手賀沼ぞいに東西に延びるまち、我孫子。
今回は、ちょっと図書館司書らしいコースを歩いてみました。

橋上駅の我孫子駅の改札を抜け右に降りるとインフォメーションセンターがありました
昨年の5月には、我孫子駅からJR成田線に乗り換えて湖北駅から将門伝説を訪ねて歩きました。
https://blog.goo.ne.jp/osiruko001/e/0ea8abfd61a059ce36ef44e0b5a934f6
あれから1年、仕事も週3日となり、減る出勤日に増える自由時間と年齢、体重という日々。そこで、また、ぶらぶらと我孫子に向かいました。明治時代末頃、我孫子は「北の鎌倉」と呼ばれるほど風光明媚な土地で、当時は白樺派をはじめ多くの文化人達が、その自然を愛し、住まいを構えていました。そんな我孫子の自然は、手賀沼をはじめ今もその面影を残していました。

まずは、インフォメーションセンターで「ABI ROAD」という観光案内をゲット
インフォメーションセンター「アビシルベ」の向かいには県立「けやきプラザ」がどーんと建っています。「けやきプラザ」11階の飲食施設は、平成25年度末で閉店し、いまはフリースペースとして開放されていました。11階までエレベータで上がって我孫子の景色を一望できます。冬は富士山や筑波山がきれいに見えるというお話でしたが、ワタクシたちがお邪魔したときは猛暑で景色もなにやらかすみがちで残念。

けやきプラザ1階には福祉ショップ&軽喫茶「ぽぽら」があり、ランチはコーヒーが1杯までおかわりできました(ラッキー!!)
けやきプラザを出ると道を挟んでイトーヨーカ堂我孫子南口店(イトーヨーカ堂が我孫子には2店舗あるんですね)があります。ここは、かつて山一林組の工場だったということです。同工場は1906年(明治39年)に建設された生糸工場で、明治時代我孫子では唯一の近代的な生産工場であったところ。最盛期には300人あまりの工員を抱え5000貫の生糸を生産していたそうで、志賀直哉の「和解」にも登場しています。

1925年(大正14年)建立の「蚕霊塔」が養蚕、製糸が盛んだった時代を今に伝えています
なるほどイトーヨーカ堂の隣の公園には、桑の葉も茂っていて、養蚕が盛んだった頃が偲ばれます。我孫子は常磐線と成田線開通で集散地になったため、長野県岡谷市の製糸会社が進出。千葉県における最大級の器械製糸工場だったと説明されています。やはり鉄道が通るというのはまちの活性化のために今も昔も大きなことなんですね。

もとの敷地の一部である公園の車止めは蚕の繭をイメージしたんですね
観光案内を手に駅前を歩いていると、あちたこちらに文学の散歩道の案内板や名所旧跡の説明板が設置されていて、「あの茅葺の大きなお屋敷はなんだろう?」「この西洋風の豪邸はなんだろう?」と、ついついキョロキョロしてしまい、他人様のお宅にスマホのカメラを向けそうになって「いけない、いけない」と観光マナーを守って自粛するワタクシたちです。

あちらこちらに文学の散歩道や我孫子宿の案内板などがあります
杉村楚人冠記念館とその公園を散策。大きな樹が茂り、木蔭があってホッとします。土地の高低を利用した庭など坂も多いのですが、ところどころにベンチがあり休憩できます。明治から昭和まで東京朝日新聞社で活躍した国際的ジャーナリスト、杉村楚人冠が明治45年に別荘を設け、関東大震災ののち昭和20年に亡くなるまで過ごした場所です。大正11年建築の「澤の家」と、大正13年建築の母屋があります。

楚人冠が好んだ椿が多く残っています。つつじ、さんしょうばら、夏の梅などを愛でながら散策
NHK大河ドラマ第58作『いだてん』。幻となった1940年東京五輪の招致を成功させ、日本スポーツ界で「オリンピックの父」と呼ばれるのが、同番組で役所広司さんが演じた講道館柔道の創始者・嘉納治五郎。記念館と公園があり、東屋には我孫子に残された嘉納の書「達必力」「鏡為人以」もうっかり見逃しがちなところに飾られていました(東屋の屋根の内側)。

嘉納治五郎の像には建立に寄付された市民の名が刻まれていました

当時は手賀沼の景色を間近にみることができたといわれていますが、この日は……残念
手賀沼公園北側にある文豪たちに愛された「天神坂」。住宅街に囲まれ、鬱蒼と茂る木々の間に細い階段が伸びています。この地に天神様があったことから天神坂と名付けられたそうで、大正時代にはこの坂のすぐ下まで、手賀沼の水があったため、創作活動の拠点としていた志賀直哉や武者小路実篤らが、小舟でここへ乗り付け、坂を登り、三樹荘へ集まることもあったとか。文豪たちに愛された坂道は現在、手摺もついており、ワタクシたちにも、とても歩きやすくなっています。

青々とした竹林に囲まれ、とても気持ちがよく「北の鎌倉」といわれる所以がわかった気がします
天神坂を降り切ると、そこは手賀沼ではなく、現在では舗装された道になっています。周辺を見上げると、土地の起伏を利用したかつての文豪たちの住まいが偲ばれます。いまも大きなお宅が多く、そのひとつに大きな『大正煎餅』というお煎餅屋さんが目に留まり、ワタクシたち「お土産は土地の人々に愛されている美味しいものが一番!」と早速店内へ。

店内では「木川商店 大正煎餅」という伝統を感じる紺染めの暖簾が出迎えてくれました
志賀直哉は、大正4年、柳宗悦の勧めで手賀沼の畔に移り住み、大正12年まで我孫子で暮らし、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んでいます。書斎は志賀直哉本人が設計に深く関わり、我孫子の大工・佐藤鷹蔵により建てられました。この書斎で志賀直哉は多くの作品を執筆しました。

緑陰に囲まれ、軒先に腰掛けてひと休み
我孫子の白樺派の歴史を後世に伝えようと、日本オラクルのCEO・佐野力さんが設立し館長に就任したのが白樺文学館です。平成20年度に我孫子市に寄贈され、平成21年4月から我孫子市白樺文学館として運営されています。1階の中展示室には柳兼子(柳宗悦の妻)が晩年愛用したピアノをはじめ文学館の所蔵品を展示。1階の図書室では雑誌「白樺」の復刻版をはじめ、白樺派民藝運動関係の書籍を閲覧することができます。2階は大展示室で、テーマ展や企画展が開催されていますが、館内は撮影禁止のため外観だけ。

文学館のスタッフの方がとても親切に説明してくださって感激!!
この日は暑くて、アップダウンの多い我孫子を歩き、万歩計では約1万歩で音をあげてしまいましたが、この次はもう少し涼しい日に山階鳥類研究所や水の館、手賀沼公園なども散策したいなと考えつつ帰路につきました。