じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

やっかいな曲者

2005年10月28日 | 不整脈
10/26、不整脈治療のため病院で一夜を過ごすことになった。
看護師詰め所のすぐ隣の集中治療室(ここではリカバリーと呼ばれていた)で胸にポータブル心電センサーをつけて、点滴をつけたまま睡眠薬を飲んで眠らされるはめになった。
すぐ近くのモニターには絶えず心電図波形が映し出されているが、見なくても心音が拡大されて耳に入る。不整脈の心音はツートントン、ツッ、ツーツーといった具合でまるでモールス信号である。また治療中には、タッタッタッタッと機関銃のようになることさえあった。
これは聴いているだけで不安で憂鬱にならざるを得ない。
ポッ、ポッ、ポッ、とゆっくりと規則正しいリズムが回復すると、生き返った気分になる。
それでも立ち上がってトイレに行かせて貰うと、途端にタッタッタッということになったりして、不安定で心許なかった。

一晩中心電図を監視してもらいながら眠るというのは、なにか人に命を委ねているような安心感とともに、プライバシーの根幹を見られているような変な気分もした。
それでも治療が終わり安心して眠ると翌朝にはすっかり落ち着いていた。
病室に移され、1日安静にして様子をみてから帰宅することができた。

前立腺がんになった時に、その関係の文献を探しむさぼって読み漁ったように、今度はAFに関する記事をNETで探しまわっている。
それによると、高齢者ほど罹患率が高くなる(70歳以上で5%)、薬での根治は難しい、AFで直ちに死につながることは少ない・・・これは前立腺がんにも通じる。
2つの問題点、一つは細動時にできる血栓が飛び脳梗塞を起こしやすいこと。もう一つは繰り返し頻脈が続くと心筋が痛められて心不全になりやすくなること。
おいおい、どちらも重大ではないか。

私の場合発作性の頻脈型AFだけど、だんだんと起こる頻度が増してくること、それに連れて薬での回復が難しくなってくること。専門医でも洞調率への回復手法(薬の使い方)に難渋するとある。不整脈治療薬の一番の副作用が催不整脈(他の不整脈を誘発する)だという矛盾もある。いちいち該当するなあ。
以前は水分補給とか運動が引き金になっていたようだが、最近は安静時にも起こったりしてそうもいえない。気にしだすとそれが又精神的なストレスなにり発作に繋がるというから、もうなるようになれと開き直るしかないようだ。

朗報としては、ここ数年前に開発されたアブレーション治療が注目を集めていること。
足の静脈から細いカテーテルを差し込んで心房の内側の不整脈の信号を出している場所だか経路だかを熱で焼切るという、聞いただけで怖そうな治療法。
最近ではAFにも適用でき、うまくいけば発作が根治できるという。
現状ではできればこの治療にかけてみるしかないと思っているところ。5322872




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実現するかな

2005年10月22日 | 日々のこと
旅行が好きである。
車の運転も好きなので大抵はどこへ行くにもドライブで出かけることになる。
西日本の全ての県、温泉や観光地は大体巡ってきた、と豪語するには点と線だけにすぎない。
これまでの旅はせいぜい2,3泊が限度の慌ただしいものでした。IMGP0390

車での旅行は何がいいかって、荷物をコンパクトにまとめる必要が無いこと。
必要と思われるものを片っ端から大きなバックか紙袋などに無造作に入れてトランクに詰め込めばいい。今ちょっと凝っているカメラ道具なども、三脚や交換レンズなどもいろいろ制限なしに積み込んでおくことが出来る。
そしてホテルや旅館に付くとその場で必要なものだけ取り出して持ち込む。(往々にして後で忘れ物を車まで取りに戻ることも生じるが)
勿論観光地ではウエストバックとその場に適したカメラだけを持って身軽に廻ることができる。

とはいっても、車で行けば帰りは飛行機や電車でというわけには行かないので、この歳ともなると遠出した場合には帰りの運転が結構しんどくなってきている。
そんなわけで今まの最遠距離は上高地、西は鹿児島までにとどまっていて、それ以上の距離になると恐れがでてくる。また若い頃は無理もきいたが、逆に仕事もあって余り長期間のドライブ旅行も出来なかったこともある。

そこで定年したら暇に任せて、車での北海道ドライブ旅行をすることを密かに計画してきたものである。定年して2年が経ったが、かみさんがまだ仕事を続けているので実現していない。
情けないことに1人で実行するほどタフでもなければ勇気も無いのである。

舞鶴まで車で約4~5時間、未明発のフェリーに乗り船旅20時間、21時小樽着で泊り。1095640922_1s
北海道は10日以上もかけてゆったりと巡る、できれば利尻島も行ってみたい・・・
帰りは青森から東北の温泉地帯から、贅沢でない宿に泊り継ぎながら本州を縦断して足掛け1ヶ月もかければ走って帰ってこられるだろうと思っている。
初秋から紅葉前線を南下する秋がいいなあ。

心臓に持病を持つ身になってしまった今、幻で終わってしまうかもしれないが・・夢なのだ

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ボケ防止グッズ

2005年10月03日 | 日々のこと
何か楽器が演奏できると楽しいだろうな、というのがづっとの夢でしたね。
私たちの時代、楽器と言えばハモニカくらいだったでしょうか、戦後間もない田舎の小学校にはほかには太鼓くらいしかなくて、クラスで演奏などと言うもの経験の無い時代でした。
それでハモニカは得意でしたよ。楽譜など見ないで音感だけで吹いていた。
ハモニカはごまかしがきくので今でも吹けます。小学唱歌ですね。

中学も高校も音楽にはとんと縁の無い生活を送ってきました。
だから楽譜はまともに読めません。一時だけギターが流行った頃に試みましたがコードを覚える前にポシャりました。

子供たちの時代にはネコも杓子もピアノを習わせた時代だったように思います。大抵は中学の頃に尻切れトンボになるのが関の山、どこの家にも大きなピアノが捨てることもできず場所を取っている有様ではないでしょうか。
でも基礎のところを習っていたお蔭かどうか、一時はバンドを組んで鳴らしたり、長女は今でも流暢にいろんな楽器の演奏ができますね。あの年代はそういう者も多いのでしょう。

「もしもピアノが弾けたなら」という曲にあるように、流暢にピアノが弾けたらというのが私たち年代の夢ですね。

で、この年になって無性に楽器を弾いてみたくなった。
たまたまテレショップの巧妙な宣伝に飛びついて「キーボード」を購入する。198は安い?。
光る鍵盤が誘導してくれて、誰でも簡単に弾けるという謳い文句にまんまと乗ってしまった。P10100011


しかし太鼓ならまだしも鍵盤楽器がそう簡単に弾けるはずはありません(^^;
バイエルからコツコツと指のトレーニングを積んでいくのが常道ですが、それはそっちのけで、ともかく何か一曲をと今、山口百恵の「いい日旅立ちを」を猛特訓しているところであります。
自動リズムとコード伴奏を入れると、これが少し様になる(なりかけている)のです。
さて、熱しやすくさめやすい性質は多くが認めるところ(かみさんが呆れるところ)、間もなく埃を被る運命かもしれません。
せめてボケ防止グッズとして多少の役に立てば元はとれる・・・・


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