初めて見ました、牛の碁盤乗り。
倉敷チボリ公園を県民公園化しようという方針があるそうで、私は地域で楽しめる公園というのは賛成なんです。ここを色々なイベントに使って何とかフェアみたいな展示スペースとして使うといい。人も来るし、まわりの人も喜ぶ。人が多い方が観光に来た人も楽しいしね。
この前の日曜に新見フェアをやってくれたことを書きましたけど、新見ってのは割と有名な特産物があるのです。その中の一つが草間の日本そば。ソバ畑がずーっと並んでいて花の咲くときはなかなかきれい。ソバ打ち体験もできて私も一度やってみました。職人さんが教えてくれるんだけど、職人すぎて、あれはダメ、そこは違うと注文しすぎ。気持ちはよくわかるけど、初めての人にそこまで要求するのはどうかなと思いました。
もう一つはなんと言っても千屋牛。この和牛は本当に美味しい。その分値段も高級なんですけどね。そんな牛の多い地域なのですが、元々トラクターが出来る前は、「牛=畑の耕作者」だったわけで、単に肉を食べるためのものだけではなかったわけです。ところがこの牛と言う生き物、狭いところが苦手で、まっすぐとあぜ道を歩いたりするのも嫌いらしい。だから調教が必要なわけで、その調教のやり方には簡単なものから高度なものまで様々なレベルがあったそうです。その高度な調教方法の一つがこの碁盤乗りだったとのこと。(以上のことは新見北高校の生徒が説明してくれました。)
トラクターが出来、耕す力として牛を使わなくなってこの技術が失われていたのですが、10年ぐらい前から取り組んだこの高校が見事復活させたのだと教えてくれました。
この牛(たぶん雌牛)は8歳で、2歳の時から乗っているのだとか。
高校生たちが何度か乗せて見せてくれましてヤンヤの喝采でした。この高校、農業高校なのかどうか知りませんけど、みんなまじめないい子たちのようで、髪の毛も黒く、実に誠実に一生懸命やってくれました。将来酪農とか農業で生きていくのでしょうか。現実を考えるとなかなか厳しいと思いますが、どうか天が彼らに味方してくれますようにと祈りました。
いつも思うんだけど、こうやって愛情をかけて育てた自分の牛が肉にかえられるのって育てた人はどう思うんだろう。自分の育てた牛が美味しいと言われるのはうれしいんだろうけど、命を落とさねばならないのはどうなのだろうか。
人間は食べないと生きていけない。生きると言うことは何かを殺すことだ。食べると言うことは別の命を殺めたと言うことだ。だから食べ物に対して謙虚になりたいと思う。欲しいものを食べられる、好きなだけ食べればいい、イヤなら残せばいい、そう思うことも多いけど、それは人間の傲慢さだとも思う。
イルカは頭がいい。鯨は高等生物だ。それを殺す人は野蛮だ。そう主張している人たちがいるが、その人たちの食べているハンバーガーは、殺されるためにだけ生を受けた牛だ。最初から食べられるためだけに生まれてきた生き物だ。その方がもっと残酷だと思う。私は菜食主義者だからと言う人もいる。野菜でも動物でもなぜ同じ「命」と思えないのだろう。
高等生物だから殺しちゃダメ、下等な生き物だから死んでもいい。この考え方は、この肌の色の人は高等だけどこの色は下等。この民族はえらくてあの民族は下と見下す、、、、そういう考えにつながるのではないか。
素敵なメリケン、もっと大人になれよ。
私は、アメリカに短い時間滞在しただけで、この国は自由の国という名の差別の国、そしてそんな自分たちがわかっていない国、と感じた。
日本人的、仏教&神道的思想が世界を平和にすると思っている。
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