アーネスト・サトウは、これまでに幾度か、名前だけは出しましたが、ちゃんと取り上げたことはなかったように記憶しています。
ここ2、3年、モンブラン伯爵にはまりこんで、fhさまをはじめ、さまざまな方のおかげもあり、少しづつ、輪郭が見えてくるようになり、驚きの連続です。
調べ初めて最初のころ、モンブラン伯爵王政復古黒幕説において、鹿島茂氏の『妖人白山伯』という小説が、「王政復古はモンブラン伯の筋書きで大久保利通が行った」というようなパロディ小説であることをご紹介したのですが、いや、調べていくにつれ、現実にモンブラン伯が大きく明治維新にかかわっていたことがわかってまいりました。
フランス艦長の見た堺事件は、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長が、1868年2月10日(慶応4年1月17日)、鳥羽伏見の戦いの直後、横浜に到着してから、翌1869年6月19日(明治2年5月10日)、ブリュネ大尉をはじめとする函館戦争に参加したフランス軍人を乗せて離日するまで、一年間の見聞を記したものです。
艦長は、来日からまだ一年もたたない1868年11月14日(明治元年10月1日)、以下のような、実に的確な感慨を述べています。
われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。
イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しです。
フランスの外交政策が、「排他と独占に基づく貿易」を指向するようになったのは、ロッシュ公使が来日した元治元年以降のことですから、長州は禁門の変で朝敵となり、幕府と戦うことしか道はなかったわけでして、対外を意識し、外交的に幕府を追い詰めたのは、薩摩です。
そして、それは鹿島氏のパロディのように、モンブラン伯の筋書きに薩摩が乗せられたのではなく、薩摩が主体的に、イギリス人とモンブラン伯爵を利用したのです。
で、そのイギリス人です。
以前にも書いたと思うのですが、慶応3年の10月ですから、ちょうど大政奉還のころ、イギリス海軍伝習団が来日し、築地の幕府海軍操練所において伝習を開始しますし、またこの年、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。などでたびたび紹介しましたパリ万国博覧会幕府使節団、プリンス昭武一行を、イギリスは執拗に誘い、自国にて大歓迎してみせますし、当時、幕府が送り出していた留学生の数をいうならば、イギリス留学生が一番多いのです。
つまり、当時の、といますのは、鳥羽伏見の戦いまでの、ですが、イギリスの公式外交政策は、あくまでも幕府支持がメインであり、かならずしも薩長を支援していたわけではないのですね。
では、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しのイギリス人とはだれか、ということなのですが、これは明白です。
イギリス本国においては、来日経験を持ち、薩摩密航留学生の面倒をみていたイギリス下院議員ローレンス・オリファントであり、日本においては、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官であったアーネスト・サトウなんです。もちろん、二人の活動の後ろには、フランスと幕府の提携による排他と独占に基づく貿易に不満をもった、多数の在日イギリス商人がいたわけなのですが。
慶応3年後半から明治元年にかけて、大政奉還から王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の戦いへと続く、幕末維新のいきづまるような政治闘争の裏をいうならば、実際にその現場にいて、薩摩の後押しをしたイギリス人とは、薩道愛之助とも名乗ったアーネスト・サトウにほかならず、プティ・トゥアール艦長のいうイギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しとは、薩道愛之助と白山伯の後押しと言い換えることも、可能でしょう。
まずは主に、上記、萩原延壽氏の名著をもとに、アーネスト・サトウ(ErnestSatow)について、語ってみたいと思います。
サトウ(Satow)という名字は、日本の「佐藤」に音が似ていて、イギリスでは珍しい名字です。
かつて、萩原延壽氏がロンドンの電話帳で調べたところ、サトウ姓は二人しかいなくて、それはアーネスト・サトウの甥のクリストファ・サトウと、その長男ポール・サトウだったそうです。
アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、実は、現在のドイツ東部、バルト海に面したハンザ同盟都市・ヴィスマールという港町の出身でした。つまり、移民だったのです。
ヴィスマールの近くにSatowという村があり、「種蒔く人」というスラブ系の地名なのだそうです。このあたりではごくありふれた名字で、中世西スラブ系のウェンド人かソルブ人によってもたらされたものだろう、という推測です。
中世のハンザ同盟都市ヴィスマールは、17世紀の半ばからスウェーデン王の統治下に入っていましたが、デーヴィッド・サトウの父、つまりアーネスト・サトウの祖父は、この港町で、ロンドンと取り引きをする貿易業者でした。
ややっこしい話なのですが、「スウェーデン王の統治下」といいましても、ヴィスマールが神聖ローマ帝国の一都市であることに変化はなく、スウェーデン王はヴィスマールなどを所有することによって神聖ローマ帝国諸侯となりましたので、あくまでもドイツ文化圏の都市であった、ということは、いえると思います。
フランス革命によって、話はますますややっこしくなります。
フランス革命とスウェーデンといいますと、もうこれはベルバラの世界、といいますか、シュテファン・ツヴァイクが描いたフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルゼン伯爵の恋を思い出すんですが、当時、伝統的に親フランス外交によって安定を得て、ロシア帝国に対していたスウェーデン王は、革命に困惑し、ロシアと同盟を結ぶにいたります。
しかし、ナポレオンの台頭により、経済的混乱に見舞われると同時に、ロシアとの同盟も破れ、戦争はさけられない情勢となって、1803年、ヴィスマールは、神聖ローマ帝国諸侯の一人であったメクレンブルグ大公に売り払われます。
このメクレンブルグ大公がナポレオンの同盟軍に加わったため、1806年、ヴィスマールは大陸封鎖令にまきこまれるんです。ナポレオンのイギリス封じ込め作戦です。ロンドンとの取り引きを家業としていたサトウ家は、これでは食べていけません。
1808年かあるいはその翌年、サトウ家は、先祖代々住み慣れたヴィスマールを後に、ラトヴィアのリガに移住します。リガにはドイツ人が多く住み、ドイツ語が通用していたんです。このとき、アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、兄が4人、姉が1人、弟が3人という大家族の一員で、7、8歳でした。
1812年、ナポレオンがロシアに侵攻し、サトウ家はさらなる避難を余儀なくされ、11歳のデーヴィッドは、2年間、商船に乗り込んで世界をまわります。船長のボーイをしていたのだろう、というのが、アーネスト・サトウの推測です。
デーヴィッドは14歳でリガの実家に帰り、数年間の学校教育を受け、シュナッケンブルグという人物の経営する商会で、貿易業を見習います。1825年、24歳になった年、雇い主のシュナッケンブルグと兄の出資を得て、ロンドンへ渡り、やがて金融業、不動産業を営むこととなりました。
8年の後、デーヴィッドは、イギリス人で、法律関係の代書人の娘であるマーガレット・メイスンと結婚し、ヴィクトリア朝のロンドンにおいて、中流といえる一家を築き、イギリスに帰化します。
アーネスト・サトウは、1843年(天保14年)6月30日、ロンドンのサトウ家の三男として生まれました。
早世した者も含めますと、兄2人のほかに姉が5人いますし、弟が3人。11人兄弟という大家族です。
西郷従道、伊東祐亨、品川弥二郎、田中光顕などと同じ年です。
桐野利秋よりは5つ年下、1833(天保4年)生まれのモンブラン伯爵より10歳若いことになります。
サトウ家が、かならずしも典型的なロンドン中流家庭、といいきれないのは、やはり家主デーヴィッドが移民であったことと無縁ではありません。デーヴィッドは、マルティン・ルターにはじまるドイツ・プロテスタント、ルーテル会派の熱心な信者だったのです。
18世紀から19世紀ヨーロッパの宗教観は、国といいますか、地域と階級によって、かなり大きなちがいがあったように感じられます。
フランツ・リストの愛人であったマリー・ダグー伯爵夫人は、フランス革命を逃れてドイツに亡命したフランス王党派のフラヴィニ子爵と、フランクフルトの銀行家ベトマン家の娘との間に、1805年といいますから、デーヴィッド・サトウに4年遅れて生まれますが、フランス貴族の父親について、以下のように記しています。坂本千代氏著「マリー・ダグー 19世紀フランス 伯爵夫人の孤独と熱情」よりの引用です。
彼は気質的にまったくのガリア人であり、夢想にも、熱狂にも、形而上学にも、音楽にも縁がなかった。信仰心にはそれ以上に縁がなかった。そんなものは当時の貴族のものではなかったのだ。彼の読む作家はホラティウス、オヴィディウス、ラブレー、モンテーニュ、ラ・フォンテーヌ、そしてなによりヴォルテールだった。わたしに書き取りをさせるために彼が一部分を選び取り出すのは、異教のあるいは世俗のこのような作品からであって、けっして聖書からではなかった。私は神話を書きながら字を習ったのである。聖母マリアの受胎告知を知るずっと前にプロセルピナの誘拐を知った、まぐさ桶と幼な子イエスをまだ知らぬ頃すでに幼いヘラクレスの驚くべき揺りかごに感激していた。
つまり、聖書より先に、ギリシャ・ローマ神話を知ったわけですね。
マリー・ダグーはフランクフルトで生まれ、ほどなくフランスに帰国しますが、フランスで生きる以上、カトリックでなければ将来よい結婚は望めない、という父方の祖父母の意見にしたがい、カトリックの洗礼を受けます。信仰心ではなく、いわば冠婚葬祭のためのカトリック、日本の葬式仏教に近い感じがします。
ところが、これに異議を唱えたのが、母方、フランクフルトのベトマン家の祖母でした。
ベトマン家はルーテル会派で、一家の女主人である祖母は、「聖書の教えと信仰箇条を厳守」する熱心な信者だったのです。ベトマン家は大ブルジョアで、中流商人のサトウ家と階層はちがいますけれども、ドイツ語圏のルーテル会派という点では同じで、無信仰に近いフランス貴族とは、大きく宗教意識がちがっていたことがわかります。
ロンドン東北部クラプトン地区。公共緑地がひろがり、テラスハウスが並ぶ、品のいい中流階級の住宅地で、アーネスト・サトウは生まれました。ヴィクトリア女王が18歳で即位して、6年後のことです。
サトウ家は大家族でしたが、兄弟姉妹、みな幼少のころから家庭教師について、ドイツ語、フランス語はもちろん、ギリシャ語、ラテン語という古典の基礎を学んでいたといいますから、両親は教育熱心であり、中流といえるだけの財力はあったようです。
わたしの父は非常にしつけがきびしく、われわれは父のいいつけには絶対に服従しなければならなかった。父のいいつけをひどく無視するようなことをした場合、われわれはかならず鞭でたたかれるという罰をうけた。
と、後年、アーネスト・サトウは回顧しています。
そして、「本当に信仰心のあつい父と母」でもありました。
毎日、朝晩、聖書の一章を家族で読み、日曜日にはそろって教会へ出かけた後、「すべての玩具が取りあげられ、平日のような読書は禁じられ、ただモーゼの『十戒』をくりかえし暗唱し、さらに聖書を読みつづける」ような、家庭だったのです。
これが、イギリスの典型的な中流家庭とちがっていたことは、サトウ家において「国教徒は、宗教にあまり関心のない、世俗的な人々である」と、見られていたことでもわかります。
イギリスでは、上流階級をはじめとして、イギリス国教会、つまりは「国教徒」が主流であったからです。
アーネストは、ほっそりとした利発な少年で、教育熱心な父母の期待の星でした。
近所の私立塾で初等教育を受けた後、13歳で、ミル・ヒル・スクールへ進学します。
ミル・ヒル・スクールは、現在では名門パブリック・スクールの仲間入りをしているそうですが、当時はそうではありませんでした。イートン、ハロー、ウインチェスターなど、ジェントルマン階級の子弟を教育する名門パブリック・スクールには、国教徒でなければ入学できず、そういう教育の場からはみだした、非国教徒の子弟の教育の受け皿が、ミル・ヒルだったんです。
同じ理由で、非国教徒の移民の子であるアーネストには、オックスフォード、ケンブリッジという名門大学への道が、事実上閉ざされていました。この二校が非国教徒に開かれたのは、1871(明治3年)からのことです。
ミル・ヒルでの教育は、ラテン語、ギリシャ語を中心とする古典で、しかも宗教的な規律がきびしく、早熟だったらしいアーネストにとっては、「退屈な学校生活」でした。
1859年、16歳のアーネストは主席でミル・ヒルを卒業し、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)の奨学金を得て、進学します。UCLは、非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学で、後に、森有礼などの薩摩藩イギリス密航留学生たちも、この大学で学ぶことになります。
荻原氏は、当時、「神不在の大学」といわれていたUCLの学風から、アーネストは父母の教えを離れて、無神論者に近くなったのではないか、と推測されています。
1861年(文久元年)アーネスト18歳、イギリス外務省は、中国と日本の領事部門に所属する通訳生の推薦を、いくつかの大学に求め、UCLにも3名がわりあてられました。推薦を受けた後、さらに採用試験を受けるのですが、アーネストは、これに最年少で応募し、主席で合格します。
これが、生涯にわたるアーネスト・サトウと日本の縁のはじまりだったのですが、なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか、次回vol2では、そこらあたりから、語っていきたいと思います。
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ここ2、3年、モンブラン伯爵にはまりこんで、fhさまをはじめ、さまざまな方のおかげもあり、少しづつ、輪郭が見えてくるようになり、驚きの連続です。
調べ初めて最初のころ、モンブラン伯爵王政復古黒幕説において、鹿島茂氏の『妖人白山伯』という小説が、「王政復古はモンブラン伯の筋書きで大久保利通が行った」というようなパロディ小説であることをご紹介したのですが、いや、調べていくにつれ、現実にモンブラン伯が大きく明治維新にかかわっていたことがわかってまいりました。
フランス艦長の見た堺事件は、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長が、1868年2月10日(慶応4年1月17日)、鳥羽伏見の戦いの直後、横浜に到着してから、翌1869年6月19日(明治2年5月10日)、ブリュネ大尉をはじめとする函館戦争に参加したフランス軍人を乗せて離日するまで、一年間の見聞を記したものです。
艦長は、来日からまだ一年もたたない1868年11月14日(明治元年10月1日)、以下のような、実に的確な感慨を述べています。
われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。
イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しです。
フランスの外交政策が、「排他と独占に基づく貿易」を指向するようになったのは、ロッシュ公使が来日した元治元年以降のことですから、長州は禁門の変で朝敵となり、幕府と戦うことしか道はなかったわけでして、対外を意識し、外交的に幕府を追い詰めたのは、薩摩です。
そして、それは鹿島氏のパロディのように、モンブラン伯の筋書きに薩摩が乗せられたのではなく、薩摩が主体的に、イギリス人とモンブラン伯爵を利用したのです。
で、そのイギリス人です。
以前にも書いたと思うのですが、慶応3年の10月ですから、ちょうど大政奉還のころ、イギリス海軍伝習団が来日し、築地の幕府海軍操練所において伝習を開始しますし、またこの年、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。などでたびたび紹介しましたパリ万国博覧会幕府使節団、プリンス昭武一行を、イギリスは執拗に誘い、自国にて大歓迎してみせますし、当時、幕府が送り出していた留学生の数をいうならば、イギリス留学生が一番多いのです。
つまり、当時の、といますのは、鳥羽伏見の戦いまでの、ですが、イギリスの公式外交政策は、あくまでも幕府支持がメインであり、かならずしも薩長を支援していたわけではないのですね。
では、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しのイギリス人とはだれか、ということなのですが、これは明白です。
イギリス本国においては、来日経験を持ち、薩摩密航留学生の面倒をみていたイギリス下院議員ローレンス・オリファントであり、日本においては、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官であったアーネスト・サトウなんです。もちろん、二人の活動の後ろには、フランスと幕府の提携による排他と独占に基づく貿易に不満をもった、多数の在日イギリス商人がいたわけなのですが。
慶応3年後半から明治元年にかけて、大政奉還から王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の戦いへと続く、幕末維新のいきづまるような政治闘争の裏をいうならば、実際にその現場にいて、薩摩の後押しをしたイギリス人とは、薩道愛之助とも名乗ったアーネスト・サトウにほかならず、プティ・トゥアール艦長のいうイギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しとは、薩道愛之助と白山伯の後押しと言い換えることも、可能でしょう。
旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 (は29-1)) (朝日文庫 (は29-1))萩原 延壽朝日新聞社このアイテムの詳細を見る |
まずは主に、上記、萩原延壽氏の名著をもとに、アーネスト・サトウ(ErnestSatow)について、語ってみたいと思います。
サトウ(Satow)という名字は、日本の「佐藤」に音が似ていて、イギリスでは珍しい名字です。
かつて、萩原延壽氏がロンドンの電話帳で調べたところ、サトウ姓は二人しかいなくて、それはアーネスト・サトウの甥のクリストファ・サトウと、その長男ポール・サトウだったそうです。
アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、実は、現在のドイツ東部、バルト海に面したハンザ同盟都市・ヴィスマールという港町の出身でした。つまり、移民だったのです。
ヴィスマールの近くにSatowという村があり、「種蒔く人」というスラブ系の地名なのだそうです。このあたりではごくありふれた名字で、中世西スラブ系のウェンド人かソルブ人によってもたらされたものだろう、という推測です。
中世のハンザ同盟都市ヴィスマールは、17世紀の半ばからスウェーデン王の統治下に入っていましたが、デーヴィッド・サトウの父、つまりアーネスト・サトウの祖父は、この港町で、ロンドンと取り引きをする貿易業者でした。
ややっこしい話なのですが、「スウェーデン王の統治下」といいましても、ヴィスマールが神聖ローマ帝国の一都市であることに変化はなく、スウェーデン王はヴィスマールなどを所有することによって神聖ローマ帝国諸侯となりましたので、あくまでもドイツ文化圏の都市であった、ということは、いえると思います。
フランス革命によって、話はますますややっこしくなります。
フランス革命とスウェーデンといいますと、もうこれはベルバラの世界、といいますか、シュテファン・ツヴァイクが描いたフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルゼン伯爵の恋を思い出すんですが、当時、伝統的に親フランス外交によって安定を得て、ロシア帝国に対していたスウェーデン王は、革命に困惑し、ロシアと同盟を結ぶにいたります。
しかし、ナポレオンの台頭により、経済的混乱に見舞われると同時に、ロシアとの同盟も破れ、戦争はさけられない情勢となって、1803年、ヴィスマールは、神聖ローマ帝国諸侯の一人であったメクレンブルグ大公に売り払われます。
このメクレンブルグ大公がナポレオンの同盟軍に加わったため、1806年、ヴィスマールは大陸封鎖令にまきこまれるんです。ナポレオンのイギリス封じ込め作戦です。ロンドンとの取り引きを家業としていたサトウ家は、これでは食べていけません。
1808年かあるいはその翌年、サトウ家は、先祖代々住み慣れたヴィスマールを後に、ラトヴィアのリガに移住します。リガにはドイツ人が多く住み、ドイツ語が通用していたんです。このとき、アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、兄が4人、姉が1人、弟が3人という大家族の一員で、7、8歳でした。
1812年、ナポレオンがロシアに侵攻し、サトウ家はさらなる避難を余儀なくされ、11歳のデーヴィッドは、2年間、商船に乗り込んで世界をまわります。船長のボーイをしていたのだろう、というのが、アーネスト・サトウの推測です。
デーヴィッドは14歳でリガの実家に帰り、数年間の学校教育を受け、シュナッケンブルグという人物の経営する商会で、貿易業を見習います。1825年、24歳になった年、雇い主のシュナッケンブルグと兄の出資を得て、ロンドンへ渡り、やがて金融業、不動産業を営むこととなりました。
8年の後、デーヴィッドは、イギリス人で、法律関係の代書人の娘であるマーガレット・メイスンと結婚し、ヴィクトリア朝のロンドンにおいて、中流といえる一家を築き、イギリスに帰化します。
アーネスト・サトウは、1843年(天保14年)6月30日、ロンドンのサトウ家の三男として生まれました。
早世した者も含めますと、兄2人のほかに姉が5人いますし、弟が3人。11人兄弟という大家族です。
西郷従道、伊東祐亨、品川弥二郎、田中光顕などと同じ年です。
桐野利秋よりは5つ年下、1833(天保4年)生まれのモンブラン伯爵より10歳若いことになります。
サトウ家が、かならずしも典型的なロンドン中流家庭、といいきれないのは、やはり家主デーヴィッドが移民であったことと無縁ではありません。デーヴィッドは、マルティン・ルターにはじまるドイツ・プロテスタント、ルーテル会派の熱心な信者だったのです。
18世紀から19世紀ヨーロッパの宗教観は、国といいますか、地域と階級によって、かなり大きなちがいがあったように感じられます。
フランツ・リストの愛人であったマリー・ダグー伯爵夫人は、フランス革命を逃れてドイツに亡命したフランス王党派のフラヴィニ子爵と、フランクフルトの銀行家ベトマン家の娘との間に、1805年といいますから、デーヴィッド・サトウに4年遅れて生まれますが、フランス貴族の父親について、以下のように記しています。坂本千代氏著「マリー・ダグー 19世紀フランス 伯爵夫人の孤独と熱情」よりの引用です。
彼は気質的にまったくのガリア人であり、夢想にも、熱狂にも、形而上学にも、音楽にも縁がなかった。信仰心にはそれ以上に縁がなかった。そんなものは当時の貴族のものではなかったのだ。彼の読む作家はホラティウス、オヴィディウス、ラブレー、モンテーニュ、ラ・フォンテーヌ、そしてなによりヴォルテールだった。わたしに書き取りをさせるために彼が一部分を選び取り出すのは、異教のあるいは世俗のこのような作品からであって、けっして聖書からではなかった。私は神話を書きながら字を習ったのである。聖母マリアの受胎告知を知るずっと前にプロセルピナの誘拐を知った、まぐさ桶と幼な子イエスをまだ知らぬ頃すでに幼いヘラクレスの驚くべき揺りかごに感激していた。
つまり、聖書より先に、ギリシャ・ローマ神話を知ったわけですね。
マリー・ダグーはフランクフルトで生まれ、ほどなくフランスに帰国しますが、フランスで生きる以上、カトリックでなければ将来よい結婚は望めない、という父方の祖父母の意見にしたがい、カトリックの洗礼を受けます。信仰心ではなく、いわば冠婚葬祭のためのカトリック、日本の葬式仏教に近い感じがします。
ところが、これに異議を唱えたのが、母方、フランクフルトのベトマン家の祖母でした。
ベトマン家はルーテル会派で、一家の女主人である祖母は、「聖書の教えと信仰箇条を厳守」する熱心な信者だったのです。ベトマン家は大ブルジョアで、中流商人のサトウ家と階層はちがいますけれども、ドイツ語圏のルーテル会派という点では同じで、無信仰に近いフランス貴族とは、大きく宗教意識がちがっていたことがわかります。
ロンドン東北部クラプトン地区。公共緑地がひろがり、テラスハウスが並ぶ、品のいい中流階級の住宅地で、アーネスト・サトウは生まれました。ヴィクトリア女王が18歳で即位して、6年後のことです。
サトウ家は大家族でしたが、兄弟姉妹、みな幼少のころから家庭教師について、ドイツ語、フランス語はもちろん、ギリシャ語、ラテン語という古典の基礎を学んでいたといいますから、両親は教育熱心であり、中流といえるだけの財力はあったようです。
わたしの父は非常にしつけがきびしく、われわれは父のいいつけには絶対に服従しなければならなかった。父のいいつけをひどく無視するようなことをした場合、われわれはかならず鞭でたたかれるという罰をうけた。
と、後年、アーネスト・サトウは回顧しています。
そして、「本当に信仰心のあつい父と母」でもありました。
毎日、朝晩、聖書の一章を家族で読み、日曜日にはそろって教会へ出かけた後、「すべての玩具が取りあげられ、平日のような読書は禁じられ、ただモーゼの『十戒』をくりかえし暗唱し、さらに聖書を読みつづける」ような、家庭だったのです。
これが、イギリスの典型的な中流家庭とちがっていたことは、サトウ家において「国教徒は、宗教にあまり関心のない、世俗的な人々である」と、見られていたことでもわかります。
イギリスでは、上流階級をはじめとして、イギリス国教会、つまりは「国教徒」が主流であったからです。
アーネストは、ほっそりとした利発な少年で、教育熱心な父母の期待の星でした。
近所の私立塾で初等教育を受けた後、13歳で、ミル・ヒル・スクールへ進学します。
ミル・ヒル・スクールは、現在では名門パブリック・スクールの仲間入りをしているそうですが、当時はそうではありませんでした。イートン、ハロー、ウインチェスターなど、ジェントルマン階級の子弟を教育する名門パブリック・スクールには、国教徒でなければ入学できず、そういう教育の場からはみだした、非国教徒の子弟の教育の受け皿が、ミル・ヒルだったんです。
同じ理由で、非国教徒の移民の子であるアーネストには、オックスフォード、ケンブリッジという名門大学への道が、事実上閉ざされていました。この二校が非国教徒に開かれたのは、1871(明治3年)からのことです。
ミル・ヒルでの教育は、ラテン語、ギリシャ語を中心とする古典で、しかも宗教的な規律がきびしく、早熟だったらしいアーネストにとっては、「退屈な学校生活」でした。
1859年、16歳のアーネストは主席でミル・ヒルを卒業し、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)の奨学金を得て、進学します。UCLは、非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学で、後に、森有礼などの薩摩藩イギリス密航留学生たちも、この大学で学ぶことになります。
荻原氏は、当時、「神不在の大学」といわれていたUCLの学風から、アーネストは父母の教えを離れて、無神論者に近くなったのではないか、と推測されています。
1861年(文久元年)アーネスト18歳、イギリス外務省は、中国と日本の領事部門に所属する通訳生の推薦を、いくつかの大学に求め、UCLにも3名がわりあてられました。推薦を受けた後、さらに採用試験を受けるのですが、アーネストは、これに最年少で応募し、主席で合格します。
これが、生涯にわたるアーネスト・サトウと日本の縁のはじまりだったのですが、なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか、次回vol2では、そこらあたりから、語っていきたいと思います。
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ご紹介、ありがとうございます。
「西郷の妻」は徳田秀子(徳田虎雄氏夫人)さん、西郷隆夫(西郷隆盛の曾孫)さん、若松宏(隆盛夫人イトさんの弟の曾孫)さんの鼎談本です。
P.41に「西郷家の親戚で、兄の十右衛門とともに西郷さんを敬愛していた有川矢九郎が、妻のいとこに当たるイトさんをいきなり連れてきて、了解させたらしいです(笑)。」とあります。
私は知らなかったので、やや驚きましたが、鹿児島では有名な話なんですかね。有川さんは長命で当時の鹿児島では著名人だったでしょうから。
御礼が遅くなりましたが、さまざまな情報もありがとうございます! 矢九郎さんは好きなタイプの薩摩藩士ですし、来年には、詳しく調べてみるつもりでおります。
ご子孫だということで、あるいは失礼になるかと、書こうかどうしようか迷ったのですが、矢九郎さんは、長崎になじんだ女性がいて、女の子が生まれていた、という憶測も、許されるのではないでしょうか。長崎でオランダの海軍伝習を受けたと、私は思っておりますし、かなり長崎に滞在する期間はあったのではないかと。お気に障りましたら、お許しください。
矢九郎の墓は、当初は南林寺墓地にありましたが、宅地造成のために大正8年12月に現在の興国寺墓地に改葬したと祖父から聞いており、記録にも残されています。
小生の祖父が東京にも住宅を構えていたときに、南林寺墓地改葬の話を聞いて、分譲で残されて居た墓所が偶然に一等地のみであったと云うことだそうです。
間口7間、奥行き2間の墓所です。
先日、矢九郎の名前の文字を間違えて書いてしまいました。
「貞實」が有川家の系図に書かれている名前です。
初 二之介、矢九郎となっています。
【實】は、うかんむりの人名用漢字で、シフトJISコードが「9B89」で、異体字は【実】になります。
矢九郎の住んでいた、鹿児島市平之町に『会文舎』が現在も残されています。
ここに、矢九郎に関する史料も残されてはいますが、多くは「鹿児島大学中央図書館所蔵の貴重書(伊勢文書)」を閲覧することで確認が可能です。
諸家文書の伊勢家文書(695点)の中に、有川矢九郎等が記載されているのは、伊勢国では小名であるとの理由から、伊勢貞為の許しを得て、伊勢姓氏を薩摩国で初めて使いました。
伊勢矢九郎の名前で、療養願が保存されています。
家系図を見る限り、矢九郎には娘はおらず、男四人の名前のみです。
娘が居た場合には、系図には、「女」と書くか、「誰々の室」と記載がされています。
皆様が矢九郎翁に関心をもっていただき、感謝をいたしております。
紅ゆずるさんの素顔を見て、先見の明にびっくりです。顔立ちが桐野に似てますし、弁が立つところなんか、ぴったりですね。後、「新人公演を見てみたい」とおっしゃっていた先見の明にも、びっくりです。素顔の写真で、ものすごく期待できそうな新人さんが桐野で、今頃になって見たかった!と。東京公演もあるのですが、チケットソールドアウトで、ヤフオクとか、そういった類いのところに、高額のものしかないですわ。
北翔さまの桐野は、私の中の桐野のイメージとはちがうのですが、「桜華が舞う」はあて書きみたいですし、研究熱心で、芸達者な方ですし、多くの方に関心を持ってもらえるのではないか、と思います。
ブログを書きたいし、お電話もしたいのですが、今日、明日は、仕事の締め切りに追われていまして、遅れます。ごめんなさい。
矢九郎様のお墓、お参り出来ました。鳥羽ッチ様が教えて下さった書籍のコピーも県立図書館でしてきました。
ご都合の良いとき、お電話下さい。
北翔さま、鹿児島だけでなく、田原坂資料館へもいらしてました。
コピーで郵送しますが、多分、月末になります。
有川矢九郎氏に関する書籍を調べると何冊かヒット!
敬天愛人第10号 p286〜p289に、有川矢九郎公徳碑が掲載されてあった○
旧伊敷不動堂の土地を有川矢九郎が手に入れた事は、以前コメントした。伊敷不動堂は、旧官有地だったそうで官(県庁)に願い出て所有し別荘を建てている。矢九郎は官に恩返しをしようと思い、そこの集落の農民たちが田畑に農業用水引くのに大変苦労している事を知り、「これこそ私の報恩の志に適うものだ!」と喜び身銭を切って二百円をなげうち、村民から人夫を募集し用水路を石で造り直した。村民達はよろこんで労役に従事し程なく終わった。村民達は互いに野良で手をたたいて喜び合い「これから先、五穀豊穣だ。みんな有川さんのお陰だ。」と言いはしゃいだ。この工事は、戸長(村長)東郷宗次郎が監督した。東郷は記念碑を建てたいので西郷隆盛に碑文を頼み経緯を記そうとした。一体、施しは美徳である。然し、良い施しはやたらにしないものである。だから、善い施しの恵みは一時的なものでなく、永遠に続き得るものである。云々。明治七年甲戊九月下旬西郷隆盛書。当時は矢九郎の別荘地にあったが、移動している。今度行ってみま〜す。
有川矢九郎の写真を見つけました!「レンズが撮らえた幕末の写真師 上野彦馬の世界」小沢健志、上野一郎 監修p120掲載1ページ1人で写ってる(笑)薩摩独特の長めの刀を右手に持ち椅子に腰掛けてカメラ目線を外して写ってました。(爆笑)
確りコピーして帰りました。
時間が無かったので有川矢九郎に関する文献。
鹿児島県史三巻p206 西郷隆盛全集六p289 薩摩海軍史上巻p13 p619 薩摩海軍史中巻 p507 p565 p575 p582 p806 p838 薩摩海軍史下巻p86 p152 p181 分かったのは、これだけです。鹿児島県立図書
館。有川矢九郎の別荘があった場所は現在、梅ヶ渕不動堂。自然の滝や池、庭石があり。自由に入れますよ。
それでは〜!
玄孫さまは、系図上は貞寛と書かれていますが、コトバンクでは貞実です。
中村さま! お願いします! 享年とか知りたいです。メール、届きました。
長沢鼎のお墓があります。山の斜面でチトきついですが、眺めは良いです。(笑)
南洲墓地に近いので、例大祭後に行けるかも。
無理だったら、10月に行きます。
ネット情報でお墓の場所も大体把握できました。
13日の写真、後程メールします。
先の大戦で鹿児島は激しい空襲の末、焼け野原と化したそうで全国でも文化財や歴史的書簡が少ない県です。
有川矢九郎が貿易で成功した後、広大な土地を購入していますが、その中に伊敷不動堂という場所があります。(現在は梅ヶ渕不動堂で地主さんは変わっております)私は、そちらに、ご縁があって現在の地主さんと、お話の際、有川矢九郎氏の話を聞いて知りました。
梅ヶ渕不動堂に当時の有川矢九郎の石碑が残っていまして、「この山の木、百年間の間は切るべからず」と彫られあります。
話は長くなりますので簡単に書くと不動堂の近くに甲突川があり明治期に大雨による氾濫がありました。その時、矢九郎氏が川の護岸工事や道路や田畑の復興を私財を投じて行いました。そのお礼に西郷隆盛氏より感謝状が贈られ、それを石碑にした。ことを知りました。現在不明の、その石碑を調べている最中です。
今後も鹿児島の史料館や図書館へ足を運ぶ予定ですので、有川矢九郎氏に関する文献があれば調べてみます。残された資料が少ないので、お役に立てるかどうかは解りませんが何かありましたら、またコメント差し上げます。
有川矢九郎氏の名は、オランダ海軍伝習生の中には、出てきませんよね? しかし、シーボルトと知り合いだったというんでしたら、公式には幕臣以外はとらなかった第二次か第三次の伝習を受けたのではないか、と思うんですけど、どんなもんでしょう?
坂本龍馬とは、当然、知り合いだと思います。ユニオン号事件の時、井上馨と伊藤博文が薩摩名義で仕入れた武器の輸送を、有川矢九郎が船長の薩摩船がやっている旨、「井上伯伝」に出てまいります。井上馨は、大久保が長州へ来てくれるものと思っていたのに来ないでがっかりして、船長の有川矢九郎に政治的な話をしようとするのですが、まったく通じずがっかり、という感じです(笑)
どんな文献があるのか、よろしければお教えください。
有川矢九郎はシーボルトや勝海舟とも交流があったようです。西郷隆盛が遠島から帰る時には、有川矢九郎が胡蝶丸で迎えに行っています。西郷隆盛の正妻、糸子(イト・絲子)を紹介したのは、有川矢九郎です。糸子は矢九郎の妻の従姉妹。
明治維新後、有川矢九郎は明治政府に誘われますが断り貿易業を起業しています。三邦丸(三国丸)の払い下げを受けたり、大蔵省から鹿児島丸を借りたりして主に台湾やフィリピンなどで交易して実業家として成功しています。
薩長連合の時、坂本龍馬が薩摩の軍船に乗船したり薩摩藩邸に身を隠していたり、新婚旅行で薩摩を訪れたりと、有川矢九郎と交流する機会があったと思われます。龍馬と矢九郎と貿易の話で盛り上がったこともあったのかも知れませんね(笑)
有川矢九郎氏のお墓が、鹿児島にあるんですか! 今度鹿児島にまいりましたときには、私もお参りしたく、よろしければ、場所をお教えくださいませ。
NHK大河ドラマが西郷さんになるようでして、期待よりも不安の方が大きい昨今です。
島津義久に仕えた有川弥九郎は、戦国時代から安土桃山時代の方ですし…。
幕末から明治時代に薩摩藩の軍船の艦長を勤めた有川やくろうは弥九郎、矢九郎、八九郎みんな同一人物とみて間違いないと思いますよ。
実は、お話がいまひとつ、のみ込めないでおります。
通称の「弥」と「矢」は、同一人物が双方使う、ということもあろうかと存じます。吉村「虎太郞」が「寅太郎」になったりしますし、薩摩でいえば、新納「武之助」は「竹之助」という記録もあります。
玄孫さまは、三邦丸の船長をしていた有川『矢九郎』さんのご子孫でおられるのでしょうか? それで、肝付町の吉井豊寛氏のお母様のおばあ様は、有川『矢九郎』さんではないと、おっしゃるんですか? ちょっと私、信じられないでおります。申し訳ございません。
三邦丸の船長をしていた、アーネスト・サトウ日記抄に記載のある『有川弥九郎』は、【有川矢九郎】が正しいと書かせていただきました。
有川弥九郎は、島津家の「島津義久→義弘→家久→光久」の四代に仕えし家老の有川貞昌(伊勢貞昌兵部少輔)の通称名です。
※出典:『本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』鹿児島県立図書館、1973年でも確認いただけます。
皆さんが書かれている、「弥九郎」は『矢九郎』とは別人になります。
三邦丸の船長をしていたのは、『矢九郎』で、初め二之助、後が矢九郎で、系図上では貞寛となります。
父は貞馨で、長兄が貞正で、姉の美津がいます。
叔父の貞幹の継養子となっています。
お返事が遅くなりまして、申し訳ございませんでした。
なにかにとりつかれますと、その関連の本を読みふけって、つい、余裕を失ってしまいます。
これに懲りずに、またどうぞ、お越しくださいませ。
系図を書くことは出来ませぬが^^
私の母の祖母が弥九郎の娘(あい=おあいさんと呼ばれてたようです)で 祖父 中俣健吉(中俣家は島津氏がに薩摩に派遣された時に随行したと聞いております)は 長崎でシーボルトに医学を学び こちらで開業 おあいさんと結婚したようです。
弥九郎と健吉は長崎で出あったんでしょうね~~~~~^^。
なお 中俣家には 肥後の相良家の部屋住みが養子にはいっていますので 有川家と中俣家の婚姻は申し分なかったのでしょうね^^?
その後 健吉は漁業(鰤の定置網)にも手を出し大儲けしたようで(旧家を溢すとき 大正年間の上納金1400円 という鑑札がでて参りました。その後 官選の内之浦村の村長を拝命するようなアクドイ ジ様だったようです^^ ^^。
ここ 内之浦は種子島同様良質の砂鉄と豊富な木材 水量も豊富なため 粗鋼?を作る溶鉱炉跡も存在しますので 島津家とは深いつながりがあったとおもわれます。
感激です。
サトウが幕末に親しかったの薩摩人の中で、「仇を討ってやりたいものだ」とまで言った柴山良助と、実に気持ちよさそうに宴会をしている有川弥九郎は、「ああ、サトウって、こういう裏表のない薩摩人が好きだったのね」と、深く印象に残ります。
コメント、ありがとうございました! この続きも書かねば、と、自分で自分にあきれつつ。いつになるかわかりませんが、またいつかこの続きを、読んでやってくださいませ。
最近私の曽曽祖父のことを家族よりそれとなく伺ってましたが 最近になり 曽曽祖父のことが ある文献でサトウ氏の回顧録にほんの少し彼の名前が記されてたので びっくりしてるところです。
彼の名前は 有川弥九郎 当時の薩摩藩水軍隊の談合役(参謀)で 西郷隆盛が遠島を解かれ帰還時迎えに行った艦船の艦長で その後関西方面にも西郷さんに伴い行ったと家人には聞かされてましたが アーネストと酒盛りしたり オンナご馳走の話が記されるなどのくだりはまさに思いもしないほどのことでした。
西郷さんから 斉彬公より拝領のロンジン社製の腕時計を頂いたという話も伺ってはおりますが それを検証するよすがもない今
アーネスト=サトウを検索するうちにこのURLにたどり着きましたので 失礼を省みずコメント致しました。
ステキです!
注文させていただきました。
えーとぜひ、アーネスト・サトウはアルジャーノン・バートラム・ミットフォードとカップルでお願いしたいかなと(笑) ミットフォードについては、近々書き始めます。
アメリカ留学さま
うちのサファリでは、レイアウトがくずれて一部読めませんの。ぜひ、Macユーザーにもご配慮のほどを(笑)
アーネスト・サトウも五代や小松、堀と組み合わせて描いてみたいと思いつつ、今回のデザイン・フェスタ用には間に合いませんでした。絵葉書の絵柄について御意見ご要望などありましたらお聞かせください。
個人的な話題ばかりで申し訳ありませんでした。
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