郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2

2013年10月29日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1の続きです。

 まずは、ですね。
 私がなぜ、乃木将軍が大嫌いだったのか、ですが、原因は、司馬遼太郎氏です。
 しかし、氏が「坂の上の雲」で描きました乃木さんの野戦指揮官としての無能ぶり、ではありません。これは、あんまりにも極端な描かれ方がされていまして、「ちょっと、ありえないよねえ」という感想を、最初から持っていました。
 だいたい、要塞の攻略には、当時、どこの国の軍であろうが、手こずるのが常でしたし、しかし、ロシアが太平洋をにらんで築きました海軍基地・旅順を攻略しなければ、日本がロシアの極東支配を押し返すことはできません。北京駐在イギリス公使でしたアーネスト・サトウをはじめ、日露戦争に関心を寄せ、なおかつ客観的に批評できたはずの外国人の誰もが、日本軍の旅順攻撃を賞賛し、乃木を評価しているんです。

 司馬氏の乃木無能説に対します批判を、私が最初に読みましたのは、入江隆則氏の「敗者の戦後」なんですが、現在ではもっと詳細な批判としまして、別宮暖朗氏の著作(デジタル版)などもあります。

 
敗者の戦後 (ちくま学芸文庫)
入江 隆則
筑摩書房


旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
別宮 暖朗
PHP研究所


 司馬氏が描いた乃木希典、といえば、「殉死」ですが、大嫌いになりました原因は、これでもありません。
 「殉死」にも、うるさいくらいに乃木無能説が出てくるのですが、実は司馬氏は戦略とか戦術とかの話が苦手なのではないのか、と達観してしまいますと、司馬氏が描きます乃木さんの人柄につきまして、共感を抱いたとか、理解できたとか、というわけではないのですが、こういう人もいたんだろうなあ、と感嘆しますような、リアリティは濃厚にあったんです。
 といいますか、乃木さんは私にとりまして直接資料にあたるほど関心があった人物ではなく、人柄としましては、司馬氏の巧みな筆で描かれました「殉死」の乃木像に、説得されてしまった、ということなのでしょう。

殉死 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋

 
 私が「翔ぶが如く」を読みましたのは、「殉死」の後でした。
 いうまでもなく「翔ぶが如く」は、西南戦争を主眼として描いていますから、萩の乱に関する著述はさして多くはなく、乃木さんが登場しますのも、ほんの短い場面にすぎないのですが、なにしろ、「殉死」に説得された後でしたので、私は、司馬さんの描写を丸ごと信じ込んでしまいまして、信じ込んだあげくに、ここで、乃木さんが大嫌いになってしまった、というわけなんです。

翔ぶが如く〈7〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 なんでって……、乃木希典の実弟・玉木正誼は萩の乱に参加し、戦死しているんですが、その当時、希典は熊本鎮台に属します小倉で、連隊長を務めていました。
 乱の直前、正誼はしばしば兄を訪ねて、兄や、その配下の将校たちに、反乱に参加することを勧めていました。
 以下、「翔ぶが如く」より引用です。

 乃木自身は、すこしも動揺していない。政治論議のできないかれは弟に対して議論はしなかったが、態度を硬くしていた。しかも弟が洩らした同志たちの動きを、東京の陸軍省や直属上官の熊本鎮台司令長官種田政明に報じていた。

 種田政明は、芸者衆に人気の美男子で、花の左門さまと呼ばれました薩摩人ですが、神風連の乱で不覚をとり、殺されます。
 士族反乱の最初は明治7年の佐賀の乱で、この時期、桐野利秋は、鹿児島の自分の開墾地で、江藤新平に応じて乱に参加し、逃げて来た二人をかくまっていまして、おそらくは警視庁初代大警視で薩摩人の川路利良が放ったと思われます密偵が、身辺をかぎまわっていたといわれます。反乱の予防のための偵察は警察の役目であって、それが川路の仕事です。
 しかし当然のことながら、熊本鎮台の種田はろくろく用心していた形跡もありませんで、だからこそ、ふいを襲われて殺されたわけでしょう。
 
 種田は直接の上官ですから、希典が報告を入れるのは当然と言えば当然なのですが、なんとなく司馬氏の書き方では、やらなくてもいい密偵の役目を積極的に買って出て、血のつながった弟とその同志を政府に売っていた、という感じを受けます。しかもその理由を、司馬氏は、希典が陸軍省で山県有朋の下にいました福原和勝大佐(陸軍長州閥の先輩)へ出した書簡の文面から、次のように説明しているんです。
 ちなみに、司馬氏はまったく説明してくれていないのですが、他の伝記を読みますと、実はこの文面、福原が山県の指示で希典の反乱軍への処置が甘すぎると詰問の手紙を出し、希典がそれに反駁した手紙の一部です。

 「私は弟に対し骨肉の情まで断ったのだ」という意味のことを、以下のようなはげしい文書で書いている。
 「希典の去年、この職(註・小倉の連隊長)を奉ずるより居常寝食の間といえども、意をこの騒乱の因起するところに注がざるなく、終に骨肉の親を絶て、おのれを知る者のために報ずるあらんとするは、はやくすでに足下の知了せらるるところなり」
 この前後の文章を読んでも、晩年の乃木のすきな天皇への忠誠心などについての文章は出て来ない。かれのこの文章に関するかぎり、弟を義絶(註・乱の直前)したのは国家への忠誠心ではなく、「おのれを知る者のために報ずるあらん」としたためである。おのれを知る者とは、自分をとりたててくれた陸軍卿山県有朋であることは、まぎれもない。


 いくつか伝記を読みました現在、「おのれを知る者とは、自分をとりたててくれた陸軍卿山県有朋であることは、まぎれもない」と司馬氏が決めつけています部分については、「ほんとに山県なの?」と疑問なんですが、この司馬氏の書き方では、「自分の立身出世のために実の弟を売ったんかいな!!!」と私が受け取りましたのも、無理ないのではないでしょうか。

 司馬氏は、必ずしも、まったく根拠のないことを並べている、というわけではないのですが、なんといえばいいのでしょうか、説明するべき部分を省き、拡大鏡で見た細部が全体像であると錯覚させるような描写で、「翔ぶが如く」だけではなく、実は「殉死」も、なのですが、乃木希典という人物を、読者が好ましく受け取れるようには提示していないのです。

 そりゃあ、ですね。
 西南戦争におきます中央政府側の薩摩人にも、血のつながった兄弟と戦わざるをえなかった例は複数あります。
 大山巌の伝記にある話なのですが、戦中に鹿児島入りしました巌を、実姉の国子が訪ねてきまして、「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」と激しく詰めより、巌は返す言葉もなく押し黙った、といわれています。

 おおよそ、そういった逸話から伝わってきますのは、肉親に銃を向けざるをえなくなった人間のつらさ、ですが、司馬氏の描く乃木希典からは、さっぱりとそういった懊悩が伝わってきませんで、立身出世のために弟を売った男!が浮き彫りにされてしまっているんです。
 そんなわけで私は、いやな男だねえ!と、思い込んでしまったような次第です。

大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書)
長山 靖生
新潮社


 「大帝没後―大正という時代を考える―」の記述におきまして、私が乃木さんを見直すこととなりました要因は、おおざっぱに言って二つに分かれます。
 まずなによりも、乃木さんの残した遺言を、山県有朋を中心とします陸軍中枢長州閥が、徹底的に無視し、都合の悪い部分を隠蔽した、という事実。
 そして、それを知った上で、乃木さんの死に誘発されて書かれました森鴎外、夏目漱石の小説を読みますと、殉死そのものが、これまで言われてきましたこととは、ちがった見え方をする、ということです。

 まずは、遺言の話からはじめましょう。
 これに関します結論は、この本の最後の章に書かれています。
 よく知られた話だと思うのですが、陸軍に奉職していました乃木さんの子息二人は、日露戦争で戦死しています。
 そのため乃木さんは、乃木家断絶、爵位返上を遺言で遺族に指示し、遺族は忠実にそれを守りましたにもかかわらず、山県有朋をトップにいただきます陸軍長州閥は、遺族の困惑を無視して、旧長府藩主毛利家によります乃木伯爵家再興を強行し、乃木さんの最後の願いをたたきつぶしたんです。

 このことで、私がなによりびっくりいたしましたのは、なんと! 乃木さんの葬儀の喪主を務め、乃木家の祭祀を受け継ぎましたのは、萩の乱で戦死し、賊名をおびたままの玉木正誼の長男・玉木正之少佐!!!だったことです。
 私はそれさえ知らなかったのですが、玉木正誼が23歳の若さで戦死しましたとき、その妻は妊娠5ヶ月。一粒種の正之を身ごもっていたんだというんです。しかもその妻とは、吉田松陰の実兄・杉民治の娘。つまりは、松陰の姪なんです。
 希典は、残されました甥を愛育し、陸軍に奉職させた、というような次第です。

 この乃木伯爵家無理矢理再興問題に関しましては、井戸田博史氏の「乃木希典殉死・以後 伯爵家再興をめぐって」という研究書もありまして、次回、ゆっくりと書いていくことにします。

乃木希典殉死・以後―伯爵家再興をめぐって
井戸田 博史
新人物往来社


 さらに、長山靖生氏によりますと、乃木希典の遺言には、山県有朋や田中義一など、長州閥陸軍中枢の面々へ残した、非常に公的な「国家への遺言」といえるようなものがあったそうなのですが、その内容はついに、公表されることがありませんでした。
 しかし、殉死から10年、大正11年(1922年)になりまして、ようやくその一部が新聞に載ります。以下の引用は、大正11年9月10日付の読売新聞からだそうです。

 内容は軍機に関する詳細な意見と共に大体「国勢は軍隊にのみ頼って存立上の安心を得られるものではない。軍隊に頼ることは決して国家の発展を促すものではなくして、かえって阻害するのみか遂には存立をさへ危くするものである。軍隊の拡張は経費の膨張によって国民に苦痛を与へ、外には軍国的の誤解を招いてかえって危険が多い。日本の現状はこの弊を改めなければならぬ時機にある。軍備縮小による内容充実は青年団少年団等の国民的団結を益々訓練し平和的に備えておけば良い」と力説してある。
 これはかつて大将(乃木希典)が、当時軍務局長をしていた田中大将を陸軍省に訪うてこの意見を直接述べたが、会見の当時田中局長は「これは軍隊組織の根本改革で重要問題で、元老が反対するであろうから御意見の発表は憚って頂きたい」といったので、このところに最後の書面として申し残したものであるという。
 

 乃木さんが生前、田中義一を訪ねて軍縮を訴えたといいますのは、どうやら死の直前のことだったようです。
 明治44年(1911年)から大帝崩御の大正元年(1912年)いっぱいまで続きました第二次西園寺内閣は、陸軍の二個師団増設問題、つまりは財政難の中で陸軍が無理な軍拡を要求したことにより、倒れました。
 乃木さんは生前から軍拡反対を訴えようとしていて、軍拡を望んでおりました山県を中心とします陸軍中枢長州閥は、その意見を握りつぶしました。そこで乃木さんは、遺言でさらにそれを訴え、またも長州閥が握りつぶして、第二次西園寺内閣を倒してしまった、ということのようなんですね。

 今回、私、いろいろな伝記を読んで初めて知ったのですが、日露戦争後、乃木さんは、人情豊かな旅順攻略の名将として、世界的な知名度と国内的な人気を誇っていたわけでして、乃木さんが軍拡反対を唱えたとしましたら、陸軍の軍拡は世論の支持を失うでしょう。まして、それを遺言で残していたわけですから、さっぱり国民に人気がありませんでした山県有朋にしてみましたら、なんとも許しがたいことです。
 それにいたしましても、つくづく、山県有朋はいやな男です。

 次回、その山県がもくろみました乃木伯爵家無理矢理再興事件を探求しつつ、乃木さんを語ってみたいと思います。

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コメント (8)
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