じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

亡き妻のこと-4(終)

2009年06月11日 | 日々のこと

  一方で、仕事以外でも彼女は休むことを知らない人であった。

これぞと思うことには徹底して取り組んだ。

 

0505311 骨董じゃなくてアンティークよ と彼女は言うが、20年にわたって好みの陶磁器を集め歩いていた。

私には価値がわからないが、決して高価なものではない一昔前の生活雑器である。

藍色のどんぶりや大皿が好きで、次第に古い家具や雑器が並ぶ部屋になっていった。

 

この趣味は私もさして嫌いではなくて、今もその部屋に居ると気分が落ち着く。

 

 

「私は底物だけど、お母さんはハマチかカツオのようだねえ、じっとしていると死んでしまうだろうよ」と私は度々揶揄していた。

 

それほど休むことを知らない、ゆっくりテレビなど見ていることがなかった。

常に何かして動いていたが、私がテレビばかり見ていても何ひとつ文句は言わなかった。

 

「私はお父さんと違い、人付き合いや動くことが好きなだけよ。その代わり、私のやれないことを何でもお父さんがやってくれる。それで夫婦はうまく行っているのよ」

 

そう言えば、切れた蛍光灯を換えることも、ビデオを操作することも出来なかったなあ。

もっともビデオなどは彼女には不必要だったが・・・。

確定申告やパソコンで資料作りを頼まれたりと、役割を持たせ救ってくれていた。のかな?

 

 

夜間のバドミントンクラブやテニススクールに通い、熟年テニスクラブも楽しんでいた。

ウォーキングも私がやめた後も欠かさず続けていた。

その度に友人を作り増えていき、患者さんを含め、友人知己が多かった。

とにかく元気だけは誰にも負けないね、と自他共に認めていたものである。

 

また季節ごとに梅酒、どくだみ茶、桜茶、その他ありとあらゆる物を試作していた。

土筆や柑橘皮のピール、山菜料理、季節の草花を飾っては友達を呼んで、これらの手料理を振舞っていた。

 

四交会があるといえば前夜から料理の下こしらえをし、驚くべき品数の料理を一人で作っていた。お茶会の料理を頼まれては楽しんで作っていたこともあった。

とにかく人を招き、ご馳走し喜んでもらうことがこの上なく喜びのように見えた。

  

   

とまあ、誰しも思い起こせば一人ひとり歴史があり、

多分女性にはこんな人が他にも一杯いるに違いないと思う。

ただ、私には過ぎた女房であった、妻が居てこそ私があった。そのことである。

 

 

Imgp3626 子供は親を見て育つという。

妻が倒れてこの一年、子供達には心痛をかけた。

痛いほどに両親の心配をして毎日のように電話をしてきてくれた。

  

病床の妻は

「あの頃忙しくて、人並みにかまってやれなかったけれど、子育ては間違っていなかったよね、お父さん」と何度も言っていた。

 

2人の子供がそれぞれに似つかわしい人と一緒になったことにも安心していた。 

   

 

 

 

私が定年退職して5年、そろそろ悠々自適で行こうよ、と促して妻にも退職させた。

「これからはお父さんの旅行やドライブに いくらでも付き合ってあげるからね」

そんなことを言っていた矢先であった。

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亡き妻のこと-3

2009年06月11日 | 日々のこと

2人目の子供が出来て彼女は大病院をあっさりと退職して子育てに専念した。

今も同じであろう、近くに親でも居なければ共働きで仕事を続けることは難しい。

 

0806043 社宅を出て 街外れに小さな家を建てた。

私ひとりの給料の生活は楽ではなかった。

 

妻は2人の子供を自転車の前後に乗せて、遠くの自動車教習所に通い、運転免許を取った。仕事に備えるためであった。

 

専業主婦の3年間は、彼女の人生で唯一ゆったりと自由な時間が取れた時期であったようだ。

田舎道を辿り、種子川沿いで草花を摘み、子供達との時間を存分に楽しんだと言っていた。

まだ角野新田社宅にも人が住み、楠の木の下に新田生協があった時代、懐かしい。

 

 

間もなく自宅近くの心臓外科で名の通った中堅の病院にパートで勤めるようになる。

2人の子供は瑞応寺にある幼稚園に通い始め、その時間だけの仕事であった。

 

3年後、子供達が小学生になった時、パートからいきなり婦長に抜擢された。

あの当時で正看護婦だったということと、患者に慕われる姿勢が買われたのだと思う。

フルタイムながら昼間だけの勤務に恵まれて、再び水を得た魚のごとく働いた。

 

小学校に入ったばかりの子供達を「鍵っ子」にしたくないと、

学校帰りの時間帯だけ近所のおばちゃんに自宅に来てもらった。

とても優しくて、きちんとした人だった。

洗濯物を取り込み、実に綺麗に畳んでくれていたことが印象に残っている。

娘が今も洗濯物を几帳面に畳むのは、あのおばちゃんの影響だと妻は言っていた。

 

 

30歳後半から40歳代、お互いに忙しく仕事に明け暮れる日々が続いた。

深夜の緊急手術(再開胸といっていた)などで駆けつけることもたびたびであったし、

当時私もまた製造現場勤務で夜間呼び出しが重なった。枕元に電話を置いて寝た。

子供達にとっては大事な年頃、気にはしながらもお互い働きづめの時代であった。

 

 

以後30年以上、彼女はこの病院に奉職する。

看護師が天職であった。

(続く)

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