徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

出雲大社へ行って来た

2016年07月19日 | 歴史

島根県の出雲大社へ行ってきました。出雲は古事記、日本書紀の神代の章の3分の1を占める古代日本における重要な場所です。

出雲大社は奇妙な造りになっていて参拝者は祭神である大国主命の正面ではなく左横から参拝する形式になっています。

これは出雲を武力制圧した大和の勢力が大国主命の祟りを恐れて出雲大社に拝殿を追加したのでこの様な形式になっているのです。拝殿の後ろの本殿は千木、鰹木を掲げた立派な造りです。

ところが、古代出雲の神殿はこんなものではなく6階建てビルに相当するような高層建築だったという記録文書が残っていてその柱のあとも発掘されています。神社のそばに島根県立古代史博物館があり、そこには古代出雲神殿の模型と柱の実物が展示してあります。何故このような高層建築を造ったかというと、古代日本海は中国・韓国との交易が盛んで出雲はその中心地であって、これが灯台の役目をしていたという説があります。

あと、出雲荒神谷から発掘された銅剣の展示も圧巻です。

しかし、本来出雲は銅鐸を祭祀とする文化で銅剣は敵の大和の祭祀物のはずです。なぜ荒神谷から大量の銅剣が出土したかについてはこの博物館では不明としています。しかし、梅原猛の説によると、敵の祭祀を破壊して埋める事で敵に呪いをかける呪縛の意図があったのでは無いかと書いています。そして銅剣を全て破壊するのは大変なのでXを刻んで埋めたのだという事でした。それでそれを確かめるために展示してある銅剣を仔細に観察しましたがXは私には見つかりませんでした?謎ですね... 

そして銅鐸の数々、

出雲大社の直ぐ西側には稲佐の浜があります。イナサ=否・佐=YES or NO 大和の軍勢が出雲に降伏を迫った場所です。勝った大和はここで大国主を処刑しその祟りを封じるために出雲大社拝殿を造った。

翌日は出雲一の宮である熊野大社を訪れました。熊野大社の祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命、長ったらしい名前ですが要するにスサノウのことです。スサノウとアマテラス、出雲と大和の対立の構図。

ここにも立派な注連縄が飾ってあります。

熊野大社には亀太夫神事という面白い行事があります。出雲大社の宮司が火起こしの道具を借り受けるため餅を持参して来るのですが、それを受ける熊野大社の亀太夫という神官がその餅に難癖をつけてさんざん小言を言うのです。そして最後に出雲大社は出雲の人のおかげでやっていけるのだぞという意味のことを言う。

出雲大社は元々は灯台で、そこに大国主を祭ったのは大国主を殺した大和であって出雲大社の神官(千家)は大和が派遣してきたヘリコプター宮司です。それに対して出雲の地神である熊野は1600年前の恨みを未だに忘れていない、という事ですかね...

大和族が送り込んだ千家宮司と大和の王である皇室との繋がりは今でも深いようです。余談ですが出雲宮司の千家国麿さんに嫁いだ高円宮典子さんは出雲の田舎暮らしが嫌でしばしば東京にお帰りになっているようですねw 

熊野大社を参拝していると山のほうから大きな音がしてきていきなりの大雨になり暫く雨宿りをしていました。最後に雨に祟られた出雲参りでした。

 

追記 荒神谷の銅剣のX印の件ですが図書館で荒神谷発掘記録を探して読むとやはり実際に358本の銅剣のうち344本に刻印がされていたとの事 やはり梅原猛の敵(大和)の祭祀器破壊説は説得力がある。