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ロック講座 その4 ロックとロックンロール(1)

2011-01-26 17:27:55 | 日記
学生の頃、レッド・ツェッペリンが「ロック」なのか「ロックンロール」なのか
で友達ともめたことがある。

今の自分にとっては既に「どうでもよいこと」になってしまい、
実にばかばかしい議論だと思うのだが、当時は真剣だった。
友達はロックンロール派であり、私はロック派だった。

おそらく友達にとって「かっこいいもの=ロックンロール」だったのだろう。
彼は精神的な意味で「レッド・ツェッペリン=ロックンロール」といったのだ
と思う。

一方の私はもっと即物的なとらえかたをしていた。
当時の私はサウンドのちがいによって、ロックンロールとロックを明確に区別
していた。その区別の方法とは、

「ロックンロール=チャック・ベリ―的であるか、ないか」だった。

チャック・ベリーといえば、「Johnny B. Good」がやはり有名だ。
実は私が学生の頃、チャック・ベリーの3枚組のベストアルバムが発売され、
トータルで50曲入っているのだが、私は全曲完コピするという、恐ろしく
非効率的で意味のないことをやった。
「物事は光の面と陰の面をとらえてこそ意味がある」などと、今考えれば
実に没個性的な人間だったと思う。

でも「チャック・ベリーらしい」サウンドの一端は知ることができた。

当時の私が考えていた「ヒップ」で「ジャジ―」なサウンド。
そのカギは「シックス・コード(例えばC6:ド、ミ、ソ、ラ)」にある、
とその時は確信していた。

ブルースがアフリカのホラー(労働歌)と西洋の伝統的音楽
(カントリーのようなもの)が融合してできているように、
ロックン・ロールはブルースとカントリーの融合によって誕生している。

ロックン・ロールはチャック・ベリーが発明したものであるかのように語られる
ことも多いのだが、私はその時代を象徴するサウンドのうねりというものがあって、
それをチャック・ベリーという天才が際立たせたにすぎないのだと思う。

またロックン・ロールを語る際に、ブルースの影響のみが語られる(特に日本では)
ことが多いが、カントリーはロックン・ロールを語る上で絶対的に忘れてはならない
ものである。

ロバート・ジョンソン→マディーウォーターズ→チャック・ベリ―

というブルースの系譜にそって、レコードを聴き比べてみるとおもしろい。

ロバート・ジョンソンとチャック・ベリ―にあってマディーウォーターズにはない
コード・サウンドがあるのだ。

それこそが、「シックス・コード」の存在である。
それは、ロックン・ロールのもう一つの要素である「カントリー」において顕著
なサウンドでもある。
そしてロバート・ジョンソンもチャック・ベリ―も「カントリ」ーの演奏経験が
あることはレコードをきけばすぐにわかる。
(ロバート・ジョンソンはC/Am/D7-G7/Cという12小節ブルース以外の曲も演奏している)

前回、前々回のブログとも関連するのだが、古い時代の12小節ブルースの形式には
もともとメジャーとマイナーの区別がなかった。
現代ではメジャーブルース、マイナーブルースというものがそれぞれ存在するが
それは後から発展してできたものだと思う。

当時のアメリカの黒人だって、ブルース以外の音楽、いわゆる西洋の伝統的音楽
を聴く機会は皆無だったとはいえないわけで、だからこそブルースが生まれたのだし、
マイナーコードの存在は知っていたと思う。
なんとかして、そのサウンドを自分たちの音楽的世界観の中に取り入れたいと
考えただろうし、ブルーノートもそうした中で生まれたのだろう。

「シックス・コード(例えばC6:ド、ミ、ソ、ラ)」は不思議なコードである。
「ドミソ」(C)のトライアド(3和音)と「ラドミ」(Am)のトライアド、
いわゆる平行調のコードが内包されているのだ。

もちろん西洋音楽ではメジャー、マイナーはしっかり使い分けられているが、
12小節ブルースというかぎられたサウンドに囚われている人たちにとって、
このコードは別の意味をもって響いたことだろう。
マイナー、メジャーを区別しない音楽に限りなく豊かなサウンドをもたらす
コードとして。

チャック・ベリーのサウンドには確かにこの響きがある。

まあ、かなり強引に、チャック・ベリー=シックスコードと定義すると
おもしろいことになってきた。

シックスコードをものの見事に自分たちのサウンドとして取り入れ、
大成功を収めたバンド、

それが「ビードルズ」だからである。

また、彼がチャック・ベリーを敬愛していたことは有名である。

それでは誰もが知りたいであろう、ローリング・ストーンズは?

それは次回のお楽しみ


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ロック講座 その3 ブルーノートについて

2011-01-25 14:34:34 | 日記
今日は社員の給料振り込みをすませた。

とはいっても私一人なので、自分の給料を会社の口座から自分の
口座に移すだけで、いたって簡単! 一人は気楽でいいなあ。

まあ、ねが寂しがり屋なもんで、一人で仕事しながら、翻訳者や
お客さんと話をする時以外でも、ぶつぶつしゃべりながらやってる。(あぶねぇ)

今日は交通費の清算をしようとして、「高田馬場(たかだのばば)」と
入力すべきところ、「高田のママ」と入力してしまい。一人でうけていた。

たかだのばば→ばば→ばばあ→ママ(笑)

入力はほとんど無意識でやっているから、無意識でこんなこと考えてるとは
我ながら切ないものがある。


ところで、連載2回目ですでに行き詰っている「ロック講座」であるが、
友人が楽しみにしているとメールをくれたので苦しくても書かなきゃいけない。

本日は「ロック講座 その3 ブルーノートについて」。

いままでシンプルに考えることを旨としてきたのに、ここにきていきなり
難しい話だと思われるかも知れない。
ただ、前回3度音程について言及したし、これをやらないとロックはおろか、
ブルースの本質すら理解できないと思うから、あえて書くことにする。
(これからの言及はロックというより、ブルースにおいて顕著な例なのだが、
ブルースからロックが派生していることから、ここではロックとして話しを
進める。)

大体の理論書においてはブルーノートとは
「ドレミファソラシドの3度(ミ)、5度(ソ)、7音(シ)を半音下げたもの、
正確にはクォーター(半音の半分の音程)」であると定義されている。

前回、ロックでもっとも重要な音はRootと5度音程であり、3度は意識的に
省くと書いた。実はこの言い方は正確ではない。現に私はロックをやる際も、
とりわけブルースをやる際もこの3度を多用している。
また前回、ロックはメジャーとマイナーを明確にわけないと書いたが、
もちろん、はっきりとマイナーを弾いたり、メジャーを弾いたりする時はある。

要は使い方の問題なのだが、なぜ、あえてこういう言い方をしたかというと、
まず断片的な説明が必要だと思ったからである。音を特定しておかないと、
説明ができないからである。これは言葉でものごとを説明する際の限界でもある。

実は音楽は分解写真のようにはいかない。
なぜなら音楽は「流れ」そのものだからだ。
ベルグソン流にいうなら「持続」の観念で語られるべきものだからだ。

実は世に出回っている多くの理論書がこの観点を欠いている。
3rd音を例にとれば、ブルーノートは「クォーター・トーン」として語られる。
いわゆる「短3度」と「長3度」の中間の音。

これはピアノだと出せませんよね。
それにも関らず、優れたピアニストの演奏がこれほどブルース・フィーリングを
感じさせるのはなぜか…

それをこれから説明します。

例えば、「短3度」だけを弾くとただのマイナーとしてのノートだし、「長3度」
だけを弾くとただのメジャーとしてのノート、それなら、次に「短3度」を弾いた直後に
「長3度」を弾くとどうか。音に動きがでましたね。
そうです。この動きこそがブルーノートなのです!!

なんともあいまいな動き、そして響き、これこそがブルースでありロックである。

私からいわせれば、それは「クォーター・トーン」ではない。
「クォーター・トーン」といってしまえば、音が特定されてしまって、
ムーブメントが表現できないでしょ。
ブルーノートとは、「動き」そのものであり、特定の音程ではないのだ。

したがって、ギターにしても、ピアノにしても和音を弾く際はこの動きは表現しようが
ない(ギターだとできなくもないが、手が腱鞘炎になってしまいそうだ)。
だからシンプルなスリーコードのブルースやロックではこの表現をさけ、
かわりに5度の音で対応する。

使い方とはそういうことだ。実は音は現象であり、実態はない。
それは「分析」されるべきものではなく、「意図」として表現されるべきものなのだ。

世のロック少年よ、小難しい理屈をこねる前に目の前にあるギターをかきならせ。
そして、ただひたすら自分の内側にあるイメージを追いかけるのだ。
それだけが、ロックだ。

今回は少々小難しい話しになってしまった(笑)。


私が知り得る限り、もっとも偉大なミュージシャン-B.B.King

他にも話したいことがいっぱいある。
それは次回以降に。


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ロック講座 その2 パワーコード

2011-01-24 16:24:32 | 日記
ロック・ギターにあこがれて、ギターを手にしたことがある人は
「パワー・コード」という言葉をきいたことがあるかも知れない。

6弦の5フレット、5弦の7フレットを押えて、規則的に
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッと鳴らすと、
どうでしょう?
これだけで「いぇ~い!! ロックだぜ!!」(笑)

これがパワー・コードである。学術的にいうとA音(根音)、
E音(完全5度)の音程だ。

ロック・ギターをやる時にこれを弾いたことがないとしたら、「もぐり」である。
簡単で、シンプルで、いうことなし、これこそロック!!
それほど重要なものである。

素人の高校生とかが、文化祭でじゃんけんに負けて(笑)、
サイドギターを弾くことになったとしたら、私ならまずこれを教える。
これでなんとかなってしまうから面白い。

(テレビでTOKIOの城島がよく弾いてるぞ、あのガッガッガッガッガッってやつ。(笑)
もちろん彼はギターがうまいので他のこともやってるけど。)

基本だからといって、コードなど教えていたら、とても間に合わんぞ!
え~と、Cの次は、Fか。げっ、Fかよ~。これむずかしいんだよな~。
え~と、まず1フレットをばーっと押えて、5弦の3フレットと、4弦の3フレットと、
が~っ!、っ手、手がつりそう…。

とかやっているうちに1曲終わってしまうわい!(笑)


何が言いたいのかというと、ロックにおいて重要なのは
まずRootと5度の音程であるということ。
つまり音階にしても、和音にしても様々な局面において重要な音って
変ってくる。コード進行に合わせてドレミファソラシドを教わって、
それこそ階段を上り下りするみたいにドレミファソラシド、
ドシラソファミレドと弾いたところでそれでは全く音楽にはならんでしょ。
コードにしても同じ、キーがAメジャーの曲で、Cのコードを練習しても
全く使えないわけよ。

ロックギターを学ぶ上で、大切なのは、ドレミファソラシドという音階でも
なければ、3度の音程でもない。

音階については別の機会に説明するとして、「Rootと5度の音程」を強調する理由は
3度という音程について言及したいからだ。

だって音楽理論書なんか見ても、1度(Root)、3度、5度(いわゆるドミソ)
から始まっているものが多いでしょ。
もちろん、ジャズやクラッシックにおいて3度音程はその和音がメジャーか
マイナーかを決める重要な音であり、逆に5度は省略されることが多い。

でもロックはちがう。断じてちがう。
なぜなら、ロックは3度音程を意識的に省くからである。
これはブルースを演奏する際も同じだ。

先ほど書いたように「3度音程はその和音がメジャーかマイナーかを
決める重要な音」である。
そしてそれゆえにロック、ブルースにおいては意識的に省かれる。

なぜか…。

「メジャーかマイナーかを決めたくない」からである。

前回のブログでも書いたようにロックはシンプルな音楽である。
シンプルをつきつめるなら、メジャーもマイナーもなかろう。(笑)

こういう書き方をすると、「3度の音を使ってはいけない」とか
「3度の音を使うとロックやブルースではない」といっているように
きこえるかもしれないが、それはちがう。
現に私はロックをやる時でもすげーよく使う(笑)。
まあ、使い方ってものがあるわけよ。

でも、シンプルに語ろうとすると必然そうなってしまう。

まあいずれにせよ、これがロックサウンドの軸である。

この軸に対してどのようなテクスチャをはりつけてゆくのか、
その様相がさまざまなジャンルのロックとなってゆく。

それに関しては次回以降に。


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ロック講座 その1

2011-01-23 12:10:33 | 日記


このアルバムがリリースされたのは1975年、当時まだ幼かった私は
天地真理とか桜田淳子とか山口百恵を聴いていたくらいなので、
業界インパクトについては知るよしもない。

中学生の時、ギター少年だった自分は、どうせやるならすごい人の
演奏が聴きたい、と思っていた。
当時のギター少年にとってはヤードバーズ三大ギタリスト、いわゆる
エリック・クラプトン、ジェフ・べック、ジミー・ペイジがロック界の
憧れ的存在として君臨している頃だった。

手始めにレコードを買ってみたのがこれだった。
もちろん彼らのサウンドなど聴いたこともなかった(あったと思うけど
認識していなかった)狼ヘヤーの彼の写真がたまらなくカッコよかった。
それで買った。

いわゆるクロスオーバー・ロックのさきがけとしてのアルバムであり、
正直、最初はこの人のすごさが全然わからなかった。
その頃の自分にとっては、ディープ・パープルのサウンドがロックの象徴
だった。だから自分としては、「Smoke On The Water」とか「Burn」みたいな
ものを期待していた。ところがこのアルバムはあまりに「ジャズ的」と思えた。
それはある種の「物足りなさ」を意味する。
ヤン・ハマーとかにしてもジェフ・べックにしてもテクニックがすごいのはわかるが、
いまいちグッとこない。
いわゆる胸に突き刺さるような「泣きのギター」をこの少年は求めていたのだ。
この頃のジェフ・べックはもう神がかり的な存在としてジミー・ペイジやリッチー・
ブラックモアから評価されていたが、彼らが評価する意味すらわからなかった。

こうしたロックのルーツとして、ブルースというものの存在、特にB.B. Kingの存在が
あり、それを聴くことによって、またよりブルース的なロックバンド、ローリング・
ストーンズのアルバムを聴くことによって、私はブルースにのめり込んでしまった。
このブルースの追求が自分の今の、よりどころのない、なんでもござれの、
ポリシーのない(涙)私の音楽スタイルを形成することになる。

いわゆるブルースは突き詰めて考えれば、考えるほど広がりをもってしまう。
ブルースといってもスタイルは様々だしね。

ブルースには大きくわけて、シカゴ・ブルース、マディー・ウォーターズや
ローリング・ストーンズのようなサウンドがあり、
かたやフレディ・キングやエリック・クラプトンのようなテキサス系のサウンドがある。
不思議だったのは、そのルーツにT-Bone Wakerやロバート・ジョンソンがあるというこ
とだった。
T-Bone Wakerもロバート・ジョンソンも、ともにブルースのルーツ的な存在で
あるが、彼らの中には明らかにジャズ的な要素、私の言葉でいうなら「ヒップ」な
サウンドがちりばめられている。それが不思議で仕方がなかった。

それからジャズを聴くようになった。

そういう遍歴を重ねて、このジェフ・べックが成し遂げた業績の偉大さが
少しは理解できた。(ような気がする)
もちろん、感覚的に、カッコよさはわかっていたけどね。
(それでいいじゃん、とならないところが私のアホなところだ)

このアルバムはロック・ミュージシャンであるジェフ・べックがロックの語法により
ジャズに踏み込んだもっとも鋭角的な例だ。

このようにロックの語法でもって、ジャズに向かう例は多い。
しかし、ジャズの語法でもってロックに向かう例はない。

ジョニ・ミッチェルは数多くのジャズマンをしたがえて斬新なアルバムを
次々と作り続けているが、私からいわせればあれは、
「ロックの人間がジャズ的なサウンドにアプローチしている」わけで、
その逆ではない。
John Abercrombieのアプローチもしかり、彼は「ジャズマンがロックの
語法を使用して、ジャズを演奏している」だけだ。すなわち、

ロック→ジャズ

上記のアプローチはあるが、逆はあり得ない。

なぜか…。
ロックとは「シンプルでなければならない」からである。

ロックとはシンプルさを追求する音楽、つまり求心的であり、
ジャズはあらゆるジャンルをとり込んで肥大化してゆくもの、
つまり遠心的なものなのだ。ロックは形であり、ジャズは現象
である。

ロッカーがロックをやることと、ジャズ・マンがロックをやることは
結局はロックの語法でロックをやっているという意味で同義である。

それなら、ロックの語法とは何か、そしてロックの中でも様々なジャンルが
あるがそれをどうとらえてゆくのか…。

次回以降、ジャズ、そしてブルースとの比較をしながら説明してゆきたい。


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直線的な

2011-01-22 15:02:06 | 日記
今日も家の掃除をしながらCDを聴いていた。



ちなみにWebで画像検索をして、「Nosmo King」
とやったら禁煙サイトがズラ―とならぶ。
そうか、No smokingか…、今気がついた。

友人の堀江さんからもう数年も前に紹介してもらったCD。
今でもしょっちゅう聴いている。
(ところで堀江さん、年末のセッション楽しかったよ。またやろうね!)

John AbercrombieとAndy LaVerneのデュオは数枚あるけど、
このCDが一番好きかも知れない。
毎回、何かの学びを得ている気がする。

私はギタリストなので、ついアバクロの演奏ばかりに耳がいくのだけど、
今日はアンディもいいな、と思った。

ハーモニーがとても洗練されていて美しい。
ビル・エヴァンスの後継者といわれるだけのものがある。

アバクロが以前、雑誌かなにかのインタヴューで、ビル・エヴァンスの
ハーモニーを研究したといっていたけど、そういうふうにギタリストが
ピアノ・プレーヤーに触発され、そこから学ぶということは意味のある
ことなのだと思う。

私の好きなミュージシャンも圧倒的にピアノが多い。
キース・ジャレット、ハービー・ハンコック、ジェフ・キーザーそして
ブラッド・メルドー。
みな、独自のハーモニーとラインをもっている。



ところで、アバクロに関して今日思ったことは(前から感じてはいたけど
今日改めてそう思った)、

「彼のラインは直線的である」ということである。

うまく言葉では言えないのだが、狙った音にいたるまでのプロセスに
無駄な音がないというのか、サウンドを極限までシンプルなラインに
した時、その周辺のテクスチャがとてもストレートな曲線を描いている
ような気がする。

これはもちろん、私の印象であって、ちがった捉え方をする人はいる
はずだが、あくまで私見をいうと、優れたミュージシャンはみなこの辺が
シンプルというか、方法論が明確で、直線的なフレーズ・ラインを描いている。

以前から何度もこのブログで彫刻の話をしているが、先生がお手本を
提示する際に曲線をはぶいた、非常に直線的なお手本を見せてくれることがある。
その方が生徒としてはプロセスが理解しやすいからである。
ヘタに丸みを帯びた作品を提出しようものなら、あっさりと、バッサリとやられる。
もちろん、最終的には直線を曲線にして仕上げるのだが、それは「角をおとす」感じで、
いちばん最後の作業である。
やはり、まっすぐに彫り込んでゆくこと、つまりものの成り立ちをシンプルに直線的
にとらえること、それが出来てこそのものである。
最初から丸みを帯びた彫り方をしていると、道理が見えなくなるのだ。

言葉にしてもそうだと思う。私が翻訳をチェックしていると、どうしても自分のクセに
とらわれてしまいそうになる。せっかく翻訳者がシンプルにやってくれたものを、
まわりくどい、あいまいな表現に修正してしまうのだ。
もちろん、それでより分かりやすく、流暢な表現になったと自分では思い込んでいる。
先日、私がチェック・修正した翻訳を再度、翻訳者にみてもらって、その時に
指摘をされてはじめて気がついた。
翻訳者はみな、自分なりのレトリックをもっており、それにはその人自身のダイナミズム
がある。それをわざわざ修正して、あいまいな表現にしてしまうのはまずいでしょ。

結局、シンプルな、直線的な捉え方ができて初めて、曲線が描けるわけで、
最初から曲線でごまかしたような表現は、見る人がみれば簡単に見透かされて
しまうことだし、私自身のエゴにすぎないのだ。そんなものはオリジナリティでも
なんでもない。

なかなか、自分が自分のクセに気がつくのはむずかしいね。

だから、いろんな人の指摘に率直に耳を傾けることは大切なんだと思うが、
ついついイライラしちゃうんだよね(笑)。


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