倉敷の街には画家が多く、天気がよければあちこちで描いている人を見かける。昨日のおじさんは商売だけど、それ以外の人は好きで描いているアマチュアだと思う。この人たち、絵を覗いても動じないし怒らない。だから外で描いているのかも知れないけど、子どもの頃学校で写生大会をしたとき、ほとんど全員が自分の絵を見られたくなくて隠していたのを思い出すと不思議な気持ちになる。絵も千差万別で、水彩あり油絵あり、印象派風からえらくデフォルメしたもの、写真のような精密なものまで個性がある。大部分は日本人の好きな印象派風なんだけど、自分にとって好きな作風ってのはあまりない。でもみんな誇らしげだ。これはすごいことだと思う。
写真を撮り始めた頃、自分の写真に自信がなかった。自分ではいいと思った写真も人には評価されなかった。人が評価する写真の良さが今ひとつわからないことも多かった。芸大に何度も落ちた池田満寿夫が、「芸大は自分の芸術がわからない」と言って無視したなんて言っていたけど、自分の写真の良さのわからないやつなんかどうでもいいさなんて思ったこともある。でも今は違う。
人が褒めてくれようと、評価されようとされまいと、そんなことはどうでもいい。自分が撮りたくて撮っているし、写真の半分は記録である。芸術の香りがするのもいいけど、子どもがべそかいている写真も、朝市で魚屋さんが威勢よく売っている写真も全部素敵だ。コンテストで賞を獲ることとかが目的の人はそういう写真を撮ればいいし、それは立派なことだと思う。私はそうではなく、撮りたいものを自分の好きなように撮って楽しむのがいい。そう思うとカメラを持つのが楽しい。ファインダーを覗くのが楽しい。日曜画家たちも同じ気持ちじゃないのかなと思う。自分の楽しみを人の言葉に左右される必要はない。自分を高めるためにアドバイスを貰うのはまた別の話だ。
この時はこの画家さんに目線を貰いたかった。こっちを向いてくれないかなと思いながらカメラを構えた。数枚シャッターを切った中にこの写真があった。目線をくれたのかなぁ。私なんか眼中になく、絵のために風景を見ていただけなのかも知れない。たぶんこの人、自分が見られていることなんてどうでもいいと思っているに違いないから。