おしる子日記

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終戦75周年記念の毎日新聞の記事に鈴木孝夫さん

2020-08-18 | イベント

きょうの毎日新聞に流山市社会福祉協議会の前会長の鈴木孝夫さんがご紹介されていらっしゃいました。森の図書館で社会福祉協議会の後援事業などがあると、お忙しい中をよくいらしてくださったのを紙面を見て懐かしく思い出しました。

きょう8月18日の毎日新聞に紹介された鈴木さん。76年前の同じ8月18日には硫黄島から「男の子なら孝夫…」と名前を書いた手紙が届いたそうです。

以下、紙面から。

【物に残された記憶~千葉戦後75年】

『硫黄島からの手紙~父に抱かれることなく』

 「安産とのこと、待ちに待った男子の誕生、非常によろこび居(お)ります」。茶色く変色した便箋に、妻の無事と我が子の誕生を心から喜ぶ文字が並ぶ。その後、手紙の送り主は硫黄島に散った。「もし父が生きていたら厳しく育てられたかな」。父親の写真に目を落とした流山市の鈴木孝夫さん(75)の手元には、戦地の父が送った「硫黄島からの手紙」が残された。

 手紙を送ったのは父親の秀夫さん。1914年5月2日、旧流山町(現在の流山市)の地主の次男として生まれた。37年に法政大学を卒業し、翌年5月に多喜子さん(101)と結婚したが、4カ月後に召集され、佐倉歩兵第57連隊に入隊。盛岡陸軍予備士官学校を経て少尉に任官し、中国・山東省に出発した。

 秀夫さんは42年2月に中尉に昇任し、召集解除となった。家族の元に戻り、安らぎを得たが、44年5月に東京・赤羽の工兵隊に再度召集された。面会した家族に「今度はおそらく帰ることができない。後はよろしく頼む」と言い残し、その夜、硫黄島に向かった。

 その後、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、グアム島で日本軍の玉砕が続いた。硫黄島はマリアナ諸島と日本本土の中間点にあり、重要な防衛拠点となった。島内には総延長約18キロに及ぶ地下壕が掘られ、陸海軍約2万3000人の将兵が米軍を待ち受けた。

 出征後、多喜子さんが子どもを授かっていたことが分った。妊娠を知った硫黄島の秀夫さんから8月18日付の手紙が届き、「男の子なら孝夫、女の子なら順子」と生まれてくる子の名前が記され、母子の健在を再願す」と結ばれていた。10月11日、男の子が生まれ「孝夫」と命名され、硫黄島から出産を喜ぶ2通目の手紙が届いた。ただ、それが最期の便りとなった。

 45年2月16日、硫黄島では米軍の攻撃が始まった。3日間に及ぶ爆撃と艦砲射撃は日本軍が拠点とした摺鉢山の山容が変わるほど激しいものだったという。その後、上陸した米軍との戦闘は苛烈を極めた。米軍の圧倒的な物量を前に、日本軍は飢えや渇きとも戦いながら持久戦を展開し、約1カ月間米軍を硫黄島にくぎ付けにした。日本軍は約2万1900人が戦死した。

 多喜子さんの元には5月、戦死の公報が届いた。後年「目の前が真っ暗になり、子どもを抱えてどう生きていくか、悲しみでいっぱいだった」と孝夫さんに語った。戦後は母子2人暮らしとなったが、近所にいとこや級友がいて普段は寂しさを感じなかった。ただ、時折「自分には父親がいないんだ」との思いがよぎった。多喜子さんは代用教員となり、後に教員免許を取得して教師として23年勤めた。孝夫さんは法政大学を卒業後、同市役所に就職。多喜子さんは市遺族会長を務め、今は孝夫さん家族と静かに暮らしている。

 孝夫さんは74年に日本遺族会の慰霊巡拝と、2006年に硫黄島協会の日米合同慰霊追悼顕彰式で、硫黄島を2度訪れた。荒涼とした島の姿と亜熱帯特有の暖かい風に「ここで戦ったんだなと、万感やるせない思いがした」と、父の苦労をしのんだ。

 手紙の向こうの父は、抱くことがかなわなかった息子にどんな未来を託したのか。孝夫さんが父の手紙に平和への決意を新たにする。「戦争はむごいもの。二度としてはならない。私のような遺児を作ってはいけない」【柴田智弘】

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