ムーティのオペラアカデミー2日目を聴講してきました。
たっぷり10:30~18:00まで。
昨日から始まり、これが6日間あります。
若い指揮者4人がムーティから指導を受け、オーケストラ、合唱も若手の音楽家たちから構成されます。
本番の歌手は、ムーティが指揮するものは海外や国内で活躍するオペラ歌手。
別日に、受講指揮者たちの指揮で抜粋で演奏されるものもあります。
曲目は、ヴェルディの「仮面舞踏会」
2021年のvol.2の時はインターネットで無料ライブ配信されておりました。
少し拝見しましたが、愛情を持ちながらも厳しい言葉が飛んでおりました。
ムーティの音楽に対する言葉、姿勢がもう一度聴きたいと思い、今回オペラには全く疎いのですが聴講してきました。
現代の音楽の悲劇を何度かおっしゃっておりました。
今は指揮者は歌に何も言わない、このことはオペラにとっての悲劇。
ソプラノやテノールが高い音で長く伸ばすだけでブラボー。客はそれを聴きたいと思ってしまっている。そういうことはやめるべき。ただの娯楽ではない。
音楽の瞬間と言うものがあり、メッセージを私は残そうとしている。失われてしまった世界になった。
何とも悲しいお話です。
ムーティが振ると、同じオケのメンバーなのに音楽が変わります。
チェロのソロからヴァイオリンの人たちに弱音で受け継がれる所があったのですが、受講生の指揮がただヴァイオリンが弱くなっただけに対し、ムーティのものはチェロの最後の諦めの音楽がヴァイオリンに受け継がれた時に、深い痛みとして染み入ってきて、泣けました。
細かな説明や話は一切なかったのにもかかわらず、ムーティが振っただけで、別物になっていました。
指揮者は、伝えたい表現のその時に合図を出して音楽を作らせるのではなく、その前に何かオケの人たちにそうなるようなものを送って、オケの人たちが自分たちの力でそうなるように導いていると思いました。
指揮については私は全く素人なのですが、現代は、指揮をするときに腕から指揮棒を動かすことが多いが、そうするとオーケストラが重くなる。手首でやるとオケも楽になる、と話されていました。
指揮の世界にも色々とあるのだなと思いました。
ムーティが受講生の手を動かして振った場面がありました。
強い音を一瞬でほしい時に、肘からぐるりと腕を回すのではなく、直線的に真っすぐ突き刺すような動きでされていました。イタリア式とおっしゃって。
ムーティが動かしただけでオケの音が生き物になりました。
ムーティは表面的な音は見逃しません。音の中に真実を見つけてとおっしゃっていました。
ムーティは歌う声も素晴らしく、オペラ歌手でも行けたのでは?と思うほどです。
vol.1の時も今回も、AEIOUの母音で音色が変わらないように、一つのラインで歌うことを何度もおっしゃっていました。
イタリア語は途切れるようには言わない、滑らかにつながって行くようにと。レガートはこういうことなんだな、と思いました。
東洋の地に、イタリアオペラをこんなに情熱をもって伝えに来てくださる。
たいへんなエネルギーと情熱です。イタリア語の発音、表現を伝えるだけでも大変な労力が必要にもかかわらず。
凍り付くような場面もありましたが、本来はもっと厳しいのだろうと思って聴講しました。
楽器店でレッスンをしている身として、それは違うと思いながら相手に合わさなければいけない場面もあり、いつもそこに葛藤があります。
ムーティとは目指している所も相手も違いますが、本当のことを失うことをいつも肝に銘じなければと思いました。
それが今回最も心に刺さりました。
良い天気
食堂の窓から見えた桜