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これはゲームではない その2

2013-03-23 14:46:44 | 日記
私は最近、「美を競うというわれる競技」はオリンピックを止めるべきだと思っている。
なぜならそれはゲーム(競技)だからだ。競技である以上、そのルールは人間がきめる。
美を評価する(審査する)のも人間である。
野球やサッカーのようにシンプルなルールの中で勝ち負けを競うのがゲームだ。
美は「絶対」をめざすものであり「勝ち負け」のゲームではあり得ない。

ここに逃げ道があるとするならば、それをゲームとして楽しむことだ。
ルールをシンプルにジャッジを透明性の高いものにすることが条件だ。

しかるに美を競う競技のほどんどの審査基準が部外者にとっては意味をなしていない。
例えばフィギュアスケート中で、アクセル→ルッツ→…などと難易度別に段階的に
得点がつけられるのはわかるが、「演技構成点」とかになると、もはやまったく理解できなくなる。
せめて審査員の方に「なぜこういう審査をしたか、説明してもらいたい」のだが、
なぜか審査員が全員匿名である。

勉強不足といわれればいたしかたないが、誰もまともな説明をきいていないのに、
理由を推測して、自分が正しいと思っている奴のほうが間違っている。

宗教じみた言い方だが「美とはありがたいもの」だ。
「絶対」のふりをして「相対的に」判断された審査結果などありがたくも
なんともない。そんなものを喜んでいられる人はよほど感覚の欠落した人だと思う。

悲しいのは、その中でも数多くの競技者たちがけなげにも「絶対的な美」を
めざして苦しみ、そして努力していることだ。
そしてたどり着いた「己の絶対」にたいして「相対的」判決が下されることだ。
自分がトリプルアクセルとんだことなどないくせに(って私もないけど…)。

競技者のピュアな探究心をふみにじっている奴がいる。

最近、日本柔道連盟や、大分県の中学の剣道部の暴力事件が問題になっている。
あれにせよ勝ち負けのゲームではないはずの武道が「勝ち負けのガリガリ亡者」
に成り下がってしまった結果だと思う。
武士道精神をもつものが、自分より弱いものをあやめるはずがない。
それとも、現代の剣道や柔道という「スポーツ」はそれだけのものだということか。

さらにそこに連盟や協会などがからんでくると、もはやただの既得権の争奪戦となり、
性質が悪すぎる。

もういい加減に目を覚ませ、くだらないゲームから脱出せよ、といいたくなる。


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これはゲームではない その1

2013-03-22 14:42:30 | 日記
このブログで何度も書いているが私は月に一度近所のお寺に仏像彫刻を
習いにいっている(へへへ、鎌倉にはお寺が多いのだ!)。

これまたいつも書いていることだが、もう習い始めて4年近くになるが
一向に上達の兆しがみえない。

今度こそと思って自信をもって提出した作品も、先生に指摘され、
修正されると、修正前と修正後では確かに歴然としたちがいがあり、
いつも愕然とする。

それは「絶対的な美」に対する眼をもっているかどうかにつきる気がする。
「神聖なるもの」はいつでも「人間的なもの」を超越している。

私が彫っているのは「顔」であり、先生が彫っているのは「仏」である。

教室に通い始めたときは、総勢30人くらいの生徒さんがいたが、
いまでは半分くらいになった。

当初から手先が器用でも、美術に対する造詣もない私がなぜ続いているかと
いうと、ひとつには刀をもつことによる、切迫感と陶酔感。
もうひとつには(実はこれが大きな理由なのだが)自分に期待しないこと(笑)。

どんな人だって、心のどこかで自分は「なにがしか」のものであると思っている。
学校で美術や工作が得意だった人ほどその気持ちは強いものだ。
でも技巧的なことを超越した「絶対」の前に「なにがしか」で
あるはずの自分という人間の「無力さ」に大概の人は挫折する。
個性などというあいまいな表現は通用しない。

我々が経験してきたことなど、本当にちっぽけな出来事にすぎないということだ。

もちろん、自分だってうまくなりたいと思って教室に通っている。
だだし「うまくなりたい=絶対的な美を見極める眼をもちたい」ということだ。

相対性においてあらわれる対峙関係は絶対性においてはあり得ない。
もちろん勝ち負けはない。したがってこれはゲームではない。


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春分の日に

2013-03-20 14:11:53 | 日記
ここ数週間いろんなストレスがあって、少し鬱気味だった。

ひとつにはうちの猫が病気だったこともある。
うちのポピーは体が弱く、避妊手術ができない。
毎年春先から初夏のあたりでドカーンと大きな発情の波がやってくる。

今年は暖かいせいか、それが先週くらいにきた。

たかが猫の発情、と思われるかも知れないが、すごい猫は本当にすごい。
私の場合、自宅が仕事場なので、日中から夜寝ているときも、ずっと
なきつづけている猫といっしょにいなければならず、また罪のないものを
「うるさい!」とどなりつけるわけにもいかず、またたとえどなりつけたにせよ、
猫に理解されるわけはないので、あきらめているのだが、
それがジャブがきいてくるようにきいてきて、1週間以上も続くと気も滅入ってしまう。

これが、赤ちゃんだったらもっと大変だから…。などと自分に言い聞かせて
なんとか乗り越える。

ひとたび乗り越えた後の静寂さは心地よい。

そういう最中、今度はココが膀胱炎にかかってしまい、ここ数日か血尿が
続いている。お医者さんにつれてゆくと1週間くらいは様子を診なきゃいけない
といわれた。それやこれやで17日頃は心身ともに疲れ果て、頭をかかえて
机にうっぷしてしまった。

ココは雄猫でのんびり屋さんで、甘えん坊で、それはそれはかわいい。
わがままで、打算的で、気まぐれではあるがそういうところもすべて含めて
本当に目の中にいれても痛くないというくらいかわいい(この親ばかめ!)。

そういうココが病気になったことのショックは大きかった。

今日、ベッドで少し休んでいたら、ココがめずらしく私の上にのっかって
甘えてきた。顔にもいくらか生気がもどってきている。
今までは日中ずっとうずくまるように寝ていたのが、かなり回復傾向に
あるようだ。

薬がきいてきたのかな、でも本当によかった…。

辛い時はいつも「明けない夜はない」と自分にいいきかせているが、
この年になっても常に不安はつきまとうものだ。
そして我々は太陽は永遠にやってこないのではないかと思ってしまう。

だが必ず夜は明ける。
太陽は我々を裏切ることは絶対にない。

少なくとも自分にとって大切なのは、夜であろうと朝であろうと
目の前に覆いかぶさる不安という雲を払いのけることだ。
太陽がやってきた時の恩恵を、最大限に受け取るために。

今日は春分の日、天気はあいにくの曇り…。

ふと空を見上げながら、そんなことをつらつらと考えている。

あっ、あの雲、らくだに似てる!(笑)


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ビジネス英語

2013-03-14 17:10:52 | 日記
最近、ビジネス英語を学ぼうと思っている。

「何をいまさら…」

という声が傍から聞こえてきそうなのだが、翻訳業にたずさわってもう
20年になるが、私の業務の大半は「営業職」であり(今でも基本はそうだけど)、
チャンスがなかったと言い訳しておこう。

翻訳会社は基本的に独立している個人の翻訳者にアウトソーシングすることが多い。
もし自分が翻訳にのめり込んでしまったら、多くの業務に対応ができなるなるし、
採算がとれなくなるのだ。
だから、私の仕事は営業、翻訳を担当するのは翻訳者とわりきってやっていた。

だだし、海外とのメールのやりとりや、もちろん翻訳者からあがってきた翻訳の
チェックは今までも毎日のようにやるのだが、実は翻訳のチェックとは日本語の
チェックなら日本語のネイティブが、英語なら英語のネイティブが行うべきもので
あって、それ以外はあり得ない。私の場合は日本語だが、上がってきた日本語文を
お客様の求める文体、用語にコレクトして「商品化」するのが仕事であり、
英語の文法チェックをしているわけではない。

まあ、最近海外と直接やり取りをしなきゃならないケースが増えたわけだが、
文例集などをみてメールでやっているうちはよかったが、料金の支払い(海外送金)
などに関して直接お客様から電話がかかってきたときは、完全に打ちのめされてしまった。

大体、料金の支払いに、特に海外送金や、為替レートの話がからんでくると
日本語だってよくわからんわい!(笑)。

ともあれ、何をやればいいのか…。

読解については、ある程度仕事でもやってきたし、折に触れてホームページなどで
Timesなどを飛ばし読みしているので、いらないとはいわないがこの際はぶく。
「書く」ことについては、差し迫った状況でそれを求められることはないので、
これもこの際だからはぶく。

問題は「まったなし」の状況、「聴く」と「話す」である。


実は以前勤めていた会社でドイツ人(英語の話せるドイツ人)と交渉しなきゃならなく
なり、必要にせまられて勉強したことがあった。

まずは「聴く」こと。
これに関してはテレビで話題の「スピード・ラーニング」とか、ものすごい早い
スピード再生ができるCD付きの教材をやった。
2ヶ月くらいやったかな…。

あくまで私の場合だが、これが実に効果があった(笑)。

すべてとはいわないが「なんとなく」相手の言っていることが理解できたのだ。
それに、怪訝な顔をしていると、相手はゆっくり話してくれたしね(笑)。
(今となっては相手がちゃんと英語を話していたのかもうたがわしい…、
訥々とした英語だから理解できたのかも…。)

次に「話す」だが、
前出の「スピード・ラーニング」などでシャドウィングをやっていたので、
ここでもこの教材が役に立つことはわかっているし、交渉の時は自分が
話すべきことやキーワードをあらかじめ、ある程度は英文で用意しておいたので、
なんとかなった。

しかし問題はケースバイケースにおける咄嗟の対応である。
前日のように、突然電話で海外送金の手続きに関して、英語でまくしたてられたって、
相手のいいたいことはある程度わかるが、自分が表現したいことが口をついてでてこない。

こればっかりは訓練しておかないとだめだ。

いろんな場面を想定して、英語での表現を準備しておくことも大切だと思う。
もちろん自分の英語を精査してくれるネイティブも必要だ。

「Please, sit down」とは大人が幼児にむかって話すときに使うもので、
ビジネスでは、「Have a seat」というのが普通だ、と何かの本で読んだが、
そうなってくると、やはり実践は重要だ。

ただし、実践のための準備はたとえ無駄が多いにせよやるべきだと思う。
表現とは多くの準備をやって実践で精査されてはじめて身につくものだ。

準備なくして実践はない。

というわけで、最近準備ばかりやっている(笑)。


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音楽の基礎研究

2013-03-08 10:24:51 | 日記
以前のブログに書いたのだが、
今、必死になって取り組んでいるこの本、


『前人未到の即興を生み出すギター演奏の探求』(ミック・グッドリック)

仕事の合間にやっているので、遅々として進まないのだが、
複雑で気が狂いそうになり、腑に落ちないまま、次の日にもちこしてばかりだ。

でもそうやって、試行錯誤していると、次の日には、少しだけど
前日よりは進歩している気がして、それがうれしくて、楽しくてやめられない。

フレーズ集ではないので、ちっとも実践的ではないが、
自分でも演奏を楽しむというより、ギターの可能性探求を楽しんでいるのだろう。
いわゆる基礎研究といわれるものに近い気がする。
要するに夢が広がるのだ。

自分としては30年近くギターを弾いてきて、ずっと気になっていたことだし、
このチャンスを手放したら、たぶん自分は一生スッキリしないまま
相も変わらず同じスタイルでギターを弾き続けるのだろう。

それはそれでかまわないが、少なくとも自分はここに足を踏み込んでしまった。
もう今さら後には引けない気がする。

実は練習の前に、各スケールの音程のダイアグラムをエクセルに入力した。
その作業だけでも2週間かかってしまった。随分と無駄なことをやっているのは
わかっているが、これも基礎研究と思って泣きながらやった(笑)。

そもそも、ちょっとやったくらいで成果を求められるとするなら、
それは基礎研究とはいわない。

「2位じゃ、だめなんですか?」

という言葉はもはや死語になりつつあるが、どんなものだって、芸術にだって、
芸能にだって、作品を生み出す前の基礎研究(いわゆる修業)は必要だし、
そこにこそ投資をすべきだ。

日本の底力はそういう地道な研究成果があってこそのもので、
成果がでないからといって、簡単に切り捨ててしまうことがあってはならない。
イノベーションに投資もせず、技術を海外に流出しっぱなしで、しかも
安い生産コストで、安く世界中にばらまかれて、勝った負けたと大騒しても
しかたがなかろう。

ままよ、気がつくとなんと私はまるで、日本のためにギターを弾いているのか…(笑)。


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