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Thelonious Monk/Brilliant Corners

2012-04-23 14:06:10 | 日記
先日、休日のほぼ一日を費やして、Thelonious Monkの「Brilliant Corners」の
テーマを採譜した。


『Thelonious Monk/Brilliant Corners』

モンクは本当にすばらしい作曲家だと思う。
Straight No Chaser、Blue Monk、'Round Midnightなどは数多くのミュージシャンが
採りあげているほどスタンダート中のスタンダードだし、他にもキリがないくらい
の名曲を生み出している。

実は私は幸か不幸か幼少の頃からモンクを聴いて育った人間で、彼のサウンドは
自分にとってはビートルズや有名なクラッシック音楽と同じくらい馴染み深い。
(私の父親はかわった人だ。私が生まれたとき、家にはギターがあり、モンクの
レコードがあり、ビートルズのレコードがあり、なぜかソニー・ロリンズの
生写真があった。)

彼には独自の節回し(いわゆるモンク節)があり、特にホールトーンを使った音階
の下降ライン(鉄腕アトムのイントロはホールトーンの上昇ライン)のフレーズや
アヒルがドタドタとあるいているようなリズムなどは、彼のどのアルバムにも、
どの曲にも随所にみられる。
後にも先にもあんな演奏をする人(意識的にマネしないかぎり)はほとんどいないので
一回聴いただけでモンクの曲、あるいはモンクの演奏であることがわかってしまう。

ある意味、滑稽でないかというと確かに滑稽である(笑)。
ただし、彼のハーモニーセンスは大変に奥が深く、ピアノ独奏などを聴いているかぎり
パリの現代的なクラッシックを聴いているような気分になることがよくある。

それにしてもメロディもコードも、そしてリズムも独自のものが多すぎて
また実際にどれもこれもコード解釈やリズムがむずかしい。

「Brilliant Corners」などはテーマが22小節とすでに変態的(笑)である。
そしてコード進行が…、全く意味不明。とくにサビの部分に関しては
「真面目にやれ!」と怒鳴りたくなる(笑)。

上記のアルバムの演奏を実際に聴いても、モンクはリズム的にかなり変奏をしているので、
ますます混乱する。原曲のコード進行を調べるのに、原作者の演奏が一番わかりにくい
というこの奇怪な現象をどうするか…。

あえなく、他のミュージシャンのCDや、Youtubeなどで演奏している映像を
参考にしながら、はや1日、ようやくその骨子らしきものが見えてきた。

ただし、CDにしても、Youtubeにしても公開されているものは、やはり公開されるに
値するテクニックをもっている人が多く、そういう人に限って、独自の解釈で、
これまた独自の演奏をしているので、余計に混乱してしまった。

特に『Kronos Quartet/Ron Carter』などは、これまた実にすばらしい
ストリングス・アレンジが施されており、すばらしすぎて、カウンター・ラインが
絶妙すぎて、美しいのだが、結局目的を果たせなかった。
『Paul Motian & the Electric Bebap Band/Play Monk & Powell』もしかり。
結局、素人のグループがやっている映像がいちばんわかりやすかった。

しかし、ひとたび骨子が見えてくると、あとはすべてが感動だ(笑)。
ソニー・ロリンズのサックスが凄すぎるし、なにより彼らが何を考えて、
具体的にいうならどういう動きで演奏しているかが見えてくるのだ。

モンクの曲は、ガッチリと決め込んでゆくところと、ターゲットさえ見えていれば
あとは限りなくフリーな(つまりミュージシャンが自由に解釈して自由に演奏する)
スペースがあることが多いと思う。
実際のところ、私の採譜作業の大半はこのフリー・スペースの解釈に費やされた。

してみると、案外モンクは原作にかなり忠実な演奏をしていることがわかる。
(って、当たり前だろう、原作者なんだから!!)

モンクって目くらましみたいなことをよくやるのだ。
例えば、強拍のところで半音となりのコード(いわゆる半音代理)や代理コード
を弾いて、弱拍のところでまるで経過音のように重要なコードをさりげなく
入れてきたりする。

そういう奇怪なところがあるがゆえ、誤解されている面が多いのだと思った。
彼のスタイルって暗喩的にメロディーやハーモニーの骨格を浮かび上がらせるタイプ
なのだと思う。
マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンがあれほどモンクをしたっていた
理由がすこしわかった気がする。特にコルトレーンにとってモンクは音楽上の
教師だったしね。

マイルスはインタヴューで、レコーディング中に、マイルスとモンクが
もめた件について質問されて、

「彼のバックは俺のソロには合わない、
俺は喧嘩をふっかけちゃいない、
ただ俺がソロの時は弾かないでくれといっただけだ。
だいたいあんな大男に、誰が本気で喧嘩をうるものか…」

と応えているが、確かにモンクという人は、
変態的なピアノを弾く人だから、あんなバックをつけられちゃたまったもんじゃない
と思うのは普通だし、あんな大男に喧嘩ふっかける奴もいないだろう。

だって彼は巨人(ジャズ・ジャイアント(巨匠))だぜ(笑)。



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リヴォン・ヘルムさん

2012-04-20 10:15:52 | 日記
昨日、ブログをアップロードしてからおよそ、17時間後にリヴォン・ヘルムさんが
亡くなられたニュースを知りました。

彼が末期癌であり、人生の最後のステージを迎えていたことは知っています。
しかしながら、私と同様に私を取り巻く大勢の仲間たちもみな、彼のために
祈っていました。その祈りもむなしく、でも家族や、バンドのメンバーや
多くのひとに見守られながら、そして私たちを魅了し続けてきたすばらしい音楽と
すばらしいライブ・パフォーマンスの記憶に囲まれて、天国に召されたようです。

世界中にちりばめられたファンの一人として
心よりリヴォン・ヘルムさんのご冥福をお祈りしたいと思います。
そして心からの感謝を表したいと思います。

「本当にありがとうございました。」


『LAST WALTZ/THE BAND』

もう20年前にLP版を買いました。いまでも聴き続けています。
ビデオ版あります。
「The Night Drove Old Dixie Down」の映像では彼の迫真の歌を
観ることができます。これほど魂のこもった歌を私は知りません。


さよなら、Levon Helmさん!

祈り リヴォン・ヘルム氏へ

2012-04-19 12:28:44 | 日記
いまでも時折、ふと死んだ友人のことを思い出す。
中学校の時の同級生のことだ。

彼とは同じ野球部だった。
マラソンが得意だった私が唯一どうしても勝てないのが彼だった。

ある冬の夜、山崩れがおこり、彼の部屋をのみこんだ。
意識不明、脳死状態のまま彼は1週間生き延びた。
親友だった私は、彼の母からなんども病室に呼ばれ、
その度に私にすがってなきじゃくる母親の前にただ呆然と
立ちつくしていた。

「神様、どうか彼を救ってください。」

眠れぬ夜、布団にもぐりこみ必死に祈った。

ある日、夢をみた。
彼が退院し、体育館にいる夢。
祈りがつうじたか…、いや、あろうはずがない。

泥にまみれた彼の顔に生気はなく、ずっと無言のままだった。

それから数日後、一瞬停電で教室中の電気が止まった。
その数分後に訃報が校内放送で知らされた。

奇跡のように晴れわたっていた冬の空、
彼の葬儀が終わり、みんなが会場の外に出る頃には空一面の雪模様だった。

「ああ、雪やな…」

「たぶん、200はあるな…」

一人のひょうきん者の発言も、物悲しく、粉雪の粒子に吸い込まれてしまった。


「どうか生きてほしい」と祈る時間が長く続けば、それだけ死を受け入れることが
むずかしくなるものなのかもしれない。
生と死の境目があいまいになる。死の認識は生に対する意欲と同義であるはずが、
それがぼやけてしまう。まして、彼の死からもう30年近い時が経っている。
記憶とともに印象はうすれ、あたかも幻をみていたかのようだ。

私は未だに彼の死を受け入れていないのかも知れない。
たびたび私の記憶にあらわれるのは、

「もう、いいかげん自由にしてくれよ」

と彼がいっているからなのかも知れない。

でもたぶん彼はとっくにわかっていたんだ、
自分がもう、そこにはいないことを。

私の記憶につきあってくれているだけなんだ…。


そう思うと無性に悲しくなってしまった…。


それでも私はずっとこれからも人の死を悼むことだろう。
どうか生きてほしいと祈り続けることだろう。

愚か者よ…。



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世界の闇

2012-04-12 18:17:54 | 日記
私のように一人で商売している人間にだってストレスはある。

もちろん、世の中のストレスの大半は人間関係に起因するもの
なので、そういう意味ではサラリーマンの時よりは人間関係と
いうことで悩むことは少ないのかも知れない。

でも企業間の取引とはいえ、結局は人間同士のとりひきなわけで、
そういう意味ではすべての関係に対して直接的、つまり自分一人で
対面しているわけで、日常そういう意味でのストレスはつきない
というのが現状である。

例えば、対応窓口を設けている会社などは特にそうだが、
企業として対応しているかぎり、それは組織的にクレームを吸収できる
母体があるわけだ。つまりそういう人たちの対応はあくまでも
「企業としての対応」をしているのであって、「個人的な対応」ではない。
結局、その人が製品に対してクレームをいわれようが、別にそれが
その人個人の生活にひびくことはまずないだろう。

ところが、私は一人でやっているので、そういうクレームをうけた時は
モロに生活に影響してしまう。

まあ、それでもグチをもらす相手がいないというのが唯一の救いというか、
かろうじて人間性を保っているというか…(笑)。

私はこれでも激しやすいタイプなので、よく製品やサービス、その対応に関して
クレームをつけることがよくある(決して自慢ではない)。
その際に相手(つまりクレームされた方)は必ず、

「そういう決まりですから…」

というようなことを言う。
特に外資系の会社は、よくもそこまで教育(思想統制)されているものだ、
と思うくらいに、マニュアル的な対応をする。

それはあくまで、あなたの組織の事情(あんたらが勝手にきめた組織の理屈)
であって、個人への対応には全くなり得ていないと思う。

私からいわせれば、「心のないロボット人間」である。
彼らからいわせれば、結局「他人事」にすぎないのだろう。



最近、いやもしかしたら、いままでずっとかも知れないが、日本中で
いやな事件が多い気がしている。実は独立してからそういったことが、
モロに自分の精神に影響している気がする。

ただ、はたしてどちらがいいのかは判断しないようにしているが、
自分としては個人として社会と直面することに対して覚悟をしてゆかななければ
ならないのだとは思う。

何がいいたいのかというと、社会にはある種の不快さを、分散させることで
もみ消そうとする集団心理が働くものなのではないかということだ。
マスコミも無意識的にそういう心理を原則として動いている気がする。

震災の悲しみ、我々の日常の悲しみ、そしていまだに世界中でおこっている地震、
戦争、核、テロなどへの恐怖、そういったものが分散されたとしても、地球規模で
みるならば、痛みが消えてしまったことにはならないと思う。

心を開くとは、既成の概念や集団心理に疑問をもち、世界と直接的に対峙する
ということだ。そして自分に対しても、社会に対しても間違っていることには
「No」をつきつける勇気をもつということだ。

その視点を持ち得ないかぎりは、世界の闇がはれることは決してないと思う。


がんばれ、俺!!
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自分に…

2012-04-10 17:42:36 | 日記
自分に…


何かをつくるということは、自らのハートに対して
心を開いてゆくことだと思う

最初は自分の中の本質的なものが探りあてられず、
それこそゴミのような作品が出てくるかも知れない

それでもいいのだ
人生は修行であり、己との戦いのようなものだがら
そのプロセスことが大切なのだ
書くという行為にこそ、意味があるのだ

これは自分への挑戦なのだ

もうずいぶん長い間、目の前の既成事実に自分を
ごまかしてきた
他人の目をきにして「おりこうさん」であろうとしていた

でもそれももう、おしまい…

深く自分の内側に入ってゆくのだ

おそすぎるということはない
私にとっては、今がすべてのはじまりなのだから


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