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女子フィギュア 世界選手権

2010-03-30 17:39:32 | 日記
先日フィギュアスケートの世界選手権があった。

オリンピック後の大会ということで、マスコミも
とり上げていなかったのか、ショートプログラムは
裏番組の格闘技を見ていたので見逃してしまった。

そのかわりフリーはしっかり見た。

浅田真央選手はすばらしかった。
音楽と一体化していた。
顔が子供っぽいから、もっとかわいらしい、真央ちゃんらしい曲を、
という人もいるが、私はパーフェクトだと思った。

世界的な演奏家が難易度の高い曲を弾くときの、その顔つきと
同じだと思った。

もちろん音楽家は音がすべてであり、いろいろ個性があるとは
思うが、例えばすばらしい指揮者が奏でている音と一体となり、
流れにのりながら、しかも完璧に空間を制御しているような、
そういうカリスマ的なすごさを感じた。

だいたい、演奏している時の顔つきをみればいい演奏家か、
だめな演奏家かはすぐにわかるものだ。


浅田選手はマグマの上をヒラヒラと舞う、情念が変化した蝶のようだった。

というか、あんな難しい曲を完全に自分のものにしていた。

すごいことだと思う。彼女は真の意味の芸術家だと思う。


それから、安藤選手もすばらしかった。
彼女は前回のオリンピックから、ものすごい成長を遂げたと思う。
それなのにマスコミがほとんど彼女をとり上げないのは、どうしてか?


女子フィギュアスケートは競技のひとつであり、
採点によってその演技の価値がきめられるものだ。

でも、もうどうでもいいことだ。

採点方法がやっぱり、どうしても腑に落ちない…。

だいたい、自分はルッツとかフリップのちがいがよくわからん。
テレビで詳しく解説していたのを見たことはあるが、
実際、あんなに早くクルクルまわっていると、もうわからん。
だからどの選手がどれだけ美しいかを解説されても、全然ピンとこない。

ただ、自分が主観的に感じたことを書いているだけだ。
世界の常識など私にとってはなんの意味もない。

それにしても、私が演奏家の端くれとして一言いわせてもらうなら、

「気の入っていない演技は、もう二度と見たくない」

それだけは思った。

翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト

遠藤さんの死

2010-03-24 12:23:10 | 日記
昨日は私の大先輩であり、稀代のギタリスト、ベーシストの
遠藤春樹さんの告別式があった。

様々な方面から友人達がかけつけていた。
我々が彼の訃報をきいたのは、江古田に縁のある人たちが
8年ぶりに再開し、そして成功させたコンサートの打ち上げの
場所だった。
みなが再開と、コンサートの余韻と、そしてわざわざ九州から
かけつけてくれたティムさんが持参した、本格焼酎に酔いしれ、
あるいは泥酔し、机にうっぷしている人ありの、
もうめちゃくちゃ状態の最中だった。

比較的冷静だった、本名カズトさんは、状況を把握すべく
お店の外で携帯で連絡をしていた。
私も追いかけて、様子をみていた。

そとはざんぶりの雨、風も強く、嵐の様相…。

遠藤さんの思い出が頭をよぎり、声をあげて泣いた。

さっきまで冷静に携帯電話をかけていた本名さんが、
気がつけば、後ろで、あふれる涙をこらえていた。

また、かなしみがこみ上げてくる。
本当に子供のように泣いた。

涙と雨で全身びしょびしょになった私の肩をたたいてくれたのは
森辰二郎さんだった。

泥酔し、机にうっぷして寝ているのかと思っていたら、ちがった。
彼は泣いていたのだ。


15年前に遠藤さんが病気で倒れた時、彼からの連絡をうけ、
真っ先に駆けつけ、救急者で搬送したのは辰二郎さんだった。
遠藤さんの一番古くからの友人だった。


告別式の会場で、モモちゃんは気丈にふるまっていた。
結婚して間もない頃に、大切な人が病気で倒れ、
それを献身的な介護で、15年もささえ続けてきた彼女の
悲しみは計り知れない。

遠藤さんが病身だったとはいえ、亡くなった日の数時間までの
彼の元気な様子と、突然の死に不明な点が残るとして、
司法解剖が行われた。
頭部にまでメスの入った死顔が痛々しかった。


僕ら友人の多くが、遠藤さんの訃報をきいたとき、
気持ちの中にはモモちゃんがこれで少し楽になると、
安心感を抱いたと思う。

だけど彼女はいった。

「私は理由が知りたい、もしこんなことがなかったら、
私はあと、20年も30年も彼と一緒にいられたのに…。
だから、私は死んだ理由が知りたいの。」

と。

死者は沈黙を好む

我々はえてして、人の死を、その受け止めきれない感情を
身勝手な自分の言葉で解釈しようとする。
でもそれは、結局、近親者ではない我々の憶測の域を出ないのだ。

森繁久弥さんが亡くなった時、

「彼のこと、大往生とかいう人がいるけど、私はちがうと思う。
彼は死ぬまでずっと、やりたいことを語っていた。だから
彼は悔しがっていると思う。」

というようなことを森光子さんがいっていたのを思い出す。


みんなひととおりご焼香をすませ、再度一人ずつ、最後の
お別れをしようということになり、再び棺の前にみな並んだ。

みな無言で焼香をすませてゆく。
暗黙の了解で、森辰二郎さんを一番最後にして、みな部屋を
でた。

最後にみなモモちゃん、それから家族の人達と抱き合って、
ある人はタクシーで、ある人は徒歩で帰っていった。

徒歩組の辰二郎さん、静岡さん、私は駅の近くの飲み屋で
一杯やっていこうという話になった。

「なあ、最後のお別れの時、机にお寿司がおいてあったろ、
あれみて、うまそうだと思わなかった? 俺、腹がへっちゃってさー。」

と不謹慎なことをいう辰二郎さん…。

…実は私も同じことを考えていた。
私は節度をもってそれを口にはしながったが、そういうことを
臆面もなく私に打ち明けてくれる彼。
そのくせ、今度は飲みの最中に話が遠藤さんに及ぶと
目に涙を浮かべている。
そしてまたお互い馬鹿話を始めるという具合…。

生きていることはすばらしい、つくづくそう思う。

お酒にめっぽう強く、酔うことの少なかった遠藤さん、
いつかあの世でいっしょに乾杯しよう!


翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト

イチゴヨーグルトケーキ

2010-03-15 18:57:16 | 日記
昨日はホワイトデーだったので、妻のためにケーキを作った。



タルト生地にヨーグルトケーキとイチゴをのせて固めたものだ。
(自分で思いつきで作ったので、なんという名前かは知らない。)

この世にはもっとおいしいものがあると思うが、一応妻の評判は
上々だったので、下記にレシピを掲載する。

<タルト生地>
(1)室温でやわらかくしたバターを50gほど(本当は90gくらい入れたほうがおいしい)
をよく練ってクリーム状にする。
(2)砂糖を60gバターと少しずつ(2回か3回にわけて)練りこんでゆく。
(3)卵黄1個分を加え混ぜ合わせる。
(4)ふるっておいた薄力粉180gを加え手でこねる。(多少ばらつくが、このほうが
サクサク感がでてよい、どうしてもまとまらない時は少量牛乳を入れる)。
(5)めん棒で平たくして、ラップにくるみ、15分ほどねかせておく。
(6)タルト型にあわせてさらに生地をのばしながら、敷き詰めてゆく。
(7)オーブンで10~15分焼く。こんがりきつね色に焼けたら完成。

<ヨーグルトケーキ>
(1)プレーンヨーグルト200ccをざるにあけて水気を切っておく(10分程度)
(2)ボールに水気の切れたヨーグルトと生クリーム100ccと砂糖大匙3杯をまぜる。
レモン汁少々、リキュール少々(なくてもよい、私は友人からもらった果実酒を
入れた。なんの果実酒かは不明、ちょっと甘いけどちょーうまい!!)
(3)定量のゼラチンをお湯にとかし、混ぜ合わせる。

<イチゴ>
(1)イチゴを1パック買う(多少すっぱいイチゴのほうがおいしい。私は
近所の八百屋で2パック、500円という超安売りを見逃さなかった。)
(2)ヘタをとり、一個一個を半分に割る。
(3)砂糖とからめておく(ここは他にも工夫できるところ。例えば蜂蜜でもいいし、
シロップでもよい。)

<完成まで>
(1)焼きあがったタルト生地にイチゴをならべる。
(2)先ほどのヨーグルトケーキ用ヨーグルトを流し込む。
(3)冷蔵庫で20分~30分冷やす。
→ゼラチンが固まったら完成!

お菓子は一に砂糖、二に砂糖だと思う。
私のような大酒のみは、お菓子作りにおける砂糖投入量の多さに最初はとまどう。
でもしっかり砂糖を使わないと、お菓子作りは難しい。
砂糖をしっかり使うことは保存の意味もあると思う。だっておせち料理だって
すごく砂糖をつかうもの。
「お砂糖控えめ」は本当においしいものが何かをしっかりつかんでから、と心得るべし。

そういえば、冷凍庫に先日かった蛸を入れっぱなしであることを思い出した。
今度たこ焼きのおいしい作り方を紹介します(たこ焼き器のない方はごめんなさい)。


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シーシェパード

2010-03-14 14:41:56 | 日記
シーシェパードの船長の身柄が送還されたニュースが先週
大きくとりあげられていた。

人を見かけで判断してはならないと思うが、つかまった奴
にしても、広報担当の男性にしても、なんか「ろくでもない」
顔をしているなー。(笑)

私は大学の時、一時教師になろうとして、自分の母校に
教育実習にいったのだが、そこに交換留学生がきていた。
オーストラリア人の女性だった。
日本語が大変上手でとっても大人びていたことが印象的だった。
もっとふかく日本人の高校生とコミュニケートしようとして
一生懸命だったのを思い出す。
とにかく、真面目ないい子であった。

その子が動物でいちばん好きなのは、「くじら」だといったのを
覚えている。
「どうして日本人はあんなかわいい動物を殺すのか」といった。

日本人が想像する以上にオーストラリアやニュージーランドの
人たちはくじらに対して愛着をもっている、と思った。
また、「食べること」と「殺すこと」は同義なんだ、とつくづく思った。

マグロの問題にしても、捕鯨の問題にしても、映画でとりあげられた
イルカの問題にしても、いわゆる、「文化と環境保護問題のせめぎ合い」
という言い方がされる。

私が小学生の頃、給食の時間によく、鯨肉がでた。
中にはかたいお肉があって、なかなか噛み切れずに、
給食の時間が終わって、食器をかたしてしまった後でも、
まだ口の中でもぐもぐやって、飲み込もうとして、喉につかえて
しまい、結局吐き出してしまったことがある。
そういうわけで、鯨肉に私はあまりいい思い出はない。

私が高校生の時に日本の捕鯨が禁止された。
友人の父親は捕鯨船の船員であった。当時、友人の家に遊びにいった時、
苦虫をすりつぶしたような怖い顔をして父親がでてきたので、
びっくりしたのを覚えている。

今、普段の食卓にも、どこかに飲み屋にいっても鯨肉にお目にかかる
ことはまずないし、自分としてはなければないで一向に差しつかえない。

しかしながら自分としては捕鯨問題はそれほど重大なことではないのだけど、
たとえば、調査捕鯨をしている人たち、鯨漁を生業としていた人達、
そして、学校給食を楽しみにしていた子供達、そして子供達のために
一生懸命、調理をしてくれた給食のおばさん、先生達は、
そうした文化を生きてきた代償として、心を痛めていないだろうか?

こうした人達はなぜ罪を背負わなければならないのか?

私自身が鯨を食することがないのは、実際に鯨やイルカが楽しそうに戯れているのを
この目で見ているからということもあるが、
そうした文化を生きてきた自分がせいぜいできること、だからである。

もちろん、シーシェパード側の論理は独善的であり、展開活動が出鱈目である。

ただし、それならば日本人は、マスコミは、たとえそういう馬鹿な奴らの土壌をつくった
オーストラリアやニュージーランドの人たちが心から愛しているものを理解しようとしているだろうか?
そして、自分たちが心から愛する日本の文化を理解してもらおうとしているだろうか?
お互いに今できることをやっているのか? 話し合っているのか?

一方的な要求をつきつける諸外国と自分達のことを何も主張できない日本という構図は
それから20年以上たっても何も変わっていない。

捕鯨禁止以降の人達、私より10歳も年がちがう人たちにしてみれば学校給食で
鯨がでてくることはなかったろう。以前の話だが、そういう人達と、

「最近めっきりイワシが取れなくなったことの原因のひとつに捕鯨禁止に
よって鯨が増え、それがイワシを食い尽くしているからだ、という
嘘か本当かわからないけど、そういう意見があるらしいよ。」

という話をしたことがある。

彼はいった。

「私はイワシも鯨もを食べないから、知らない」

と。(お前、本当に日本人か!、魚がきらいなだけだろう!)

鯨を食べるという経験のない彼らにとっては、日本文化の責任なんて、
知ったこっちゃない、ということか…。

これじゃ、シーシェパードの連中と同等でしょ!!

理解しようと努力することもなく、自分が生きてきた範囲の中で、
何が好きか、嫌いかで行動しているだけである。
それを正義に置き換えているだけである。

この、かばちたれ!!

経験も大切だけど、相手を思いやる想像力はもっと大切だと思う。
そしてその先にはじめて、自分の立場を主張するという行為があると思う。

猫と人間

2010-03-12 17:45:09 | 日記
昨日、猫があまえてきたので抱っこしていると、
腕に茶色いものがついている。

あんらー?、チョコレートがついたかな、
と思ってにおいをかいでみると、はたして猫のうんちであった…。

猫はかならずきまったところ(トイレ)にしか用便をしないのであるが、
こういう時はだいたい、おなかがゆるいか、その逆かである。
要するに「便のきれが悪いのである。」
たとえ、どこかにお漏らししてしまったとしても、

あ~ご、あ~ご

と、切なくなくのですぐにわかる。

ところが「切れの悪い」時は、本人(本猫か)の自覚がないばかりか、
床とかでお尻を拭おうとするから質が悪い。
その格好が体操選手の鞍馬の姿に似ているので、ちょっとかわいい。

もっとひどい時は、このように人間様に甘えるふりをして、
腕とかにうんちを擦り付ける。

まったく、たまったもんじゃない!

まあ、私のような猫バカは、人間のは絶対いやだけど、猫のうんち
処理など手馴れたものである。

かみさんに、

「なんか、ダリア(長女)のおなかの調子が悪いみたいだけど。」

というと、かみさんは一言、

「ちゃんと、なめなさい!」

といった。

私を怒ったのか、ダリアを怒ったのかよくわからない。

もし、私に対してだったら、すごい侮辱である…。

一方で猫は確かに、用を足したあとペロペロとお尻をなめて、
きれいきれいする。

しっかし、いくら猫の習性とはいえ、すごい話だ。

例えば、自分がちょっと切れの悪いうんちをしてしまったとして、
それに対して、
「ちゃんとケツを舐めろ」
とは誰もいわんでしょう?

やはり、人間と猫はちがうルールの中で生きている。
大切なのはお互いのルールを尊重し、認め合い、共存することである。

どこかのバカみたいに、鯨を尊重するあまり、人間のルールを無視して、
時に危険行為にまでおよび、あげくのはてに、高額のお金を要求して
くるような奴は哺乳類どころか動物以下の輩である。

鯨に太平洋の1,000メートルの深海までつれてってもらえいい。



ホットカーペットの上であったまるダリア


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