つい先日、笹駅(「塚」ではなく「」)で下車した時に、ショッピングモールを歩いていて驚いた。もう例の飾りつけが行われている。
あまりはっきりとは主張していないが、この消費欲を煽る「赤・白・緑」の組み合わせは、紛れも無く12月の例の祭祀を目指したものである。まだ二ヶ月も早い。しかし、それどころか、聞くところによると、9月中旬からこうした飾りつけを行っているところもあるらしい。日本人のフライング具合が伺える。
そもそも、飾りつけを行う多くの者にとって、キリスト教はあまり関係ない。故に、待降節にも入っていないうちから飾りつけを始めるのである。しかし、宗教と全く関係しないわけではない。これらの行事は、我々日本人のほとんどが信仰する宗教に基づく祭祀なのである。この宗教を、「資本主義市場経済」と謂う。
「資本主義市場経済」とは、大まかに言えば、個々人のほぼ自由な生産・販売と購入・消費によって経済がうまく回る、という信仰である。多くの国で、前世紀からこの宗教を国教に据え、いくつかの紆余曲折を経ながらも、何とか信仰を保って来た。近年では、建前としては別の宗教を国教としながらも、「社会主義市場経済」という「マリア観音」の如きカムフラージュを用いて、実質上は「資本主義市場経済」へ移行している国もある。
しかし、キリスト教が「神の恩恵」を前提としているのと同様に、この信仰にも一つの前提がある。それは、「市場規模が拡大し続ける」ということである。
この宗教では、既存産業の生産効率化と市場規模拡大とが均衡を保つ必要があり、特に者が後者を大きく上回った場合、強烈なデフレと膨大な数の失業者が生まれ、この宗教システムは崩壊の螺旋階段を一気に転がり落ちることになる。飽和した状態の市場に於いて、生産の効率化は従業員の削減につながり、従業員の削減はそのまま市場の縮小となり、市場が縮小すれば従業員を減らすことになる。
これが生産技術・システムの進歩によって多くの産業で起これば、雇用者たちが資本を蓄積しながら資本主義が破壊されるという矛盾した結末に到るのだ。
幾度かの危機はあったが、幸いにしてこの宗教が今まで残っているのには、いくつかの原因がある。
まず、その早期には、市場を拡大する余地が多く残されていたこと。当時、西洋諸国にとっての所謂「未開の地」に市場を求めることによって、その確保のために熾烈な植民地獲得競争を引き起こしながらも、資本主義をうまく育てることができたのである。
第二に、その中期には、従業員への賃金拡充と手厚い保障によって、購買力・購買意欲のある中間層を育てたこと。これは自動車産業を代表とし、フォード社がこれによって発展し、GM社がこれによって破産に到ったのは、今昔の時代差をよく示す事例である。
第三に、その後期には、「社会主義」という異教との宗教戦争が続いたことである。互いの欠陥を指摘し合いながら、相手の全体主義に対抗するために自らも全体主義色を強め、それによって社会全体で自由と統制のバランスを確保しようとしたことが、資本主義市場経済教陣営にとってうまく機能した。また、宗教論争を通じて、自らの宗教を盲信するのではなく、ある程度の懐疑心を以って信仰を見直すことができたのも、プラスであったと考えられる。
そして、全期間を通じて、快楽の開発が普段に行われ続けていることも大きい。新しい快楽を開発することは新しい需要を生み、そこに市場拡大が生まれる。最近の事例で言えば、インターネット産業がその代表格であろう。インターネットが無かった時代でも人間は特に問題なく生きていけたのだが、今ではこれが無いと非常に不便・不快を感じるようになっている。ここに大きな需要が生じ、雇用が生じ、市場規模を拡大したのである。
これからどのようになっていくのかは分からない。ただ、日本国内について言えば、じわりじわりと市場縮小の闇が迫って来ているのは確かであろう。余程大きな創造・変革がない限り、ほとんどの産業分野に於いては限られたパイの中を食い合う時代に入って来ている。特に百貨店・スーパー・コンビニのようなマルチな小売店は、人口縮小や非正規雇用増加などによる中間層の購買力低下による影響をもろに受ける。
この閉塞感の中で、何とかして「神頼み」ならぬ「市場拡大頼み」を行うのが、どの宗教にも共通する「祭祀の開催」である。かつて旱魃の度に雨乞いを行ったように、かつて疫病が大流行した時に教会に通いつめたように、資本主義市場経済教でも「神」にはすがらないが「市場拡大」にすがって、多くの祭祀を催す。
以前から「クリスマス」「お歳暮」「正月」といった祭祀はあったが、近年ではそれらのキャンペーン規模を拡大すると共に、「ハロウィン」「節分」「バレンタイン」といった新たな祭祀を加え、「節分の日は恵方巻」と言った具合に何とか消費を煽ろうとする。
年々クリスマスの飾りつけが早くなるのも、苦しい現状から何とか逃れるべく、資本主義市場経済教の祭祀を充実させ、それによって「市場拡大」の恩恵を得ようとする努力なのである。
10月も末になり、オレンジと黒で飾り付ける祭祀をあちこちで見かける。11月は今のところ特に何も無いが(そのうち新嘗祭に絡めて何かキャンペーンが生まれるかもしれない)、資本主義市場経済教の年間行事中最大の祭典である例の祭祀のために、街中で電球や赤白の装飾を見ることになるだろう。
苦しい時の祭祀頼みは昔も今も変わらない。昔の信仰心厚き人は寺院や教会で祈りを捧げたものだが、今の信仰心厚き人はデパートやレストランで商戦を盛り上げる。一見すると軽薄になったようだが、社会システムの根幹たる宗教を維持するという点では、本質的には変わらない。信ずる者に幸あれ。
あまりはっきりとは主張していないが、この消費欲を煽る「赤・白・緑」の組み合わせは、紛れも無く12月の例の祭祀を目指したものである。まだ二ヶ月も早い。しかし、それどころか、聞くところによると、9月中旬からこうした飾りつけを行っているところもあるらしい。日本人のフライング具合が伺える。
そもそも、飾りつけを行う多くの者にとって、キリスト教はあまり関係ない。故に、待降節にも入っていないうちから飾りつけを始めるのである。しかし、宗教と全く関係しないわけではない。これらの行事は、我々日本人のほとんどが信仰する宗教に基づく祭祀なのである。この宗教を、「資本主義市場経済」と謂う。
「資本主義市場経済」とは、大まかに言えば、個々人のほぼ自由な生産・販売と購入・消費によって経済がうまく回る、という信仰である。多くの国で、前世紀からこの宗教を国教に据え、いくつかの紆余曲折を経ながらも、何とか信仰を保って来た。近年では、建前としては別の宗教を国教としながらも、「社会主義市場経済」という「マリア観音」の如きカムフラージュを用いて、実質上は「資本主義市場経済」へ移行している国もある。
しかし、キリスト教が「神の恩恵」を前提としているのと同様に、この信仰にも一つの前提がある。それは、「市場規模が拡大し続ける」ということである。
この宗教では、既存産業の生産効率化と市場規模拡大とが均衡を保つ必要があり、特に者が後者を大きく上回った場合、強烈なデフレと膨大な数の失業者が生まれ、この宗教システムは崩壊の螺旋階段を一気に転がり落ちることになる。飽和した状態の市場に於いて、生産の効率化は従業員の削減につながり、従業員の削減はそのまま市場の縮小となり、市場が縮小すれば従業員を減らすことになる。
これが生産技術・システムの進歩によって多くの産業で起これば、雇用者たちが資本を蓄積しながら資本主義が破壊されるという矛盾した結末に到るのだ。
幾度かの危機はあったが、幸いにしてこの宗教が今まで残っているのには、いくつかの原因がある。
まず、その早期には、市場を拡大する余地が多く残されていたこと。当時、西洋諸国にとっての所謂「未開の地」に市場を求めることによって、その確保のために熾烈な植民地獲得競争を引き起こしながらも、資本主義をうまく育てることができたのである。
第二に、その中期には、従業員への賃金拡充と手厚い保障によって、購買力・購買意欲のある中間層を育てたこと。これは自動車産業を代表とし、フォード社がこれによって発展し、GM社がこれによって破産に到ったのは、今昔の時代差をよく示す事例である。
第三に、その後期には、「社会主義」という異教との宗教戦争が続いたことである。互いの欠陥を指摘し合いながら、相手の全体主義に対抗するために自らも全体主義色を強め、それによって社会全体で自由と統制のバランスを確保しようとしたことが、資本主義市場経済教陣営にとってうまく機能した。また、宗教論争を通じて、自らの宗教を盲信するのではなく、ある程度の懐疑心を以って信仰を見直すことができたのも、プラスであったと考えられる。
そして、全期間を通じて、快楽の開発が普段に行われ続けていることも大きい。新しい快楽を開発することは新しい需要を生み、そこに市場拡大が生まれる。最近の事例で言えば、インターネット産業がその代表格であろう。インターネットが無かった時代でも人間は特に問題なく生きていけたのだが、今ではこれが無いと非常に不便・不快を感じるようになっている。ここに大きな需要が生じ、雇用が生じ、市場規模を拡大したのである。
これからどのようになっていくのかは分からない。ただ、日本国内について言えば、じわりじわりと市場縮小の闇が迫って来ているのは確かであろう。余程大きな創造・変革がない限り、ほとんどの産業分野に於いては限られたパイの中を食い合う時代に入って来ている。特に百貨店・スーパー・コンビニのようなマルチな小売店は、人口縮小や非正規雇用増加などによる中間層の購買力低下による影響をもろに受ける。
この閉塞感の中で、何とかして「神頼み」ならぬ「市場拡大頼み」を行うのが、どの宗教にも共通する「祭祀の開催」である。かつて旱魃の度に雨乞いを行ったように、かつて疫病が大流行した時に教会に通いつめたように、資本主義市場経済教でも「神」にはすがらないが「市場拡大」にすがって、多くの祭祀を催す。
以前から「クリスマス」「お歳暮」「正月」といった祭祀はあったが、近年ではそれらのキャンペーン規模を拡大すると共に、「ハロウィン」「節分」「バレンタイン」といった新たな祭祀を加え、「節分の日は恵方巻」と言った具合に何とか消費を煽ろうとする。
年々クリスマスの飾りつけが早くなるのも、苦しい現状から何とか逃れるべく、資本主義市場経済教の祭祀を充実させ、それによって「市場拡大」の恩恵を得ようとする努力なのである。
10月も末になり、オレンジと黒で飾り付ける祭祀をあちこちで見かける。11月は今のところ特に何も無いが(そのうち新嘗祭に絡めて何かキャンペーンが生まれるかもしれない)、資本主義市場経済教の年間行事中最大の祭典である例の祭祀のために、街中で電球や赤白の装飾を見ることになるだろう。
苦しい時の祭祀頼みは昔も今も変わらない。昔の信仰心厚き人は寺院や教会で祈りを捧げたものだが、今の信仰心厚き人はデパートやレストランで商戦を盛り上げる。一見すると軽薄になったようだが、社会システムの根幹たる宗教を維持するという点では、本質的には変わらない。信ずる者に幸あれ。
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