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Junior Wells/Universal Rock

2012-03-31 14:33:59 | 日記
もう10年以上前になるが、Junior Wellsが来日したことがあって、
確か六本木のライブハウスだったと思うが観にいった記憶がある。

すごくいい席がとれて、舞台のすぐ近くだった。
当時、私はかなりいきがったブルース少年(??)だったので、
プレーヤーの目の前でビールを片手にタバコをぷかぷかとふかしながら
偉そうにみていると、その態度に腹をたてたのか、
ジュニア・ウェルズ自身が、歩み寄ってきて、

「おにいちゃん、さっさと家に帰ってねんねしな…」

みたいなこと(もちろん英語で)いわれた(笑)。

実は当時バリバリのギター小僧だった私は、たとえブルース界の重鎮であっても、
ギター以外の楽器のプレイヤ―にはあまり興味がなかったのだ。
ジュニア・ウェルズもバディー・ガイとのからみで知っている程度だった。

もちろん彼のCDももっていたのだが、リトル・ウォルターというブルース界に
燦然と輝く巨星の陰で彼の印象は正直薄かった。

そのうち自分がマジック・サムぞっこんになってしまい、
彼のレパートリーを次々とこなしてゆく中で、マジック・サムの歌っている
楽曲にジュニア・ウェルズの作品が数多くあることに気がついた。
それでハーモニカ・プレイヤーとしてではなく、一人のブルース・シンガー
として意識して買ったのがこのアルバムである。



以来、私にとってはジュニア・ウェルズはブルース界で最大の
メロディー・メイカ―である。

上記のCDの帯にも書かれてあるが、「シカゴ・ブルース・シーンの若頭として、
タフでチンピラなブルース」をひっさげ私の目の前に現れ、それこそ暴れまくった。

ところで、このアルバム中での最大の功労者はギタリストのアール・フッカーだと
思う(結局ギターの話になってしまった…)。
実は彼は私にとってのギターの理想で、どんなに、派手で華やかなプレイを観たとしても、
そんなことどうでもいいよ、と思ってしまうくらいにアール・フッカーの演奏が好きだ。

このことは今まで誰にも話さなかった。内緒にしておくつもりだった、なぜなら
ネタがばれるから(笑)。
まあ、最近また本腰を入れてブルースと取っ組みあう意欲がわいてきたので、
公開して、さっさと自分は次のステージに行こうと思ったわけだ(笑)。

結局のところブルースは歌を意識しないとだめだ。歌がまずいとすべてがだめになる。
だから絶対、ブルース・マンは自分で歌わないとだめだと思う。
そして歌うことで気づくことは非常に多い。自分のギター・プレイにしても
ヴォーカルの立場で省みることで確実に演奏の幅は広がる。

結局、ブルースは「何を語るか」なのだ。
それは歌をつくるということにも直結する。
だから、どもろうが、ロレツがまわらなかろうがいいじゃないか!
口をつぐんでちゃだめなんだよ…(自戒の意味をこめて)。


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遠藤春樹さんを偲んで

2012-03-23 17:42:54 | 日記
昨年頃からだろうか、我が家にちょくちょくやって来るノラがいる。



こいつは多分以前ちょくちょく顔を出していた「ちびくろ」の末裔か…。
どことなく似ている気がする。
ちなみにちびくろの奴はもうすっかりでっかくなり、ちょうど1年くらい
前に近所の神社の参道を我がもの顔で歩いていたところ、

「お~い、ちびくろ!」

と声を掛けたら、ちらっとこちらを振り向いて、すたすたと神社の縁の下に
入ってしまった。ねぐらをかえたのか、もう最近はとんと見かけない。

ところでこの新しいお客は、3日に一回くらいはやってくる。
餌を与えれば、喜んで食べてさっといなくなるのだが、べつに餌をねだるわけでなし。
たぶん特に今日のような雨降りは家の軒先で雨宿りをしているのだろう。

以前はちっこくて、おどおどしていたが、最近では私が近寄っても逃げなくなった。
体がボロボロにあれていて、ボロ雑巾のような奴だったが、1年もすると
体も大きくなり、すっかりキレイになった。

名前は「くろみ」という。私が名付けた。
しょぼしょぼした瞳がつぶらでかわいかったので、てっきり雌と思ってつけた。

そしたらある日ミケといっしょにやってきたので、どうもこいつは男らしいと思い、
したがって、名字を「郷」とつけた。
そう、郷くろみ(笑 これなら男でしょ…)。

多分、こいつは向こう隣りの家からも餌をもらっているので
そこでは別の名前で呼ばれているのだろう…。

しかし、やはりこいつは紛れもないノラである。
ノラには飼い猫ではあり得ない気品、崇高さというものがある。
生命の存続に直結するある種の威厳、プライドがあるのだ。
こいつにもそれは確かにある。




一方で家の中を見渡してみると…。



あっ、ココ! こら! かざりの木を食うでない!!

てな具合で緊張のかけらもない。

しかしながらそれでも、私は猫が好きである。
どんな猫にも等しく、本能的に生きていこううとする意志と力強さがある。

そう、こんな猫にも。



まどろむダリア…。



どんなに辛くても生きてゆこう。
生きてこそなのだから…。

(二回忌を迎えた遠藤春樹さんを偲んで)


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猫のしっぽ

2012-03-21 17:26:30 | 日記
明け方近く、私が寝ていた時、私の顔をモップでタップする奴
がいる。誰だとおもって目をあけると、はたしてポピー(うちの猫)
のしっぽだった。

ポピーは実に器用にしっぽを操る。
うちには四匹の猫がいるが、そのうちの雌二匹がしっぽが長い。
ポピーとダリアである。でもダリアはあまりしっぽを器用に
動かさないようだ。
ダリアは我が家の最初の飼い猫だったので、それこそもう
ねこっかわいがりにかわいがったのだが、ある日ワクチンの注射を
するために医者につれていったら、怒ってまるで狸のように
しっぽをふくらましたのだが、なんかそれ以来、しっぽが太いままの
気がする。

ポピーは末娘らしい、なにごとにも属さないようなあっけらかんとした
性格だ。その辺がべたべたの甘えっ子のダリア(長女)とはちがう。
だから、仕事中はポピーだけは平気で仕事部屋にいれる。
どうせ、そこらへんで勝手に寝ているだけだから(もちろん発情期を
のぞいて。発情中はそれこそ近所に響き渡るような大声で鳴くので
大変だ…。)

ただしこの写真(私の仕事部屋のテレビの上)のポピーにはいやされた。
去年の震災直後で気が滅入っていた時、



「おい、お前! 落ち込んる場合か、この馬鹿!」

といわれたような気がした。

まあそれにしてもしっぽで人を指差す(しっぽさす??)なんて
失礼な野郎だ。

どうも、我が家における私の重要度はこのポピーにとってはかなり低いらしい…。



ふぅー、ちかれた!

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Rock'n Roll closet vol.11

2012-03-20 12:29:27 | 日記

『Rock'n Roll closet vol.11』開催のお知らせ

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2012/3/25(日)江古田
「Livehouse Buddy★Rock'n Roll closet vol.11★」

開場/開演:17:00/18:00~
会場:江古田「Livehouse Buddy」
http://www.buddy-tokyo.com/
TEL.03-3953-1152(15:00~)
西武池袋線江古田駅南口改札口を出て右へ
徒歩約10秒、双葉会館地下2階
ビルの上下にBUDDYという看板あり
B1・MF・1F がGAME CENTER

お問い合わせ:江古田Livehouse Buddy
03-3953-1152(15:00~)
前売/当日:4,500円/5,000円 ※ドリンク別

出演:
HARRY
本名カズト BAND
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HARRYさんといえば、もちろんあのストリート・スライダーズの
ヴォーカルである。
私が高校生、大学生の頃は結構夢中になって聴いた。
「東京ジャンク」などはバンドでやったこともある。
すごくカッコよくて、私も随分あこがれた人だ。

その人と、これまた私のあこがれである本名カズトBANDが共演する
のだ。これは見逃せないぞ!

といっときながらも実は当日私は別のブルース・ライブイベントに
出演しなければならないので残念ながら観にいけない。

それでも宣伝するぞ。自分のライブをすっぽかしても観に行きたい
くらいだが、その恨みつらみをこめて宣伝するぞ(笑)。

(…)

先日我がCentimetersのライブが江古田倶楽部であったのだが、
本名さんが観に来てくれた。

その時、CDが音楽普及媒体として消滅してゆく話をした。
ネット等での配信が主流になってゆくのかな…。

本名さんは私なんかの100倍以上、自分のアルバムに思いを込めて
きた人だと思う。そういうのを身近に切々と感じてきた私としては
やはり残念なことだ。

一枚のアルバムは音楽はもちろん、ジャケットのデザイン、プレスなど
様々な人々の様々な努力、コンセプトによって成り立っている。
1枚のアルバムには作者の意匠が込められているのだ。
そうした大切な「思い(入れ)」が聴き手にはまったく伝えられない
ということになってしまわないだろうか。

当然これらの作業にはとうぜん経費がかかる。ある意味リスキーだ。
でもどこに経費をかけるか、ということが作者にとっての思いであり、
価値なのだ。

経費がかからなくて済む、ということは一概によいこととは言い切れない。
なぜなら、ある種の思い入れをもって投資を行うことができないとなれば、
それは軽い気持ちでやっている人との差別化ができなくなってしまうからだ。

そんなのカオスと同じでしょ。

力(資金)のある人は「無料配信」→「オンデマンド」を戦略的に展開できるのだろうが、
力のない人は価値を売り込むことすらできなくなってしまう。

私がもっとも恐れるのは人間は「慣れる」生き物であるということ。
「無料で案外いいもの」(つまり戦略的に無料化されたもの)が出回ることにより、
「さらによいもの」を求める人間の感性がそこなわれてしまわないかということだ。

まあ、私もこんなこと今までまじめに考えてきたわけではないし、本名さん本人も
「人生、成り行き」と、いささか開き直りの感もあるわけで考えてもしかたのない
時代の流れというものもあろう。

ただ最近思うことがある。
私は個人事業主なのだが、個人事業主は個人として資本力のある企業とわたりあって
ゆかねばならず、そのためにどうすべきかを考えているわけで、やはり個人にしか
できないこと、例えば品質はもちろんのこと機敏さ、変容性、スピードを追求する
ことでしか生き残れない。それらのキーワードが「コミュニケーション」だと思う。
個人として直接お客様にあって話をきき、個人としてコミュニケートすることは、
大企業ではなかなかできないことだと思っている。

話をもとにもどそう。

我々ができること、コミュニケーション、そうライブである(いささか強引だったか…)。
やっぱ、コンピュータよりCDがいい、CDよりも「生」がいい(笑)。

そういうわけで、3月25日は、皆さんこぞって江古田Buddyに行こう!!

(いけね、自分のライブの宣伝するのわすれた…)

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Kenny Burrell/God Bless the Child

2012-03-17 17:30:59 | 日記
最近、人前でブルースやロックだけではなく、ジャズなんぞを演奏する
チャンスがありまして(笑)、いろいろ気づくところがある。

私のようなブルースマンの周辺においては「ジャズをちーとも知らない」
人が多いのだが、そんな中でもケニー・バレルを知っている人は比較的多い。
それは、ブルースマンが好むフレーズが随所に出てくるし、
またブルースマン以上にブルース・フィーリングにあふれた演奏をする
ことが多いからだと思う。

彼自身、ブルースに対する敬意のおきかたは大変なものがあるし、
実際、全く普通のブルース進行(ジャズのブルースとブルースマンがやる
ブルースはコード進行が異なる)の曲を演奏したりしている。

ただ、自分がジャズ・ブルースを演奏するようになって、ケニー・バレルと
いう人は実に自由にジャズのコード進行をとらえている気がする。

ジャズマン演奏は、とくにビバップの頃はコードの派生に基づいたもの、
いわゆるコーダルな演奏が圧倒的に多いのだが、ケニー・バレルの演奏は
時にとてもモーダルな動きをみせ、したがってより自由な感覚がある。
まさに、せきとめられていた水が一気にあふれ、流れ出してくる感覚である。

そしてそのモーダルな動きこそが、ブルースの根源的要素だと私は思う。

我々ジャズ・ブルースマンではない、いわゆるただのブルースマン(笑)は、
演奏の際にそれほどコードのことは考えていない(少なくとも私は…)。
実は現代におけるほどその傾向は強いわけで、例えばロバート・ジョンソンや
ロバートJr.ロックウッドなどのブルースの創世記に活躍した様な人たちは
非常にコードを意識した演奏をしている。

ブルースといっても南部のブルースにしてもジャズ・ブルースにしても、
ロック・ブルースにしても、これほど分派し、独自のスタイルが確立されて
いる以上、私はモーダルな演奏こそが真のブルースであるというつもりは全くない。

私が言いたいのは、ケニー・バレルの演奏におけるあの「自由度の高さ」は
なんなのだろうか、ということである。


先ほどケニー・バレルは「自由にジャズのコード進行をとらえている」と書いたが
それなら、いわゆるロックのブルースを演奏する人がジャズ進行のブルースに
対応できるかというと、

うーん、有りといえばありだが、無いといえばない(笑)。

少なくとも彼らがそういう場面で演奏するとするなら、私はあれこれモード的に
音をさがしているような迷いは感じても、自由だとは思わない。
(もちろん、なんの迷いもなく弾いている人もいるし、ある意味すごいと思う。)

結局、ケニー・バレルはコードという制限の中からあふれでるように
「音階(モード)を発見した」のだと思うに至った。

人から教わった知識、たとえばドレミファソラシドを教わったって、
それでDm7-G7-CM7のコード進行で弾いてみろといわれても困るだけでしょ。
(よく見かけるのだが…)

逆にレファラド、ソシレファ、ドミソシをしっかり学んで、それだけで
物足らなくなり、テンション・ノートを加えて、パッシング・ノートを
加えていくうちにモードを発見するという過程の方が現実的というか、
実用的だと思う。

マイルス・デイビスにしたって、パット・メセニーにしたってそうやって
学んだのだ。それは彼らのインタビューからも明らかである。

マイルスはモード奏法に、パット・メセニーはクロマティシズムに、
ケニー・バレルはブルース・スケールにというように。

特にインプロビゼーションに関わる音楽というのは、たとえそれが
すでにある知識だとしても、自身の感性における「発見」がなければ、
「もの」にはならないのである。

ジョン・スコフィールドのようないわゆる現代を代表するようなギタリストが
ロック、ソウル、ブルースといったものから、ジャズに入り、そしてロックや
ブルースを再発見してゆくという過程をたどっているのは非常に象徴的であると
私は思う。



上記はケニー・バレルの『Kenny Burrell/God Bless the Child』。
ブルース進行の曲はないが、「これぞブルース!」としかいいようのない
すばらしい演奏が聴ける。
また、ドン・セベスキーのアレンジもよいし、なによりロン・カーターの
ベースが最高!!



がんばろう、東日本!!
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