今日、ここ数年来通っている仏像彫刻教室の作品展示会があった。
自分は教室の中でも進歩が遅く、確実にへたくその部類に属するのだが、
先生(皆川閑慶先生)の作品はやはり圧巻であるが、こうして多数の
生徒さんの作品が一同に会すると、それはそれですごいなと思った。
皆川閑慶先生の作品はやはり、すごすぎて、神がかり的であり、
あのレベルに至るには、一体何年、何体の仏像を彫らなければならないのか
と気が遠くなってしまうであろう反面、自分の作品は、ご覧になられた人々に
とっては、「自分もできるかも、自分もやってみようかな…」という勇気や希望を
少しは与えたのではないかと自分で自分をなぐさめている。
私以外の生徒のみなさんはしっかりと仕上げてきていて、
中途半端な自分の作品が少しはずかしかった。
それでもいい経験をしたと思っている。
実は私は今まで教室の作品展や発表会というものには懐疑的だった。
とくにジャズの発表会(私も何回もエントリーしたことがあるが)は、
アドリブが命なので、なおさらだった。
どうしても発表会のために、アドリブラインを含めすべてを準備しすぎてしまう。
つまりそれはアドリブというより、書きリブであり、即興演奏ではなくなって
しまう。譜面のあるピアノやエレクトーンの発表会ならまだしも、ジャズにおいては
それではあまり意味をなさない、そう思っていた。
でも実際に(ごくたまにだけど)ジャズを人前で演奏するようになって考え方がかわった。
結局自分もライブ演奏の前にさんざんフレーズを考えて、仕込み作業をしているからだ。
もちろん、綿密にひとつのラインを書き上げて、その譜面をみながら演奏する、
などということはないのだが、その分、自分の考えうるフレーズの可能性を何パターンも
身体が覚えてしまうまで、いく通りも何回も繰り返し練習する。
即興演奏とは常にひらめきと記憶が交錯するものなので、必然的にそうなってしまう。
でもそういうことを繰り返しているうちに、見えない線というか、自分のガイドライン
というか、ある種の法則性(やり方)がみえてくるようになる。
自分のフレーズをしっかり考えるという作業はアドリブにおいても不可欠のものである。
スケールやコードだけを覚えても何を弾いたことにもならない。
書きリブであろうが何であろうがちゃんと最後まで自分の作品として仕上げる
というチャンスを与えてくれる発表会(ジャム・セッションも含めて)は貴重な体験だと
思うようになった。
皆のてんでバラバラな作品の一つひとつに適切なアドバイスをしながらも、
その一刀によって、私のへたくそな作品に仏性を発現させる皆川先生にしても
アドリブやっているようなものだからね。
先生の一刀の中には、どれだけの試行錯誤、黄金比率、絶対的な美意識がこめられて
いるのだろうと思う。それこそが見えない線であり、ガイドラインだ。
先生は「守破離」という言葉をよく使われる。
この「守」という段階を私は「考える」段階だと思っている。
考えるという前提でいうなら、質より量が大切、
量をこなせば必ず質は向上する、と信じてはいるが、
「あいかわらず、君は自分の感覚だけで彫ってるねえ」
といつもいわれてしまうのは、残念で仕方がない(笑)。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト
自分は教室の中でも進歩が遅く、確実にへたくその部類に属するのだが、
先生(皆川閑慶先生)の作品はやはり圧巻であるが、こうして多数の
生徒さんの作品が一同に会すると、それはそれですごいなと思った。
皆川閑慶先生の作品はやはり、すごすぎて、神がかり的であり、
あのレベルに至るには、一体何年、何体の仏像を彫らなければならないのか
と気が遠くなってしまうであろう反面、自分の作品は、ご覧になられた人々に
とっては、「自分もできるかも、自分もやってみようかな…」という勇気や希望を
少しは与えたのではないかと自分で自分をなぐさめている。
私以外の生徒のみなさんはしっかりと仕上げてきていて、
中途半端な自分の作品が少しはずかしかった。
それでもいい経験をしたと思っている。
実は私は今まで教室の作品展や発表会というものには懐疑的だった。
とくにジャズの発表会(私も何回もエントリーしたことがあるが)は、
アドリブが命なので、なおさらだった。
どうしても発表会のために、アドリブラインを含めすべてを準備しすぎてしまう。
つまりそれはアドリブというより、書きリブであり、即興演奏ではなくなって
しまう。譜面のあるピアノやエレクトーンの発表会ならまだしも、ジャズにおいては
それではあまり意味をなさない、そう思っていた。
でも実際に(ごくたまにだけど)ジャズを人前で演奏するようになって考え方がかわった。
結局自分もライブ演奏の前にさんざんフレーズを考えて、仕込み作業をしているからだ。
もちろん、綿密にひとつのラインを書き上げて、その譜面をみながら演奏する、
などということはないのだが、その分、自分の考えうるフレーズの可能性を何パターンも
身体が覚えてしまうまで、いく通りも何回も繰り返し練習する。
即興演奏とは常にひらめきと記憶が交錯するものなので、必然的にそうなってしまう。
でもそういうことを繰り返しているうちに、見えない線というか、自分のガイドライン
というか、ある種の法則性(やり方)がみえてくるようになる。
自分のフレーズをしっかり考えるという作業はアドリブにおいても不可欠のものである。
スケールやコードだけを覚えても何を弾いたことにもならない。
書きリブであろうが何であろうがちゃんと最後まで自分の作品として仕上げる
というチャンスを与えてくれる発表会(ジャム・セッションも含めて)は貴重な体験だと
思うようになった。
皆のてんでバラバラな作品の一つひとつに適切なアドバイスをしながらも、
その一刀によって、私のへたくそな作品に仏性を発現させる皆川先生にしても
アドリブやっているようなものだからね。
先生の一刀の中には、どれだけの試行錯誤、黄金比率、絶対的な美意識がこめられて
いるのだろうと思う。それこそが見えない線であり、ガイドラインだ。
先生は「守破離」という言葉をよく使われる。
この「守」という段階を私は「考える」段階だと思っている。
考えるという前提でいうなら、質より量が大切、
量をこなせば必ず質は向上する、と信じてはいるが、
「あいかわらず、君は自分の感覚だけで彫ってるねえ」
といつもいわれてしまうのは、残念で仕方がない(笑)。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト