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インディゴ・チルドレン

2010-10-31 17:04:41 | 日記
最近、小学校や中学校における教師の質の低下が問題になっている。
今日のニュースの特集でもとり上げていた。

教室の風景を写したVTRは一種悲惨な現場の実情を映していると思った。
授業中であるにもかかわらず、生徒達は席につこうともしないで、
教室中を動きまわっている。
先生ももはやあきらめたのか、大人しく授業を受けようとする生徒にだけ
プリントを配布している。もはや収拾がつかない状態である。

私の目を引いたのは、実はこれ見よがしに教室を走り回っている子供たちではない。
もちろん、真面目に授業をうけようとしている生徒たちでもない。

動き回っている生徒たちにも、そして授業をしようとする先生にすら興味を示さず、
無関心の様子で誰と話をするわけでもなくポツンと座っている一人の子供だ。
こういう子供たちをインディゴ・チルドレンというのかな(ちょっとちがう気もする。)

(…)

私も教育荒廃が進んだといわれていた時代を過ごした。
程度の差こそあれ、それほど我々の世代と変わりは無いと思っている。

「たのきんトリオ」全盛で、女の子はみんな松田聖子みたいな髪型だったし、
スカートはみんな長かった。男の子はいわゆる刺繍入りの学生服にボンタン、
ツータック、スリータック…。
授業をボイコットする奴もいたし、登校拒否の生徒もいたし、イジメもあったし、
万引きも、そして恐喝まであった。

みんな、同じテレビ番組を見て、同じ雑誌を回し読みして、
そうやってモードが出来てゆく。
いまの子供たちも同じ、その時代のモードを生きているだけだ。

大人もしかり。とりあえず民主党に文句をいって、社会に文句をいって、
文句をいうだけのマスコミをうのみにして、それが理念だの、イデオロギーだの
と騒いでいるだけ。

悲しい現実は、そこから逃れることはできないということ。
つまり人間は生かされているだけだということだ。

ずっと昔からそうなんだと思う。

「俺も若いころは悪くてね。」といっている大人が、「今の若い奴は…」などと
いっているのを聞くと、吐きそうになる。

「いや、我々の頃はまだ、良心があった、愛情があった。」

ドングリの背比べでしょ、そんなの。
だいたい、それはあんたがたの意志ではないでしょ。
ただ生かされてただけのくせに。

だいたい現代の教師の手足をもぎとったのは大人たちでしょ。

(…)

一体全体、人間の自由意思など存在するのか。
おそらく、存在すると思う。でもどうしても手が届かない…。

人間が生かされてある存在である以上、我々をつき動かしているのは
本人の意思ではなく、モード(宗教、信念、理念、イデオロギー、嗜好、、、
なんでもOK)という得体の知れない怪物によってであるということをただ自覚して
生きてゆくしかないのだと思う。

そんなゲームは「やーめた」と言いたい。

だから、私の思いこみかも知れないけど、上記のインディゴ・チルドレンを
見つけた(ような気がした)時は内心ホッとした。
彼ら(インディゴ・チルドレン)は肩の力を抜いて、そういう現実を
悠々と泳いでいきそうな気がする。自分の本当に望む未来に向かって。
新しい世界はそういうところから生まれると思う。

ガンバレよ。いやガンバルな。気楽にいけ。


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早起きは三文の徳

2010-10-28 17:36:23 | 日記
脱サラしてから、ずっと朝は7時起きだ。
まあ、どんなに徹夜しても、休日でも7時には起きているのだが、

サラリーマン時代とくらべていまいち生活が充実していない気がする。
当時は6時には起きて、7時半には電車に乗っていた。
通勤時間は1時間、駅まで徒歩で15分、往復で2時間強。

ウォーキングあり、読書あり、イメージトレーニングあり、勉強あり
ライティングあり。そして、帰宅後1時間はともあれギターの練習を
していた。

しかし今では納品が多い日などは夜中に起きてそのまま、夕方の納品まで
ノンストップで仕事をし、そのまま一日一食の貴重な食事をして、バタッと寝る。
生活のすべてを仕事にささげるのも一昔前は格好よかったのかも知れないが、
あまりに芸がないし、充実感がない。

サラリーマンだって、OLだってもっと工夫して仕事以外でバランスをとってるでしょ。

でも、自宅兼オフィスで一人で昼食を食べてもちっとも楽しくないんだもん!

というわけで、今の自分に欠けているものは、運動、ギターの練習など
仕事とくぎってやる諸々のことだ。
だから、疲れて休むことはあっても、意識的に休暇というものすらとっていない。
これじゃ、だめでしょ。

ということで、最近は朝6時に起きるようにしている。
もともと朝に日記を書いたり、掃除をするという習慣はあったのだが、
それに加えて意識的に朝の仕事前の時間をもっといろんなことやっちゃおう
という目論みである。

そういうわけで、朝1時間くらいギターの練習をしている。
よく演奏の後で人から「どんな練習してるんですか?」って聞かれるのだが、
いつも「ただボーっとギターを弾くだけ」と答えている。
もちろん、意識的な練習(勉強:トランスクライブや理論に基づいたアプローチの研究)
もやるのだけど、30分くらいのもんで(それで充分!)、
あとはスタンダードのコード進行に合わせてボーっとギターを弾いている。
なにも考えず、ひたすら流れに乗る。自分のフィーリングを追いかけている。

私はインプロビゼーションが主体の音楽をやっているので、
ある楽曲を練習してOKというものではなく、無意識レベルで体から
フレーズが出てくるようにしておかないといけない。
要するに仕込んだものが発酵されて出てくるにはそれなり時間を要する
わけだ。
自分にとってはコンポーザーが白い譜面に向かっているのと同じことだと思っている。
ギターを手にとった瞬間、永遠に続くのではと思われるような長い空白
(手は動かしてるけど)の時を過ごしているような気がする。
だから15分くらいで息切れしてしまうこともある。

これでも20代の頃はかなり(意識的な)練習をした。
でも経験上、意識的な練習が即実践に結び付くということはあり得ないわけで、
実はそういった中でいちばん効率のよい方法がこの、「ボーっとギターを弾く」
なのである。どんなアイデアもその場では「その場にとどまらず、流しておく」
ことになるが、それはそれでそんだけのもんでしょ。
手を休めてメモとっている暇があったら、とにかく手を動かせ、流れを止めるな、
ということだ。

まあ、そんな話はともかく、こういうことをやっていると
朝弾いたスタンダードのコード進行が一日中永遠と頭の中に流れているわけで、
仕事をしながら、食事をしながら、テレビを見ながら、そのコード進行が頭の
中から離れず、メロディ(インプロビゼーションのライン)を歌い続けているという
半分ノイローゼになってしまいそうな感じである。

早起きは三文の徳という。
はたして充実しているとは言い難いのかも知れないが、
生活のバックグランドにスタンダードが流れているというのも
悪い話ではないとは思う。

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ああ勘違い

2010-10-25 13:43:01 | 日記
もう随分多くの翻訳を納品してきたが、私はもともとは営業畑なので、
翻訳者から上がってきた翻訳のチェックには毎回大変な苦労をしている。

それでも新しい発見があり、本当に勉強させられた。
会社を設立して間もない頃は、本当に冷汗をかきながら、おそるおそる
納品していたが、少しずつだけど自信もついてきた。

まあ、半端じゃない文章量を処理しなきゃならないので、
当然といえば当然だが、自分でいうのもなんだけど、一字一句
チェックして、わからないところは謙虚に翻訳者やお客さんに確認し、
スポンジのように知識を吸収してきた自分をほめてやりたい(笑)。

今日の目からウロコ(ってか「ああ勘違い」)は、


Adobe Creative Suite...

これを私は今まで、「クリエイティブ・スーツ」と読んでいた。
ネットで調べたところ、「クリエイティブ・スイート」が正しいらしい。

SuitとSuiteを勘違いしていたのだ。

翻訳者から翻訳があがってきたのをチェックしていたら、
「スイート」と書いてあるので、

「なんだよぅ、そんなことも知らないのかよ~」

と不満たらたら、ネットで調べたら、なんと、間違っていたのは自分であった。
(あやうく、翻訳者に電話で文句をいうところだった。本当に冷汗ものである。)

そういえばホテルのスイート・ルームは勝手な妄想により、
Sweet roomだと思っていた(笑)。

そういう間違いはいっぺん、恥をかかないと気がつかないものなのかな~。
まあ、素直が取り柄でやっているから、これからも、恥をかきながら
やっていくしかないか…。


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i-pod

2010-10-24 16:03:31 | 日記
休日にもかかわらず今日も仕事をした。

そのご褒美として、お気に入りi-podのコンテンツの総チェックと
入れ換えを行った(さみしいご褒美だこと)。

もう、1年以上中身を換えていなかったのだが、
いつも電車に乗る度に「ああ、やっておけばよかった。」と
思いながら同じ曲ばかり聴いていたので、ままよ、とやることにした。

こういう作業は楽しいのはもちろんだが、新たな発見があって
面白い。

「こんなに好きな曲なのになぜいままで入れなかったのだろう」とか、

「ああ、こんな曲もあったっけ」と。

携帯する曲を整理するということは、自分の頭を整理することにも
つながる。

人間の記憶とかにしても同じことがいえる。
1年前はものすごく恨んでいた人たちも、今となっては
「どうでもよい人」、「眼中にない人」になってしまっている。
でもこれはすべて時が解決してくれたのだ、といえるかというと
そうではない。
自分でも意識してやってきたことだ。

私は1年くらい前にある出来事で、ある人たちが大嫌いになった。
大嫌いというレベルではない。道であったら刺し違えてやろうくらいに
思っていた。恨み骨髄とはまさにこのことだった。
以前のこのブログを読むと、怒りの炎がめらめらと燃える中で書き
つづっているのがわかるものがあって、今となっては笑ってしまう。
半年以上にわたってそういう恨みは持ち続けていたし、
パソコンに向かっている時も、掃除をしている時も思い出しては
ひとりで怒りまくっていた。それが自分の行動の原動力となっていた
ことはいがめない。

でもある日思った。「ああいう連中を気にして怒っているかぎりは
結局自分はその程度、つまり連中と同程度の人間なのだ」と。

人生は短いのだ。そんなことにかかわって、時間を浪費している
暇などない。

だから、奴らのことを思い出す度に、「ふん、お前らのことなど
眼中にないわい!」と自分の心そのものを切り捨てていた。

そういうことを1か月も続ければ、人間の「感じ方」など変わるものだと
わかった。

要するに「受け止め方」の問題なのだ。
今の状況を変えたければ、自分の考え方を変えるしかないのだ。
そしてとにかくそれを継続すること。そうすれば人間なんて1カ月もあれば
変れる。

どうして人は変わることを恐れるのか、
今まで自分が抱いてきた考え方に執着するのか、信念とか、信仰とか
たいそうな言い方でいうけど、結局はただの「既成概念」だ。
自分をそんな風にして牢獄に閉じ込める生き方にもはや美しさなどはない。
i-podの中に1年以上も聴いていない曲を入れているのと同じだ(俺のことか…)。
容量オーバーでフリーズする前に考えてみろや!

新しいi-podを買うってか?
あんたの体は取り換え不可ですよ。

そういうものを捨てれば本当はもっと自由になれるのに。


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猫も食わない

2010-10-22 17:52:35 | 日記
ここ数日はぐずついた天候だが、明日からは少し晴れるのかな。

体調は未だすぐれず、断続的に喘息の発作がおきているが、
それでも2、3日前にくらべれば少しずつだが体調も回復してきた。

貧乏暇なし状態は相変わらずで、今週末も休めそうにない。
まあ、いい傾向なのだろうと思う。

ところで以前からこのブログでも紹介している「ちびクロ」であるが、
最近はどうしているのかな、と思っていたら昨日の夜にやってきた。
野良猫は雨の日は、大概は雨をしのいで、じっとしているものだが、
それでもお腹が空いたのか、たまらず出てきたのだろう。

家の玄関の前で「ぐぉ、ぐぉ」と鳴く声が聞えるので、何かと
思ったら、果たしてちびクロであった。

さっそく餌を与えようと、うちの猫どもの餌の残りをかき集め、
「よし、おっちゃんのサービス!」と100均で買った煮干しを
皿にてんこ盛りにしてだした(100均の煮干しはダシがあんまりでないんだよ~ん)。

そしたら、ある種類の餌だけは残して、あとはぺロリと平らげた。

「なんだよぅ、残しちゃって~!!」

残した餌は西友(西友は猫餌が安いのだ!)でも格段に安いのだが、
うちの猫はひとつの餌だとすぐに飽きるから、それをたまに入れて
あげると喜んで食べていたやつだ。

野良猫も好き嫌いするのね…。

いつものように食うだけ食ったら、あとはさっさとどっかへ行ってしまった。


もっと自分に余裕があったら、家の猫にも、そこらの野良猫にも
もっと旨いもん食わしちゃるのだが、そもそも、自分も含めて人間の味覚など
あてにならん。

この世に「猫も食わない」ものは山ほどある。
それを喜んで食べている自分はより高等なのか、それともより下等なのかも疑わしい。



写真はひたすら食べているちびクロと
その様子をじっとみているココ



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