それも世界のほんのごく一部だな、と感じる。

ヒトが意識を意識せざるを得なくなって一世紀。無意識の領域が年々狭くなっていたりする。

個体に到達する情報刺激というのは、そのひとつひとつを観る限りでは普遍的なモノと捉えることもできる。
とても不思議でアタリマエのことだが、ヒトというのは同一条件下においても、入力者によって取り込む際にも差異がでていたりする。
これは同一個体内に於いても実は同一ということはないのだろう。
体調しかり、時間しかり、経験しかり。
入力された刺激が処理される過程は簡単といえば簡単。みな同じといえば同じでもあるのだが、やはり個体差が大きく出てきたりする。
刺激Sが感覚器官より取り込まれ、神経回路を音速で通過し、脳の特定箇所で処理され、シナプス間の伝達を経て、各運動器官に音速で指令をだす。すると反応Rが出力される。

ヒトの生活における反応Rはその多くを意識というものが支配していたりする。

このような情報処理は無意識化下で行う場合回路はよりシンプルになる。

今いる自分は過去の連続体の集合の中に位置するが、その集合体は次の瞬間には変化している動的物質だったりする。

個体にふりかかる現実は、その刹那の意識に支配された現実のほんの一側面であり、実態を完全に把握するということはヒジョーにムズカシイ。
個体にとっては大きな事実であり、それが現実に反映される。
ヒトはそのアウトプットによってコミュニケートしていたりする。

小さな食い違いから大きな誤解。まあ色々とある。

簡単に考えていくと、そもそもが異なるということに行き着いたりする。
アウトプットにたいするアウトプット。伝言ゲームの様にズレていて当然。
大きくズレていても、まあお互い様であったりする。

ヒトが生きるというのは、そういう曖昧な世界の連続体。
それならば、自分も相手も気持ち良いだろうと妄想するアウトプットをするに越したことはない。

日々忘れがちな無意識を意識することは意外と大切なことだと思う。

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