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眼鏡

2009-12-28 10:14:34 | 日記
もう、年末。
例年だと自分が勤めている会社の大掃除をはじめる時期だ。

ことしは起業をしたので、自宅兼オフィスを掃除すれば
いい。

実は起業したてのころ、あんまり仕事がなくて、
部屋の掃除ばかりやっていた。

なんかの本で「トイレをピカピカにして蓋を閉めておくと
金運がよくなる」と書いてあったので、毎日、仕事前に
トイレから始まって、洗面所と自室(オフィス)を雑巾がけ
している。
この習慣は仕事がボツボツと入ってくるようになった今でも
続いている。

普段机に向かって、昼休みもとらず、7時間位机に座りっぱなし
ということがザラな私にとっては、いい運動になるのだ。

そんなわけで今日もいそいそと掃除をしていた。
今日は猫のトイレ周りから、ということでサクサク手際よく箒を
つかって、猫がとっちらかした猫砂を掃きだしていた。
傍らには、かみさんが化粧にいそしんでいる。
こちらが話しかけても、一向に応える様子もなく、夢中になって
いる。

「あんた、そんなに塗ったくらんでも…。」

とよく見ると、それはかみさんではなく、「アイロン台」であった。

やっぱり眼鏡を外して掃除をするなんて、不謹慎なことじゃいかん!


そういえば、家にいる黒猫をいつも「黒いもの」と間違える。
夜に電気の消えた部屋に入ったとき、

「こら、そんなとこで何やっている!」

と怒ると、それは私のカバンであった…。


以前など、北鎌倉の郵便局のポストと会社の同僚を間違えたし、
道にとめてあるバイクを人がうずくまっているのと勘違いして
声をかけたこともある(笑)。


普段からちゃんと眼鏡をかけるようにしないと、問題だな、こりゃ。


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気まぐれ 猫

2009-12-27 10:09:16 | 日記
猫は気まぐれな生き物である。

普段は人間など見向きもしないのに、ある日
とつぜん思い出したように飼い主に甘えてくる。

ダリアのようにそれが毎日の日課であり、いつも
膝の上でしずかに寝てくれているのならまだしも、

次男坊のココは突然、現れ、決して膝の上でじっとすることなどなく、
私がパソコンのマウスを持つ手にスリスリしたり、キーボードを
踏んづけたりする。

期せずして、「gったttttttttttt」というわけのわからない
文字が画面上に現れるあの空しさ…。

今日はキーボードの前にどっかと陣取り、
くかぁー、と眠ってしまった。



お陰で私は「うらめしやー」のお化けのようないびつな格好で
このブログを書いている。

パソコンはだめでも他にやることはあるさ、



と親ばかならず猫ばかになって、いそいそと別の仕事をこなす私であった。


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猫ふんじゃった

2009-12-26 10:32:50 | 日記
私のクローゼットは寝室にある。
お風呂からあがって、体を拭くと、全裸でドタドタと
寝室まで歩いてゆき、そこで服を着る。
下着を風呂場に置いておけばいい、という意見もありそうだが、
私としては、お風呂から上がって、体を拭いた後に、新鮮な空気に
ふれた感覚が大好きだ。
(朝、シャワーをあびて、体を拭いた時にふれる空気、
めざめ~、って感じがして大好きだ。今は寒いからやらないけど。)

したがって、私は全裸のまま、家中を歩かねばならない(笑)。
ところが、家の寝室は一階で通りに面しており、寝室のカーテンが
開いていたりすると、公に私の醜態をさらすことになる。

先日も、最高の気分で風呂からあがり全裸で寝室までゆくと、
期せずしてカーテンは全開であった。

「こりゃ、いかん!」

どたどたと、ベッドの上を通り、カーテンを閉めた。

ふと、足元に「むきゅー」っとした心地よい感覚がひろがる。
なんのことはない、猫が布団にもぐり込んでおり、それを
踏んづけたのだ。

足の裏って神経が集中していることもあって、すごく敏感だ。
へんなものを(たとえば、道端の犬のう○ことか)踏んだ途端、
「うわー、やばい!」と状況を確認するまでもなく事態を把握する。

私など、幼稚園の頃に大分県のサル山で踏んづけた猿のう○この
感触をいまだに覚えている。

あるいは、中学生の時に踏んだ、蜘蛛の感触、
思い出すだけで今でも全身がこそばゆくなる。

「猫ふんじゃった」

という歌がある。海外でもメロディーは同じだが、歌詞の内容が
ちがうらしい。

「蛇ふんじゃった。」

「う○こふんじゃった。」

「トカゲふんじゃった。」

と気持ち悪いものをあげればきりがない。
(私の小学校は校内、どこでも裸足だった。これでいかに私が
田舎ものかということが、ばれてしまう。)


それにしても「猫ふんじゃった」は、かわいらしい歌だと思う。
実際、猫を踏んづけるとわかるが(そんなん、わからんでよろし!)
全身に広がる心地よい「むきゅー」とした感覚。
世界が一瞬にして薔薇色になる、お馬鹿な飼い主の幸せ…。

まあ、大変稀なケースだとは思うが、踏まれた猫にとっては
たまったものではない。

「ぼくが何をしたっていうの!?」

と不満たらたら、「ふまんたれぶー」である。


うわーい、まっくろけ!


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音楽一家

2009-12-23 15:28:58 | 日記
父は英語の教師だった。
当時の人(戦中世代)としてはとてもモダンな考え方をしていた。
ロマンチストな上にキザな人なので、保守的な田舎の同級生からは
少し敬遠されていたところもあったようだ。
しかし、彼はそういう自分を誇りとして生きていたと思う。
また、その時代の英語教師としては珍しく、英会話ができる。
というか、外国人教師を招いてディスカッション形式の斬新な授業を
していたので、できるようになった、というのが正しい。

そういう人だったから、ギターも弾くし、アコーディオンも弾く、
また、歌もうたうし、ピアノも弾く。
そして、ジャズをこよなく愛する。演歌はほとんど聴かない。

今、自分がギターを弾くようになって、父の楽器を演奏する技術は
半分インチキだと思う。しかし父のそういう素地があってこそ、
私は小さい頃から音楽に親しんできたことには間違いない。
音楽一家とはとてもいえない。だって誰ひとり専業的音楽家は
いないから(笑)。

だけど生活の中に音楽が当たり前にあった。

そんな父だから、一度、私の家に遊びにきた時、
朝から私と二人で歌をうたって、ギターを弾いている姿を
うちのかみさんが見て、驚愕していた。

我々にとっては、常に傍らに置いてあるギターをおもむろに
弾き始めるということは、当たり前の光景である。

そんなわけで、私はよっぽどのことがない限りはギターの練習を
しない、というかした記憶がない。
だからライブ演奏は月2、3回ペースで10年以上やってきたが、
まったく練習をしたと思ったことは数えるくらいしかない。

それでも、多分人の数倍ギターにはふれていると思う。

日常、仕事でパソコンの前に向かっているが、ふっと思い起こして、
ギターを弾いて、また脇において、パソコンのキーボードを打つ、
という感じだ。

これが、パソコンではなくて、ピアノだったら、さぞ巧くなっているんだろうな
と思うが、ピアノは未だによく弾けない。

先日思い立ってNHK教育の国府さんのテキストを買ってやってみたが、
手がつりそうになって、腱鞘炎にでもなったら「こりゃ、まずい」
ということで結局は中座した。

それでも、ピアノが弾けるようになりたいな、といつも思っている。

こう、どこかのキーボード奏者のように、シンセサイザーとか、電子ピアノとかを
何台も上下にならべて弾いている姿はかっこいい。
そこにパソコンのキーボードを置いておきたいくらいだ(笑)。


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ヒーロー

2009-12-19 10:00:52 | 日記
私は格闘技が好きでよくテレビを見る。
総合格闘技、K-1、ボクシングなど。

昨日、長谷川穂積が10連続防衛に成功した。
具志堅用高につぐ快挙だ。

具志堅さんが活躍していたのは私が小学生の頃だ。
「冠鷲」(かんむりわし)というニックネームだったと思う。
軽量級のファイターだったので、すごくスピード感のある
ボクシングが魅力だった。
10回目か11回目くらいの防衛戦の時だったと思う。
それまで押され気味であった試合をワン・ツーのコンビネーション
一発であっけなく、ダウンを奪い勝利した。
その2発のパンチが速くて、見えなかったのをよく覚えている。
「ちばれよ! 具志堅!!」といいながら家族で応援していた。
彼は日本の正統派のヒーローだった。

長谷川選手を見ていて、久しぶりに日本のヒーローが復活したな、と思う。
試合以外では、とりたてたパフォーマンスや言動を一切しない。
いつでも自然体で、道を歩いていても普通のにいちゃんとそんなに変わらない
気がする。

しかし、リングの上ではスピードとテクニックを武器に圧倒的な力を見せつけている。
4試合連続の1ラウンドKO勝利こそのがしたものの、相手をノックアウトする
瞬間のパンチの破壊力は圧巻で、見ていて胸がスカッとする。


K-1マックスはともかく、総合格闘技、K-1においては日本人は外国人の
パワーに圧倒され、なすすべはない。
柔道の重量級の試合をみていると「柔よく豪を制す」の精神は、
まるでキングベアーのようなパワーをもった人たちには歯が立たない。

牛若丸が弁慶を五条橋でやっつけたように、パワーを制する知恵と
スピードに日本人は民族としての力強さや希望を見出してきたのだと思う。

その点、ラスト侍で知られる、西郷隆盛はアメリカ人にもわかりやすい
日本のヒーローかとも思えるが、演じていたのは渡辺兼さんであって、
彼はもちろん西郷さんのような大巨漢ではない。
日本の武士道、そしてヒーローの姿が海外にも受け入れられ始めていると
いうことか。

私は「武士道」のことはよく知らないので、軽率な発言はしたくないが、
すくなくとも、戦後の日本のヒーローは、体が大きく、パワーでは圧倒される
外国人を精神と技で倒す姿にあると思う。

ボクシングには階級があるので、それほど大きい人と小さい人の重量差の
ある試合というのが見られないが、それでも長谷川選手のあの圧倒的な
強さにはスポーツとしてよりも、ヒーローとしての光を感じる。

K-1の王者に君臨するセーム・シュルトは2メートルを超える巨漢であり、
しかも技のひとつひとつに切れがあり、現在のところ、彼から
ダウンを奪うものは現れてきているが、勝てる奴はいない。
そんなわけで、数年前から主催者サイドもニューヒーローを立てたり、
なんとかして彼を王の座から引きずりおろそうと必死である。
K-1発祥国である日本人にとって、セーム・シュルトは「夢も希望もないファイター」
の典型なのだろう。4回も王者になっていながら、彼はヒーローにはなれない。

しかしながら、彼は類稀な肉体以上にそれを上回る技とスピードを身に着けるべく
努力を重ねていることを知るべきである。
もちろん、彼だって人間なのでいつかはその強さにもかげりはでるし、
いつかはリングの上に沈む日もあるのだろう。
そして、それをやってのける人がニュー・ヒーローということになるのか…。

私は疑わしいと思っている。
K-1はあくまでショーであり、たとえセーム・シュルトをリングに叩きのめした
としてもそこまでの過程に轢かれているレールがあまりにも見え透いている
気がするのだ。

ヒーローは常にある種の必然から生まれてくるものだ。
自然という圧倒的な現実の前には、人間の描くストーリーなど砂上の楼閣に等しい。

長谷川穂積は自然体である。そして本物のヒーローである。


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