私は最近、「美を競うというわれる競技」はオリンピックを止めるべきだと思っている。
なぜならそれはゲーム(競技)だからだ。競技である以上、そのルールは人間がきめる。
美を評価する(審査する)のも人間である。
野球やサッカーのようにシンプルなルールの中で勝ち負けを競うのがゲームだ。
美は「絶対」をめざすものであり「勝ち負け」のゲームではあり得ない。
ここに逃げ道があるとするならば、それをゲームとして楽しむことだ。
ルールをシンプルにジャッジを透明性の高いものにすることが条件だ。
しかるに美を競う競技のほどんどの審査基準が部外者にとっては意味をなしていない。
例えばフィギュアスケート中で、アクセル→ルッツ→…などと難易度別に段階的に
得点がつけられるのはわかるが、「演技構成点」とかになると、もはやまったく理解できなくなる。
せめて審査員の方に「なぜこういう審査をしたか、説明してもらいたい」のだが、
なぜか審査員が全員匿名である。
勉強不足といわれればいたしかたないが、誰もまともな説明をきいていないのに、
理由を推測して、自分が正しいと思っている奴のほうが間違っている。
宗教じみた言い方だが「美とはありがたいもの」だ。
「絶対」のふりをして「相対的に」判断された審査結果などありがたくも
なんともない。そんなものを喜んでいられる人はよほど感覚の欠落した人だと思う。
悲しいのは、その中でも数多くの競技者たちがけなげにも「絶対的な美」を
めざして苦しみ、そして努力していることだ。
そしてたどり着いた「己の絶対」にたいして「相対的」判決が下されることだ。
自分がトリプルアクセルとんだことなどないくせに(って私もないけど…)。
競技者のピュアな探究心をふみにじっている奴がいる。
最近、日本柔道連盟や、大分県の中学の剣道部の暴力事件が問題になっている。
あれにせよ勝ち負けのゲームではないはずの武道が「勝ち負けのガリガリ亡者」
に成り下がってしまった結果だと思う。
武士道精神をもつものが、自分より弱いものをあやめるはずがない。
それとも、現代の剣道や柔道という「スポーツ」はそれだけのものだということか。
さらにそこに連盟や協会などがからんでくると、もはやただの既得権の争奪戦となり、
性質が悪すぎる。
もういい加減に目を覚ませ、くだらないゲームから脱出せよ、といいたくなる。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト
なぜならそれはゲーム(競技)だからだ。競技である以上、そのルールは人間がきめる。
美を評価する(審査する)のも人間である。
野球やサッカーのようにシンプルなルールの中で勝ち負けを競うのがゲームだ。
美は「絶対」をめざすものであり「勝ち負け」のゲームではあり得ない。
ここに逃げ道があるとするならば、それをゲームとして楽しむことだ。
ルールをシンプルにジャッジを透明性の高いものにすることが条件だ。
しかるに美を競う競技のほどんどの審査基準が部外者にとっては意味をなしていない。
例えばフィギュアスケート中で、アクセル→ルッツ→…などと難易度別に段階的に
得点がつけられるのはわかるが、「演技構成点」とかになると、もはやまったく理解できなくなる。
せめて審査員の方に「なぜこういう審査をしたか、説明してもらいたい」のだが、
なぜか審査員が全員匿名である。
勉強不足といわれればいたしかたないが、誰もまともな説明をきいていないのに、
理由を推測して、自分が正しいと思っている奴のほうが間違っている。
宗教じみた言い方だが「美とはありがたいもの」だ。
「絶対」のふりをして「相対的に」判断された審査結果などありがたくも
なんともない。そんなものを喜んでいられる人はよほど感覚の欠落した人だと思う。
悲しいのは、その中でも数多くの競技者たちがけなげにも「絶対的な美」を
めざして苦しみ、そして努力していることだ。
そしてたどり着いた「己の絶対」にたいして「相対的」判決が下されることだ。
自分がトリプルアクセルとんだことなどないくせに(って私もないけど…)。
競技者のピュアな探究心をふみにじっている奴がいる。
最近、日本柔道連盟や、大分県の中学の剣道部の暴力事件が問題になっている。
あれにせよ勝ち負けのゲームではないはずの武道が「勝ち負けのガリガリ亡者」
に成り下がってしまった結果だと思う。
武士道精神をもつものが、自分より弱いものをあやめるはずがない。
それとも、現代の剣道や柔道という「スポーツ」はそれだけのものだということか。
さらにそこに連盟や協会などがからんでくると、もはやただの既得権の争奪戦となり、
性質が悪すぎる。
もういい加減に目を覚ませ、くだらないゲームから脱出せよ、といいたくなる。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト