「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

自転車理論 「 ハンドルポスト 」

2015-04-14 06:40:41 | 競輪・オートレース



現役時代ともに走り、ともに戦った 「 愛車プレスト 」













軽合 ( ジュラルミン ) のハンドルにステム ( 鉄 ) ポストの組み合わせ





ハンドルポストはハンドルと一体化してハンドルと思われがちだが、
その存在は地味だが大きい。
フレームとハンドルをつなぎかつ、その方向を決める舵取りの役目を担っている。

このハンドルポストの長さ、重さで自転車の重さや軽さ。
そして伸び ( 惰性 ) や出足 ( 瞬発力 ) の微妙な感覚を左右する。

例えば、ハンドルポストを1mm上げると軽く感じるが、伸びが足りなく思う。
反面、1mm下げると重く感じるが、車がグーンと流れる感覚がある。
ボートのチルト角度に似た性格が在ると思う。

ハンドルポストの長さは5mm単位で製品化されており、
自分の調子や感覚でその長さを調整している。


ポストの素材は、鉄 ( ステム ) と軽合 ( ジュラルミン ) の2種類があり、
ハンドルとの兼ね合いで、使い分けている選手が多い。



夢の話 「 競輪選手 ・ 吉岡の夢 」

2015-03-27 04:30:41 | 競輪・オートレース



引退パーティーにて







日本選手権競輪の祝勝会にて





今日のブログのテーマである 「 夢 」 は、将来の夢ではなく、
眠っている時に見る 「 夢 」 を題材にしたものである。

22日の日曜日に行われた日本選手権競輪の優勝戦。
そのレースは日曜出勤でリアルタイムで見ることが出来なかったので、
一昨日の夜、仕事から帰ってから録画観戦した。
そのインパクトが強かったのか?
その夜、夢の中に吉岡稔真が出て来た。

以前は、競輪選手時代の夢を頻繁に見ていたが、
最近はあまり見なくなった。
そんな競輪選手時代の夢を久し振りに見た。

毎年この時期になると、新年度からの出走が可能かどうかの
可否を決める身体検査が行われる。
俗にいう 「 人間ドック 」 みたいなものというより、まさに人間ドックそのものだが、
その身体検査の再検査に吉岡と仲の良い中井大介が揃ってやって来たのだ。
「 おう!吉岡どうしたんか? 」 って訊くと、
「 再検査ですよ。 」 って、いつもの口調で返って来た。
そんなやりとりの、なんかとってもリアルな夢だった。



「 高知競輪の思い出 」

2015-03-17 00:51:41 | 競輪・オートレース



3着だった優勝戦のゴール前 ( 一番外の赤緑 )





優勝戦3着だったこの高知競輪の開催は今でもよく憶えている。
福岡空港から高知へ行く時に、
手荷物を預けようとバッグを持ち上げた瞬間、
ギックリ腰になってしまった。
それからと言うものどうにもならない状況での参加になった。
時間が経てば経つだけひどくなるばかりで、
「 これでは走れない! 」 と真剣に思った。
でも搭乗手続きをしているし、当日欠場はなるべくならばしたくない。と思い、
脂汗をかきながら何とか高知空港まで行ったが、
そこから同県の後輩に状況を話して荷物を持ってもらい、
なんとか競輪場までたどり着いた。

「 とにかく早く横になりたい 。横になって腰を伸ばしたい。 」 それだけだった。
後輩に自転車を組んでもらい、
自転車を杖代わりに体重を支えながら検車は自分で受けた。

後は練習どころか、アイシングをしながら横になったままで、
ほぼ毎日過ごした。

それでも走る時は気合が入っているからか?
初日特選を6着。二日目の準決勝を3着でクリアして優勝戦にコマを進めた。
3日目になると腰の状態も良くなり、この日初めて練習で軽く乗ってみた。
多少違和感はあったが、それでも前検日に比べれば ” 雲泥の差 ” である。

レースは6番手くらいから3コーナーから外を捲くり上げての3着だった。
ゴールして敢闘門に帰って来たら、
「 腰が悪い方が動きがいいやないね 」 って冷やかされたが、
走った本人にしてみれば、「 主催者に迷惑をかけなくて良かった 」 というのが
偽らざる心境である。

松阪や立川もそうだが、高知は初参加から6連勝した好きなバンクであった。



弟子に会い 「 弟子を思う・・・ 」

2015-03-16 04:43:41 | 競輪・オートレース







8日に熊本の石橋を巡りに行った帰りに弟子の家へ立ち寄った。
前もって連絡すれば、食事や何かに気を使うだろうと思い、
何の連絡をせずにいきなり立ち寄った。

家に行けば気を使うのをわかっていたので、工場の方へ行くと、
お母さんがひとりで事務所に居たのでおみやげを渡して帰ろうと思っていたら、
息子が〇〇さんに会いたがってるから、是非とも家に寄って行って下さい。と言う。
電話では練習内容や精神的な助言をしているが、
長いこと会っていないので、 「 久しぶりに会って話そう 」 と、
今回の訪問になったわけである。

練習内容はもちろん、自転車理論や精神的なコントロールなど・・・
語り尽くせないほど話した。
お互い良い時間を過ごせたと思うし、ボクも刺激になった。
「 今度は、ゆっくり飲もう 」 と別れたが、
弟子の成長はいくつになっても嬉しいものである。


以下の文は、熊本時代に熊本日日新聞にエッセイを連載していた時の掲載文である。

去年の暮れ、熊本競輪場で行なわれたルーキーチャンピオンレースで、
繰り上がりながらその栄冠に輝いた福永 ( 田川 ) 辰二。
福永は九州学院高校の自転車部に入部以来、
この私が師匠としてプロになるまで面倒をみてきた。

今までに弟子として面倒をみて、一緒に練習をした若者は5人。
福永をはじめ、宮本豊、福田博文、河添信也、本島真輝と、
どの子も素直な頑張り屋ばかりで、指導者として恵まれていたと思う。
この5人のうちプロ試験を受け、最終試験まで行ったが、
惜しくも合格しなかった宮本と福田はプロの道を断念したが、
残る3人は頑張ってプロ試験を突破してくれた。
練習中は随分と厳しいことを言ったと思うし、苦しいこともさせたと思う。
とにかく鍛えに鍛えた。もちろん、現役である私もみんなと同じように練習をした。

プロになって自立して競輪選手という同じ土俵に上ったら
『 やるか、やられるか 』 の勝負が待っているのだから、甘いことは言ってられない。
これからは、もっと苦しい試練が待っている。
プロ試験くらいでヘコたれていては、プロ選手として長くやってゆけない。

一番弟子の宮本が競輪選手の道をあきらめて最後の挨拶に来たとき、
泣きながら 「 長い間お世話になりました。 」 と言って、
それから先が言葉にならなかった自分の弟子を見るときほど辛いものはなかった。
自分にもう少し力があったらと考えるだけで、何もしてあげられない自分が悔しかった。
でも、ただ無駄に時間を費やすだけのプロ試験のチャレンジは、
どこかで誰かが引導を渡してやらなければならない。
これは大変に辛いものである。
だからではないが、宮本には敗者になってほしくなかった。

中国の故事に 『 泣いて馬謖を斬る 』 というのがある。
馬謖。これは三国時代の蜀の武将の名である。
諸葛孔明が自分の命にそむいて失敗した武将の馬謖を、
日ごろの信頼と寵愛にかかわらず、軍律を守るために衆前で斬らせたことからきている。

ここでこれが相応しいかどうか分からないが、
競輪選手の世界に入って来た福永、河添、本島、
そしてほかの仕事についた宮本と福田に言いたい。
『 一度の失敗で命を絶たれる 』 ことはないが、どの世界に生きても厳しさはつきまとう。
『 馬謖にはならぬ 』 という覚悟を持ち続けてほしい。
 
私も一年前に難病であるバージャー氏病にかかり、
ほとんど練習もできないまま競輪選手を続けている。
少しでも気を抜けば、ガタガタッといきそうな心理状態になったときは弟子たちを思い、
『 俺もまだ斬られるわけにはいかない 』 と思う。



20歳 ( ハタチ ) の思い出 「 熱かったあの夏の日 」

2015-01-11 05:07:41 | 競輪・オートレース








息子が今日 「 成人式 」 を迎えた。
今日から大人の仲間入りだ。
これからは一人の大人としての自覚を持って生きて行かなければならない。
今までの教育の義務から、これから勤労の義務。そして納税の義務も出てくる。
今はまだ学生だが、同年代の者がその意識を持って生活していることを忘れてはならない。

自分の頃の成人の日は、1月15日だった。
その日を日本競輪学校で迎えた。
同期でハタチになる皆はニコニコしながら修善寺の成人式の会場に向かって行った。
その同期たちを格納庫で見送りながら笑顔で大きく手を振った。

師匠から 「 成人式には行くな! 」 と、鶴の一声である。
だから、当日は風邪を理由に成人の式典を欠席した。
だからボクの成人式の思い出は、
誰もいない自転車の格納庫でひとり訓練用のジャージで
ウエスを手にレーサーを掃除していたことである。

当然のことながら成人の日の記念写真も無ければ、祝ってくれる人も誰も居なかった。
ガランとした格納庫での誰も居ない、たった一人の成人の日である。
だからではないが、息子にはちゃんと成人式の思い出を作って欲しかった。


でも今、神さまが 「 何歳の時に戻りたいか? 」 と訊ねたら、
迷わず 「 19、ハタチ 」 と答えるだろう。
あのギラギラしていた19、ハタチだ。

苦しくて苦しくて逃げ出したかった19、ハタチだ。
なのにどうして?って思われるだろうが、
毎日の1分1秒が充実していたからである。
大勢のファンの前で風を切って逃げる。
そして逃げ切った時のスタンドの 「 どよめき 」 と歓声。
選手冥利に尽きる瞬間であった。






広島で行われた新人戦の表彰式前の記念撮影




「 熱かったあの夏の日 」


私は今年で競輪選手生活25年になる。
今までの選手生活で色んな思い出が残っているが、
その中でも特に思い出に残っているのは、
新人でデビューした3戦目での広島競輪場で行なわれた新人戦だ。
この時優勝したのは同期の中でも一番仲の良かった地元広島の木村一利である。

私は連日果敢に逃げて、初日特選から④②で優出し、
優勝レースも地元の木村を連れて逃げて、2着となった。
この一戦がとても思い出深い。

広島の夏は暑く、広島の夕凪といって、
宇品港のすぐそばにある競輪場はまるで蒸し風呂のようであった。
現在、故人となってしまった木村は、現役時代はウルフと異名を持つ選手だったが、
本当はその異名とは裏腹にとても優しく思いやりのある男だった。

彼が引退する前に電話があり、「今度、熊本に行くんじゃけど、逢えんかなー」ということだった。
生憎、私は観音寺競輪に参加だったので、その旨を彼に伝えて電話を切った。
木村は残念がっていたが、仕方ないと思った。
これが木村と交わした最後の言葉だった。

木村は、同期生の中でも競輪学校入校時から群を抜いていて、
東の尾崎雅彦、西の木村一利と謳われたつわものだった。
デビューして一気にスターダムに伸し上った木村だったが、
引退するまで実にあっけない幕切れだったように思う。

木村は私よりも一才年下であったが、18歳にしては気の利いた大人びた態度の男だった。
昭和54年の小倉競輪祭、新人王の準優勝戦の前夜、木村が私の部屋に来て
「明日はお願いします。一生懸命頑張りますから・・・」ということだった。
その結果決勝レースに進出し、木村は第17代の新人王の栄誉に輝いた。
その木村がどこでどう屈折し、ズレたか私には分からないが、
それから10年足らずで選手を辞めてしまった。

思い出すのは、いつもあの広島の暑い夏の日、スーパーカーブームのなか、
広島競輪場の表彰台に上った日のことだ。
あの日が青春だったことに間違いはない。
それから2、3年して彼が広島の三原で結婚式をあげたときに、
わざわざ豊橋競輪からの帰りにその席に駆けつけたのも、
今となっては忘れえぬ思い出である。
私はエレクトーンの伴奏で吉田拓郎の『結婚しようよ』を唄ったことも憶えている。
酔ってヘベレケになって三原駅のベンチで寝ていたことも・・・

あれから23年、私は現役に執着して走り続ける。
だけど、木村はもうこの世にいない。

久留米から中野浩一が出て、世界戦のスプリントで世界一になり、
競輪をメジャーなものにした。
その同世代が同じ土俵の上で競い、相まみえたことを懐かしく思う。
今は競輪選手としての中野浩一もいなければ、木村一利もいない。
だけど私は走る。あの広島の暑かった夏の日、
同期のみんなも熱く燃えていたし、私もギラギラと熱く燃えていた。

もう一度あの頃に戻りたい気もする。


このエッセイはまだ現役で走っていた当時、同人誌に寄稿したものだが、
その気持ちは今も変わらない。

内弟子時代の苦しかったあの時の基盤があるからこそ今があると思う。
師匠からしっかりした人生の躾をして頂いたことを心から感謝している。


スピード違反 「 飯塚オートと佐世保競輪と・・・ 」

2015-01-06 01:09:41 | 競輪・オートレース



武雄佐世保道路の佐世保みなとインター手前から見た佐世保競輪場








近大前にある飯塚オートの開催を報せる看板







金網越しの爆音がボクの心を鷲掴みにする







24キロオーバーで白バイにゲットされた







ハイ!って渡された違反切符







気分直しのチョコレート




今日から仕事が始まれば、探訪も出来ないだろうと、
昨日、天気が良かったので玖珠町にある 「 角牟礼城跡 」 に行った。
その帰りに八面山に登り、下界の景色を堪能したあと、
いつものようにバイパスを帰っていたら、
後ろのダンプが急かせるので、先行逃げ切りの血が騒ぎ、
抜かせたくなかったので、アクセルを踏み込んだら
「 ウィーン 」 というようなサイレン音が鳴り響いた。
その時はピン!と来なかったら、マイクで 「 前の車。左に寄りなさい。 」 という。
一瞬、「 うむ。 俺? 」 って、白バイに向かって自分の顔を指さした。
するとコックリと首肯いたので、 「 うっそやろ~ 」 って思いながら車を左の空き地に停めた。

後は ” 嫁に行った晩 ( 好きにしてくれ! ) ” である。
切られた違反キップを持って帰ったが、まぁ 「 こんな日もあるさ 」っていう感じである。

今まで数え切れないくらいのスピード違反をしてきたが、
そんな中でも一番思い出に残っているスピード違反は、
西九州自動車道 ( 武雄佐世保道路 ) で、
佐世保競輪場の見える 「 佐世保みなとインター 」 手前で覆面にゲットされた時である。


この時、捕まったのにはそれなりの伏線があった。
佐世保競輪場に向かう途中で、飯塚の近大前の交差点で信号に引っかかった。
その信号機の向こうに飯塚オートの開催を報せる看板があったのがイケなかった。
車は直進をせずに右折して、飯塚オートレース場がある方向へ向かった。

「 1レースくらいいいだろう 」 と安易な気持ちで場内の駐車場へ・・・
場内に入ると、おはようレースの1レースから爆音が場内に響き渡っていた。
「 この音を聞くと早く行かないとたまらない 」 気持ちにさせた。
場内に着いて直ぐにテレフォンカードで佐世保競輪場の選手管理に電話を入れ、
「 福岡の○○ですが、車がパンクして前検に遅れそうです。 」 と言うと、
「 それは大変ですね。急がなくていいですから気をつけて来て下さい。
一応、車名とギヤ倍数を教えて下さい。 」 と言われた。

で、車券を買った1レースの結果は負けである。
そのまま最終レースの前売りだけ買って佐世保に行こうと思ったら、
先輩の野木雅幸さんにバッタリ会って、
「 この次のレースは小笠原修二から流すといいよ。 」 で、
2レースもしてしまった。
結果はそのカタイと思われていた小笠原修二の追いが届かず2着で万事休すである。
結局、佐世保までの高速代だけ残して前売り車券を買って佐世保競輪場に向かった。

八木山バイパスから福岡インターを経由して、
スッタカター・スッタカターで飛ばしていたら、
西九州自動車道の大塔過ぎてそろそろ佐世保競輪場が見えるというところで、
白い車の屋根から赤色灯がニョキリと出て来て、
「 前の車、左に寄りなさい 」 で、覆面にゲットされてしまった。

目の前に見える競輪場を見ながら書いた青切符は虚しかったな~
選手管理で受付の時に、スピード違反の事を話すと、
「 あれだけ急がなくていいですよ。と言ったのに捕まったんですか~ 」 って言われた。
その夜、 ” 厄祓い 。厄祓い” と言って、
「 オイらは陽気だガッハハハ~ 」 で、ビールや焼酎をガンガン飲んで寝た。

そして迎えた初日。「 違反金を取り返せねば 」 と、気合充分である。
新人の先行一車でレースは流れ、最終1コーナーで追い上げて
内の選手を体当たりで叩き込みハコ ( 2番手 ) を奪取。
そのまま流れ込んで何とか2番手を確保してゴールすると、
2コーナーの芝生に選手が一人下車していて、失格の赤旗審議である。

人生には上り坂もあれば下り坂もあるが、それ以外に ” まさか ” と言う坂もある。
その ” まさか ” の対象になり、失格である。
この失格で ” 即刻お帰り ” である。
参加選手の中で一番遅く競輪場に入り、一番早く通用門から帰って行ったのは言うまでもない。

そうそう、前検日に買った飯塚オートの最終レースの前売りだが・・・
これも見事に外れ撃沈だった。

まぁ、「 こんな日もあるさ 」



あれから15年 「 中村政信の祥月命日 」

2014-12-23 04:36:41 | 競輪・オートレース



愛車 「 トーマス 」 の前に飾られたボクが彼に贈った絵





今日は好きだった中村政信の祥月命日である。
あの落車から今年で15年経つ。

中村 政信(なかむら まさのぶ、1966年8月9日 - 1999年12月23日)は、
日本のオートレース選手。福岡県出身。19期。
元飯塚オートレース場所属。
1999年12月23日の飯塚オートレース場第11レースにて落車、殉職。
享年33。弟子は飯塚オートレース場所属の別府敬剛(23期)。





雪で順延になったあの日もこんな雪だった




「 稀代の戦士 」  中村政信


寒い日でした
丁度はるか彼方に
雪化粧をした
福智山が見えるあたりでした
一度に3車が接触し
落車しました
その中に 中村政信がいたのです

中村政信 33才
全国区のトップレーサーでした
『 車にばかり頼らんで
人間が頑張らんと 』
が口ぐせでした

今は亡き
飯塚が生んだ
稀代の戦士
中村政信



「 車にばかり頼らんで
人間が頑張らんと 」 と、
独特のしわがれ声で語っていた彼の口癖であった。
レースの結果をマシンの所為にしないで、
乗り手が目イチ ( 目一杯 ) 頑張らなければならないということを
言いたかったのだろう。

飯塚が生んだ稀代の戦士だった中村政信。
ボクらはいつまでもその走りを追い続ける。
そして、その走りを忘れることはない。

Forever 中村政信。
好きな人は亡くなっても永遠である。


競輪選手の練習・モガキ

2014-12-22 04:30:41 | 競輪・オートレース



体重が54キロと華奢だった競輪学校時代










競輪場内でバイクを使ってのスピード練習








動画は熊本時代の練習を動画化したもの






先日、中学生が自転車で九州一周を1周間でしたという話を聞いた。
話によると、一日約130キロ平均で走ったことになるらしい。
1日や2日ならば走れるだろうが、毎日の事になればかなりコタエルだろう。
プロでさえ連続して続けるのは大変なことだと思う。
それをやり遂げたということは、素晴らしいことである。
彼自身、大きな自信と精神力の強さにつながったと思う。

ボクはプロデビューしてからほとんで毎日のように
1日に150キロから200キロの練習量をこなしていた。
寝る時間と食事の時間以外はほとんど自転車に乗っていたから・・・
そうそう、一日で熊本から別府まで九州を横断して日帰りしたことがある。
朝5時に熊本市内を出て別府に着いたのが11時半くらいだった。
そのままとんぼ返りで、車上でパンを噛み噛み自転車を漕ぎ続け
熊本市内に帰り着いたのが夜の8時くらいだったのを憶えている。

今思うと狂気の沙汰である。



想い出の詰まった 「 久留米競輪場 」

2014-10-27 04:42:41 | 競輪・オートレース



バンク内から見たメインスタンド








最終コーナー ( 4コーナー ) を金網の外から見る






1コーナー付近の傾斜のついたバンクを走行する







バックストレッチから3コーナーにかけて







バンク内側から見た3コーナー付近






4コーナーからホームにかけてのスタンド






陸軍橋の手前にある競輪場正門







久留米競輪場の検車場にて・・・











久留米競輪場はどこの競輪場よりも想い出の詰まった競輪場である。
競輪選手を夢みて故郷を離れ熊本へ修行へ。
競輪学校の1次試験も久留米だったし、
プロとして第一歩を踏み出すデビュー戦も久留米だった。
そんな久留米競輪場だが、たったひとつだけ悔いが残ることがある。
それは、一度も優勝していないことである。
デビュー戦が 1 ➀ ❸の優勝戦3着。
その後も① ① ❸、➀ ➀ ❹、❶ ➀ ❼などの戦績を繰り返す。

あと一寸の2着は何度かあったが、優勝には縁がなかった。
それゆえに愛着というか想い入れがあるのかも知れない。

敢闘門の奥にある出走選手控室。
その光景を頭で思い浮かべると、
今でもピーンと張り詰めた独特な緊張感に満ちた空気が伝わって来る。

出走前は 「 この緊張感から早く解放されたい 」 と、いつも思っていたが、
久しくレースから離れると、またあの独特な緊張感を味わってみたくなる。
それは、選手の性 ( さが ) なのか、個人的な気質なのか解からないが、
自分はそうであった。



北九州市門司区 ・ 想い出の詰まった 「 門司競輪場 」

2014-07-11 05:00:41 | 競輪・オートレース



門司競輪場はバックに関門海峡や巌流島が見える









古いホームスタンドと4コーナーの赤い屋根が印象的だった








開催中はコントロールタワーがレースの映像を撮っていた









現在ハイビジョンシアター門司だけが場外売り場として活用されている








熱狂的なお客さんが多かったバックスタンド








2コーナーからバックにかけて長い直線が続く








選手が入退場するバックにある 「 敢闘門 」







選手控室から検車場を通り坂道を上って出走控室まで行かねばならない








参加選手とは隔離された場所に居る先頭誘導員の自転車立て





久し振りの競輪ネタであるが、
門司競輪場は高校時代に3年間練習をしたホームバンクである。
高校1年の時に門司競輪場で国体予選があり、
ここで勝って国体出場権を得た想い出の地である。
なのにプロになってから小倉競輪場では優勝はあるが、
不思議と門司競輪場では優勝経験がないのである。
そんな門司競輪場は福岡県北九州市門司区にかつて存在した競輪場である。
2002年3月に甲子園競輪場、西宮競輪場と共に廃止となった。


門司競輪場は1950年に当時の門司市が主催する競輪場として開設された。
関門海峡を眼下に望める風光明媚な競輪場として知られ、
シンボルマークはかもめがM字型に羽を広げたもの。
毎年2月に記念競輪 ( GⅢ ) として、開設○○周年記念競輪が開催されていた。
かつては門司記念前節に関門賞、門司記念後節にレトロカップが開催されていた 。
1963年に門司市が合併して北九州市となってからは、
隣の小倉競輪場で競輪祭が毎年開催されるようになったが、
門司競輪場での特別競輪 ( GⅡ以上 ) は
1965年の全国都道府県選抜競輪を最後に開催されることはなかった。
これにより小倉競輪場との売上差が年を追って拡大していっただけでなく、
北九州工業地帯における炭鉱の閉山と鉄冷えの状況が重なってしまい、
門司競輪場は赤字に転落してしまった。



「 門司競輪の記念品とジャン 」

2014-07-11 04:59:41 | 競輪・オートレース



門司競輪廃止を記念した 「 さよならスタンド 」








かつて門司競輪場で鳴り響かせたジャン












門司競輪に関する品物があるが、
その中でも誰も持っていないのがジャンであろう。
ラスト1周半からラスト1周を告げる打鐘のことをジャンという。
その時に打ち鳴らされる鐘である。

これ以外にも新聞の切り抜きや出走表など、
ボクにとっては甲乙つけ難い想い出が段ボールいっぱいに詰まっている。





「 防府競輪場 」 の思い出

2014-03-06 04:56:41 | 競輪・オートレース



小じんまりとしたメインスタンド






ホームから1コーナーにかけて





3コーナーから4コーナー付近





同じく2センターから4コーナーにかけて




防府競輪の初参加は同郷熊本の先輩を連れて逃げて先輩が優勝し、ボクが2着だった。
初参加はA級になってからで、あの時の成績は、①③❷だった。
言うなれば、初日の勝利は初参加初勝利だったわけである。
こうした初参加初勝利は、ほとんどの競輪場で初日に勝って達成している。
その後、二回目の防府競輪参加の時は、❶①❶の三連勝だった。
そのころ日本一直線コースの長い熊本競輪場で練習をしていたので、
防府や西宮、奈良といった1周333mの小回り走路は忙しすぎて嫌いだったが、
何故か?成績が良かった。

初参加で優勝2着した帰りに、壇ノ浦パーキングエリアに寄って、
優勝した先輩から 「 なんでも好きな物を好きなだけ食べていいぞ! 」 って言われ、
御馳走になったのを憶えている。



想い出の 「 向日町競輪場 」

2014-02-17 05:07:41 | 競輪・オートレース



























向日町競輪での思い出はこれと言って特別ないが、
成績はコンスタントに優勝戦にコマを進めていたので、
そこそこの成績だったような気がする。
まぁ、特別 ” 良くもなく悪くもなく ” といったところだろう。

競輪以外で思い出に残るのが一つだけある。
それは競輪が終わって帰路につく時に、
競輪場から最寄りの阪急電鉄の 「 東向日駅 」 から乗っていた。
阪急京都線で十三まで出て、そこから宝塚線に乗り換えて、
蛍池駅で下車して伊丹空港まで行くのだが、
東向日から乗った電車の中で、メガネをかけた40代の男性が寄って来て、
「 熊本の○○選手ですよね 」 と言って握手を求めて来た。
なんでも僕のファンだという。
電車の中でそんなことされるのは初めてだったので、
たぶんニヤニヤしながら応えたと思う。
競輪のいろんな話をしながら電車に乗っていたが、
その男性は丁寧に十三で降りて、わざわざ一緒に宝塚線に乗り換えて、
蛍池駅までついて来てくれた。
同じ電車には後輩の売り出し中の選手が2人いたのに、
「 なんでオレなんかに? 」 っていう気持ちだった。



想い出の競輪場 「 岐阜競輪場 」

2014-01-31 05:33:41 | 競輪・オートレース



ホームストレッチにあるメインスタンド







バンクの内側は庭園式の池になっている






バックスタンドの下にある敢闘門




冬場の岐阜競輪場は寒くて、カラダの芯から冷えた。
1月だったか、2月だったか憶えていないが、
初日が終わってドカ雪が降った。
当時、岐阜羽島に参加選手の宿舎があったので、そこからズンズン降り積もる雪を見て、
「 こんだけ降ったら明日は中止やろう 」 と、九州の選手は口々に言い、遅くまで酒を飲んだ。
朝起きたら、案の定凄い雪だ。
この時点で誰もが 「 開催中止 」 を疑わなかった。
だが、開催中止を告げる館内放送がないまま、朝食を摂りに降りて行くと、
いつものように参加準備した選手が食事を摂っていた。
「 今日、開催するのか? 」 と訊くと、
「 はい!しますよ 」 と、さも当たり前のように返事が返って来た。
まさか、まさかの展開に 「 ウソやろ~ 」 って思ったが、
一度ゆるんだ気持ちを競輪場に入るまで切り替えねばならない。

競輪場行きのバスに乗り、競輪場に着いた時は気持ちはもう開催モードだ。
夕方の4時過ぎの最終レースは寒くてたまらない筈なのに、
敢闘門を出る時は、気合で上気したカラダの熱気でゴーグルが曇るほどだった。
退避路に山のように積まれた雪を横目に走った。
寒さと風の強さで重く引きずるような走路に雪解けの水しぶきが上がる。
3着まで入れば決勝戦に進出だけに、どの選手も必死だ。

この時、ブッ千切って1着になったのは地元の浜口高彰だった。
ボクは3着に入って決勝戦にコマを進め、何とかノルマを果たした感じだった。
岐阜は目立った成績を残していないが、同じ岐阜県でも大垣競輪場は成績も良くて好きなバンクだった。

ちなみに優勝したのは浜口高彰で、優勝戦もブッ千切りのワンマンショーだった。



大晦日の想い出 「 玉野競輪場 」

2013-12-31 00:12:41 | 競輪・オートレース



玉野競輪場 ( メインスタンド )







3コーナーから4コーナーにかけて







ホームスタンドから1コーナー







バックストレッチの確定板








バック側にある選手宿舎の前に広がる海。
数ある競輪場の中でも食堂からの眺めはここが一番だった。
この海に沈む夕陽を見ながら 「 おでん 」 をあてに飲む酒は風情があって、
ことのほか旨かった。






1着 ( 青色4番車 ) 








3着 ( 赤色3番車 ) 




盆正月が掻き入れ時の競輪の興行は、年末年始の競輪参加は恒例であった。

年末から年明けにかけての年跨ぎ開催は正月気分を吹っ飛ばすものだった。
大晦日や元旦は特別な日なれど、勝負をする者にとっては一日は一日で、
いつもと変わらぬ日でしかないのである。
そんな気持ちで迎えた大晦日の大一番。
玉野競輪の最終レースの準優勝戦。
翌日の元旦に優勝戦が組まれた勝ち上がりのレースに、
それぞれが優勝戦進出をかけて3つの椅子を争う。

最終レースに地元のエース級を持って来た番組にファンも盛り上がり、
圧倒的に人気になった地元岡山勢に四国勢が援護する形でラインが形成され、
遠征の九州勢にとっては完全なアウェー状態だった。
それでも 「 どぎゃんかせんと! 」 で、前を取り正攻法で受けた。
序盤は淡々と周回をかさね静が、ジャン ( 打鐘 ) を合図に一気に動に変わる。
4番手にいた選手が満を持したように一気にスパートして来たので、
一度、外に大きく振ってけん制を入れ、思いっ切り前に踏むと、
その上をものすごい勢いでやって来た。
「 行かれた! 」 と思った瞬間、一人だったので、それを追いかける形で2番手に。
あとは、内を掬われないように、中を割られないように4コーナーを回り、
懸命にゴールを目指して踏んだら、誰よりも先にゴールしていた。

あの時は、◎○▲△×の印でいえば×くらいの人気だったので、まさかまさかの1着である。
そのうえ2着にも人気薄が入ったので6万円くらいの大穴になったのを憶えている。
走った選手はゴールして敢闘門に引き上げるまで、退避路を1周するのだが、
その時、4コーナーにいたおじさんが、僕の名の連呼し、
「 ありがとう!ありがとう! 」 と1コーナーまで金網越しについて走って来た。
敢闘門に入る時、自転車を降りてスタンドに向かって一礼したが、
その時も 「 ありがとう! 」 の叫び声が続いていた。

検車場に入ると、「 すげえファンやな~ 」 とか、 「 あんたの親戚やろ 」 とか冷やかされたが、
地元の先輩選手が 「 あのおっさん、オメエのお蔭で正月の餅が買えらぁ 」 とポツリと言った。
負けて罵声を浴びたのは数えきれないほどあるが、
勝ってあれだけ感謝されたのは、後にも先にもあのレースだけである。
それだけに思い出深い大晦日だった。

そういえば・・・25回優勝したが、25回目となった最後の優勝がこの玉野競輪場だった。


※ 動画は大晦日のレースではないが、デビュー2戦目に走った玉野競輪の初日と、
  優勝戦である。初日はちゃんとゴールまで写っていて青色4番で1着になったが、
  優勝レースは途中で切れている。赤色3番で3着だった。