ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

『自分の中に毒を持て』岡本太郎 ~親と子のありようを考える~

2011-11-18 21:09:21 | 

『美しく怒れ』を読んでから、岡本太郎(以下、敬称略)の著述に大いに興味を持った私は
ほかに2冊、岡本太郎の著書を買って読んでみた。
1冊はここで御紹介する『自分の中に毒を持て』で
もう1冊は『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている』である。

この、『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている』は、寄せ集めのエッセイ集だが
両親のこと、おいたち、渡英・在仏のこと、周りのもろもろのことが書かれており
岡本太郎の背景の一部を知りたいのであれば、手ごろな本だと思う。


さて、前出の記事にコメントを頂戴したぽぴさんの記憶では
岡本太郎は幼少のみぎり、母・かの子に長い紐でお互いの体をつながれ
その紐の範囲で遊んでいたらしいということであった。
たまたま、昨日読み終わった『自分の中に毒を持て』に、それに関する箇所があった。
ぽぴさんのように、岡本太郎にも記憶の美化があるかもしれないが
御本人が書いているのだから、第三者の伝聞などより真相に近いものと思われる。

 そのように精神的には対等に激しくぶつかって来たが、いわゆる母親らしく面倒をみたり、べたべた可愛がるということは全くなかった。一日中、机に向かっている。ときには、あまりうるさいと、ぼくを兵児帯で縛って、箪笥【註1】の鐶に結びつけてしまう。いくら泣きわめいても、知らん顔で背を向けて本を読んだり、字を書いたりしている。
 画家の中川一政さんなんか若い頃うちに遊びに来て、犬っころみたいに柱につながれているぼくを見たと言って、ときどきぼくをからかうが。
 ぜんぜん相手にしてもらえないのは恨めしかったが、しかしぼくはその何もしてくれない母の黒髪をばさりと背にたらした後姿に言いようのない神聖感、一体の親愛を覚えていた。強烈な思い出だ。

また、『人間は瞬間瞬間に、命を捨てるために生きている』では、次のように書かれている。

 私の三、四歳の頃のことである。父が新聞社に出勤してしまって、一日中、家には母と私しかいない。母はいつでも机に向って書きものをしていた。後年、博識として驚かれたのも、この絶え間ない勤勉と努力の結果であるが、しかし、いたずら盛りの私は、決して母を静かにさせてはおかなかった。攻撃目標は母の背だ。よじのぼって、後れ毛を引っ張る。こんなつまらないことに限って、よく覚えているものだが【註2】、母は勉強することが出来ないので、窮余の一策、私を細紐で箪笥に結えつけてしまった。
 小学校に通うようになっても、私のやんちゃ振りはひどくなるばかりで、奇行が多かった。しかし、私の方からいえば、傍から「太郎さんはよく育った」といわれた位、放置されたまま生い育ったのである。

そんな育ち方をした岡本太郎だが、「ぼくなんかまさに放し飼い教育。
親には全然相手にしてもらえなかった。それがぼくにはよかったとつくづく思う」
一方で
「人間の辛さというのは、つまらぬことでも覚えていること、忘れられないことだと思う」
とも書いていて、恐らく幼少時には、親に相手にされなかった寂しさを強烈に感じていたのだろう。
成長し、親として、子としての役割が終わった時点で考えてみると
「それがぼくにはよかったとつくづく」思えるようになったということだろう。
岡本太郎はいつからか知らぬが、母を、父を、一人の人間として見ることが出来るようになったのだ。


親も子も、関係は続くが、役割を終える時が来る。
私だとて、親にわだかまりを持った時期はあったのだ。
娘も、私にわだかまりや恨み、憎しみを抱いた(抱いている)のだ。
だが、この憎しみを通り抜けて一人の人間として対峙した時
いろいろ欠陥はあっても、どこかに魅力のある人間として向かい合いたい。
岡本太郎の著述に限らず、いろいろな親子のありようを考える時
私はすぐになだいなだ著『親子ってなんだろう』を読み返すのだ。

私の場合、母性に欠陥があるようで(父性はある
子供を千尋の谷に突き落とすのが早すぎたきらいがあるが
そうした親子間の別れを、なだいなだはこの本で、次のように書いている。

 だが、別れられない親子は、たくさんいる。親子の憎しみあいが、こわいというのも、一つの原因だ。別れなければならないことは知っている。しかし、できるなら、はげしい、血みどろのあらそいを避けたいと思う。それも人情だろう。そこで、親のほうが、この衝突を、避けよう避けようとしてしまう。(中略)
 この憎しみあいは、ある意味で、不可避で、通りぬけねばならぬものだ。通りぬけてこそ、親子のあいだに、親子の愛をぬけだした、一人の人間と一人の人間の愛が見つけられるのである。
 この憎しみのとき、私は、エラスムスの愛と憎しみについての、次の格言を思い出してもらいたいと思う。

  いつかはまた憎むようになるものとして愛し、いつかはまた愛するようになるものとして憎め
                              (エラスムス、宮崎信彦訳)


私自身、飲兵衛のうえに、ここ一番という時に腰が引けてしまい
さらにはバカがつくほどお人好しのためにいろいろと問題を起こした父に対して
思春期はもう本当にどうしてくれようかと考えていたし、長じてからも積年の憎しみはあった。
だが、私の場合は、父の病気がきっかけで一人の人間として対峙することが出来た。
親としてというより、一人の面白い人間として見ることが出来た。
それは、父のみならず、母に対しても同様である。
母はまだ、健在なので、時々困ることもあるが
笑ってやり過ごせるようになったのだから、たいしたものである


【註1】たんすの「箪」の字は、本字がないため略字にて掲載した。
【註2】下線部は、後述の引用がわかるように、強調のため筆者が加えた。



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