ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

『美しく怒れ』岡本太郎 ~怒るとキレルは違う~

2011-11-15 23:57:09 | 

私は怒りん坊である
娘に付けられたあだ名は、「怒り(いかり)のぴーちゃん」。
事あるごとに「あれ、また怒っとる」とか、「あ~あ、テレビに怒っちゃているよ」などと茶化される。
しかし、娘に言わせれば、怒るためには膨大なエネルギーが内在していることが必要で
怒ることはまさにその膨大なエネルギーを放出することで
自分自身が生命力に溢れ、エネルギーに満ちていないと出来ないことなのだそうだ。
たしかに、そう言われてみると、好奇心と怒りの2つのエネルギーが
私を衝き動かす両輪になっていると言えるかもしれない。
ならば怒りん坊の私は、常にプンプンと怒っているか、ギャーギャーとわめき散らしているか
気に入らないことがあれば相手に言い寄ってネチネチと小言を垂れているかといえば
そんなことはない(と思う)し、私の怒りは「キレル」とか「ムカつく」と呼ばれるものとは違う(と思う)。
私は「キレ」たり「ムカつい」たりはしないし、それらの表現を日常において使うこともない。
私が専ら使うのは、「腹が立つ」とか、ひどい時は「はらわたが煮えくり返る」という表現だ。


電車の時間待ちの間に入った駅構内の書店に、岡本太郎(以下敬称略)著『美しく怒れ』があった。
恐らく、今年が岡本太郎生誕100年にあたるため、平積みにされていたのだろう。
岡本太郎といえば、私にとっては太陽の塔と「芸術は爆発だ!」という言葉に象徴され
飲兵衛の父を持った我が家に、ウィスキーの景品としてついてきた
岡本太郎の作品が底にレリーフになっているグラスがあったことぐらいしか思い出せない。
岡本太郎については、その程度のことしか知らないのだ。
かつて仕事で川崎市岡本太郎博物館に行ったことがあるが
博物館の展示・年表などを見ても、彼の思想やその背景を知ることは出来なかったし
知ろうともしなかった。
先日、たまたま本屋にあったこの本を手に取り、「はじめに」を読んで衝撃を受けた。
まず、文章の面白さ、表現の豊かさに魅了された。
そしてなによりも、まるで岡本太郎が目の前に存在しているかのように感じられるのだ。

 言いたいことは、上には言えない。それを下の者にぶつけ、大義名分のように、目くじらたてて怒鳴ったりする。この国で一般に通用している怒りの型だが、それはただの腹いせ、憤りではない。

そう、まさしくそのとおり。
当ブログ記事『怒鳴られるのは私だけ?』でも書いたような行為は
腹いせ、憂さ晴らし、八つ当たり、個人の腹の虫の問題だったりするのだ。
そう考えると、この国では本の題ではないが「美しく怒」れる人は数少ないということか。
さて、私はどうか
岡本太郎はこうも書く。

 人間一匹は非力かもしれない。しかし、だからといって腰をぬかすことはない。皆さん、どうしてこう、無気力で、筋をとおさないのだろう。世の中がつまらない、と言うのは、自分がつまらないことなのだ。

だからといって、「一人でいいのだ」などと、岡本太郎は言ってはいない。
怒ることによって生身の人間同士がぶつかり合い、情熱を投げ合って
「そのめくるめくあやの中に、互いに平気で、ふくらんでゆくべきだ」と述べているのである。
憤りこそ、最も純粋な人間の証であり、人間行動の最初のモチーフだというのだ。
う~む
つまり「怒り(いかり)のぴーちゃん」は、純粋で原初的な人間ということか
それにしても、岡本太郎は面白い人だ。
存命のうちに会っておきたかった、と強烈に思う、今日この頃である。



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4 コメント

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岡本太郎好き。 (ぽぴ)
2011-11-16 10:42:16
私も好きですよ。作品も好き。発せられるエネルギー感が独特。自分とは全然違うし、自分では絶対に使わない色、形、表現で、そこも好き。
青山の「こどもの城」の前にもあるよね。
にょきにょきしたもの。

子供たちがこの間、川崎の博物館に、祖父母に連れて行ってもらったようです。特に2番目の娘が惹きつけられていたようです。

母親の岡本かの子さんが、執筆中にまだ小さい太郎さんがどこかに行かないよう、長ーい紐でふたりの体をしばりつけて、母は書き、息子は好きに遊んでいたという話が、なんだかやけに記憶に残っているような。「おっ、それいいかも」とか思ってたような。「長い」ってところがいいなあと。
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実は私… (ぴすけ)
2011-11-16 18:18:16
岡本かの子は、太郎にそんなことをしていたのですか。初めて知った
実は私、娘に同じことをしていました
それは、室内ではなくて外で。まだ幼かった娘は、興味が旺盛なうえ、歩けるようになってからは自分の足で歩きたがり、手をつなぐことをとても嫌がりました。ちょっと興味を惹くものがあればそちらへチョロチョロ、何かを見付けるとそちらへチョロチョロ、危なっかしくてなりません。
拘束しようとすると、すさまじい抵抗に合うので、苦肉の策として、ボストンバッグについているショルダーベルトを外し、いちばん長くしてジョイント部分を私と娘のベルトに引っ掛け、外を歩いていました。
娘は、会う人会う人に丁寧に立ち止まりながらお辞儀をし、挨拶をしていました
ベルトでつながれた親子がフラフラ街を歩いていて、子供はあっちへチョロチョロこっちへチョロチョロ、会う人会う人に挨拶する様子は、何かに似ている…
猿まわし

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なんか、記憶の美化だったかもー (ぽぴ)
2011-11-18 10:55:56
ごめん、もしかして、私の記憶違いかも。
私の中ではすっかり「猿回し姿」だと思っていたのだけど、ネットで少しみてみたら「岡本かの子 太郎 紐」(なんというキーワード!)、かの子は自分の体ではなくて、「たんす」とか「柱」にしばりつけてたらしい。。。首輪をつけて柱に。。と書かれている記事もあり、まあ真実はわからないのですが、全然私のイメージとは違っていたようです。柱や箪笥だったのか・・・。

たんすや柱はともかく、親子の体同士をつないで猿回しは、笑えていいもんだと思いますよー。ほのぼのしてて。
実は私もやりました、長女で。博多に出張していてみつけた小さなリュックに、それ用の紐がついてて、早速購入!ぞうさん付きのリュックを子供にしょわせて、そこに長めのストラップがつき、親側の先端にはバナナがついている。「ぞうさんがバナナ食べたいってー」というと、リュックつきの子供が時々戻ってきて、パクっとやって、また放牧。便利だった。
やはり、はたからみれば猿回しだったと思う。

長女にしか使わなかったけど。

なぜって、次女はそんな長さでは足りず、大声で呼ばなきゃ止まらないし、三女に至っては呼んだって振り向きもせずはるか彼方まで突進していくので、こちらも一緒に走るしかなかったので。ちょろちょろしてると思い込んでた長女のちょろちょろぶりなんて、全然かわいいものだったのだと、後で思い知ったのでした。

思うに、最初の子って、勝手に行っちゃうようでいても、結局少し行くと振り返ってちゃんと親の様子をみながらやっているところがあると思う。実際親も不慣れだから、そうしておいてもらわないと大変だし。
下の子は、親が絶対自分らを放っておくわけがないと微塵も疑わず、ずんずんずんずん行く。親もそれなりにスキルアップ?しているから、大して見ていない割にはなんとか対応できちゃう、この繰り返しにより、ますます怖いものなしに。

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娘のつぶやき (ぴすけ)
2011-11-18 17:55:47
ぽぴさん、ぽぴさんも猿まわしをしていたのですか
え?違う?

実は、『美しく怒れ』を読んでから、岡本太郎の著述に興味を持ち、他の本も読んでみました。昨日読んだ本の中に、ぽぴさんが教えてくれた太郎つながれ作戦の話が出ていましたので、次のブログでご紹介します。

猿まわしの記事を読んだ娘は、自分が猿に擬えられていることを承知のうえで
「猿まわし?猿まわしをしているんだか猿にさせられているんだか…」などとブツブツ言っていました。
なるほど、ぽぴさんはバナナを使って見事に猿まわしをしていますが、私の場合、猿の行くところへあっちへフラフラ、こっちへフラフラしていました。
娘の言うとおり、まわされていたのは私だったのだと思います
ってことは、私が猿

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