ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

姜尚中『続・悩む力』 ~悩む力ではなく考える力を!~

2012-09-12 10:42:38 | 

2008年5月初版の『悩む力』は、2008年6月30日の私の記事で皮肉たっぷりに取り上げたが
『続・悩む力』は、その後の東日本大震災によって出現した「巨大な断層」を目の当たりにした著者が
悩める近代を生きる手がかりを夏目漱石に求めて
漱石の書き残したものをテキストにし、より掘り下げた力作である。
さらに、漱石の思想に強く影響を与えた心理学者・ウィリアム=ジェイムズ
人間の定義を「ホモ=パティエンス」(悩む人)であると提唱した精神医学者・V.E.フランクルを紹介し
彼らの思想や試みに触れるとともに、「二度生まれ」について考察している。
著者は、悩める近代をよりよく生きるための解として「二度生まれ」があり
「私はあの三月十一日の経験を、どうしても『二度生まれ』の機会にしなければならないと思うのです。」
と、述べている。


著者は『悩む力』で
「私はいま、いまだかつてないほど開き直っていて、大げさに言うと、矢でも鉄砲でも『持ってこい』という気分になることもあります。」
「若い人には大いに悩んでほしいと思います。そして、悩みつづけて、悩みの果てに突き抜けたら、横着になってほしい。そんな新しい破壊力がないと、いまの日本は変わらないし、未来も明るくない、と思うのです。」
と、述べているあたりは、まさしく開き直りであり
開き直りではおさまらず、若者に対して横着になれとまで奨めている。
でもね、姜さん、本人は「まじめ」に悩みに悩んで突き抜けたと思っていても
「ああ勘違い」なだけで、独りよがりの「はためいわく」だったらどうするのかね?
ところが、『続・悩む力』では、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故による衝撃か
威勢のいい言葉はなりをひそめ、淡々とした記述に著者の「まじめ」な姿勢を感じる。
カタカナ言葉の濫用で、読者を悩ませることに反省したのか
カタカナ言葉の扱い方を改善し、読者を置いてきぼりにしないように工夫した点もよい。
もともと「まじめ」である著者だが、東日本大震災と自身の還暦を機に
「悲劇的ヒューマニズム」を受け入れたいと思うようになったそうで
それが筆致にも影響を及ぼしているのだろう。
個人的には、『続・悩む力』は『悩む力』を凌駕する内容であると評価している。


ただ、とても不思議に思うのは、多くの人が陥る過ちに著者もはまってしまっている。
これは、過ちだと気づいていないのか、「過ちでもいいじゃないか!」という開き直りか
都合よく、あるいは無意識に使い分けているか、なんともいえないが
私としては、こここそ「悩む」のではなく、よくよく「考えて」ほしいところだ。
なぜ、「悩む力」なのか。
「悩む力」ではなく、「考える力」こそ、問われるのではないのか。
なぜ「宗教的」な「意味づけ」を求めたがるのか。
宗教は「信じる」ことで、「考える」ことではない。
「信じ」なければならないような「意味づけ」に、なんの意味がある(ハハハ)。
謎は謎として疑い、考えられ(探究され)続ければよいではないか。
語り得ないことに真理は宿り、意味などなくてもよいではないか。
私には不思議でならない。
多くの人は、とりあえず「意味づけ」されたものを「信じる」ことで安心を得たいのだろう。
そうでないと、不安を抱えながら物事に向き合い、一つ一つ考え続けなければならない。
これは相当な胆力を要するが、している人はいる。
ふと、なだいなだが書いていたことを思い出した。
人間は、行き着く先が危険であろうと現在の安心を求め
行く末が安全でも現在の不安を嫌う。
「悩む」か「考える」か、「信じる」か「疑う」か
あなたは、どう生きる?



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。