今度の部屋

授業でできなかったことや出版物についてフォローします(できるだけ^^)

今日もやっぱりいい雲じゃ・・・

2012-09-09 13:11:30 | 日記


 こんにちは、

 今日もやっぱりいい雲じゃ・・・・。

 さて、わたくしは上をみて歩くことはあまりないです。

 いつも下ばかりみてあるいている。

 中学1年生の担任だったときに、「見方をたまにはかえなさい」ということを伝えたいがために、

「いいかあ、たまにはなあ、道路(下)ばかり見るのではなく、家の屋根(上)をみながら通学路を歩いてごらん」とむちゃくちゃなことを言ったことがあります。

 そうしたら、翌日「先生、屋根の上になぜかわからないけど、7人のこびとがのっている家がありました」、「電線がすごいあるんだなとおもいました」、「屋根のうえでしごとをしているひとがいました」、「ネコが5匹いました」、「空の大きいところとちいさいところがありました」などなど。

 ふだんみているようでみていないので、新しい発見があったみたいです。

 ほんとうはここを切り口に「なぜ7人のこびとか」に切り込んでいくと、いい取り組みになるかもしれませんが、面倒だったのやめました(笑)。

 しかし、この指導は交通安全上危ないですね。注意が必要です。

 私の指導はぎりぎりなことが多いです。

 今日も来てくださってありがとうございました。

名古屋駅の「さんますし」

2012-09-06 12:08:06 | 日記


 こんにちは。

 昨日名古屋で仕事があり、新幹線でそのまま横浜に帰りました。

 駅弁?を買いました。名古屋駅で買った「さんますし」です。

 しかし残念ながら、作ったのは大阪の会社らしく、「名古屋コーチン弁当」とか、「みそかつ弁当」とかみたいな郷土色ゆたかなものではありません。しかも「北海道産秋刀魚」とあります。大阪(作った会社)と名古屋(売っている場所)と北海道(サンマ)の共同作品です。

 

 中は、このようになっています。醤油はついていませんでした。このまま食べるのがたぶん「通」なのです。



 秋刀魚をよけてみると、きざんだショウガがのっていました。

 これまで2,3枚しょうがを寿司の横にいれてあるものが多かったのですが、わざわざ刻んで入れている。

 ショウガをよこにいれれば、寿司の量も減らせて、会社としてみれば経営的に助かるのではないかと思いますが、それをしないところに大阪の会社の心意気を感じました。

 味はおいしかったです。

 今日も来てくださってありがとうございました。

助言者の仕事に行ってきます

2012-09-04 09:26:07 | 日記


 こんにちは。

 昨日横浜から愛知にもどりました。(写真は昨日の新幹線の車内)

 今日はある市の教育研究会の助言者の仕事です。

 話した内容については、また今度ここにのせます。

 今日はちょっとあわただしいので、このあたりで失礼します。

 きょうもきてくださってありがとうございました。

読んだ本から抜粋『夜と霧 新版』

2012-09-02 18:41:12 | 日記


こんばんは。今日は遅くなってしまいました。

V・E・フランクル『夜と霧 新版』
 (池田香代子 訳;みすず書房;169頁;2002年初版、2011年第16刷)

【補足】長い間、『夜と霧』といえば、霜山徳爾訳のものが著名でした。しかし、今回は新版を読みました。読んだのは、昨年(2011年)6月、ちょうど私が入院中だったときです。『それでも人生にイエスと言う』を読んだので、以前に読んだ『夜と霧』を再度手にとったわけです。
 また、最近テレビ番組(「100分 de 名著」)でも取り上げられていました。私は最終回の残り10分だけみました。

【抜粋】
(P.123)人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。
(P.125)しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。
(P.128)「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きるころにも耐える」したがって、被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
(P.132-133)わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気を持っていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
(P.134)自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
(P.145)わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

 今日も来てくださってありがとうございました。


読んだ本から抜粋『それでも人生にイエスと言う』(その3)

2012-09-01 10:42:06 | 日記


 こんにちは。3回目最終回です。

 【3 人生にイエスと言う】
(p.141)なんといっても、人間の苦悩は比較できないものです。それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、苦悩がその人の苦悩であることが、苦悩の本質に属しているからなのです。苦悩の「大きさ」は、苦悩しているもの、つまりその人しだいで決まるものなのです。ひとりひとりの人間が唯一で一回的な存在であるのとおなじように、ひとりひとりの人間の孤独も苦悩も唯一で一回的なものなのです。
(p.160-161)おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を選んで実現するしかありません。しかし、一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性に対して、存在しないという宣告を下すことになるのです。しかもそれは「永遠に」存在しないことになるのです。
 それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかであってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。
(p.162)人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。そればかりか、どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです。

 今日もきてくださってありがとうございました。