風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

江戸町奉行所のはなし その3 与力・同心たち

2018-09-03 18:24:49 | 時代劇





奉行所に務める与力・同心は、将軍家直属の家臣団である旗本や御家人であり、先祖代々の世襲でした。


その役宅は現在の東京都中央区の八丁堀にあったことから、奉行所の役人のことを通称「八丁堀」と呼んでいたことは、時代劇通の方ならご存知ですね。



必殺シリーズの中村主水(藤田まこと)が仲間内で「八丁堀!」と呼ばれていたことは有名です。また、村上弘明、片岡鶴太郎らが主演した『八丁堀の七人』とか、古谷一行、役所広司、いかりや長介などの主演による『八丁堀捕物ばなし』など、奉行所の役人といえば八丁堀、八丁堀と云えば奉行所の役人。ツーと云えばカーというくらい(古っ!)時代劇通の間では当たり前の話。



『江戸の旋風(かぜ)』などでは「八丁堀」とは呼ばれず、「お町の旦那」と粋な呼ばれ方をされておりましたが、着流しに羽織を付けたスタイルは確かに粋でカッコよく、江戸町民、特に女子たちには人気があったとか、なかったとか。




各奉行所に配置された人員は、与力が役25名、同心が役100名ほど。両奉行所を合わせても役250名から、多くても300名に満たないほどの人員で、これで人口50万人から最高100万人とも云われた江戸町民の、司法、行政から治安維持に至るまでを取り仕切っていたなんて、

ちょっと信じ難いですね。




奉行所内には15から17種類くらいの部署がありました。主なものを挙げると

【内与力】
町奉行直属の家臣。奉行の秘書役。

【年番方】
人事や出納など、奉行所全体の管理にあたる。現代で云うところの人事課や経理課、総務課などにあたるでしょうか。

【吟味方】
民事訴訟の審理、取り扱いおよび管理から、刑事事件の取り調べ、時には拷問までも担当。

【例繰方】
判例の記録と調査。

【養生所見廻】
幕府直轄の医療施設である小石川養生所の管理

【牢屋敷見廻】
伝馬町牢屋敷の管理、取り締まり。

【定橋掛】
幕府が普請した橋の維持、管理。

【町火消人足改】
町人による消防組織「町火消」の活動を指導、指揮する。

【人足寄場定掛】
人足寄場(犯罪人の社会復帰支援のための職業訓練校。鬼平さんが設置)の事務監督。


その他その他。まだまだたくさんの部署に分かれていました。

中でも「花形」と云われたのが、犯罪捜査と犯人の捕縛にあたる「三廻同心」でした。

三廻同心は同心のみで構成された部署で、その内わけは

【定廻(定町廻)同心】
現代でいうところの警察官。

【臨時廻同心】
定廻の補佐を担当。主に現役を引退したご老人方によって構成されていたようです。

【隠密廻同心】
奉行直属で、市井に紛れて犯罪人等の情報収集や偵察にあたる。時代劇『大江戸捜査網』の隠密同心とは似て非なるもの。




定廻同心の人員は3名から5、6名でした。これに臨時廻や隠密廻を合わせても15名前後。南北両奉行所を合わせても精々30名ほど。


たったこれだけの人数で、江戸の治安を本当に守り切ることなどできたのでしょうか?


普通に考えたら出来るわけがない。そこで同心たちは、目明し(岡っ引、下っ引)などを自費で雇い、捜査に当たらせていました。


目明しは元盗賊ややくざ者などであったり、などの被差別民であったようです。これらの人々は裏の社会にも通じており、情報を得やすい立場にあった。


しかしこうした人々を雇っていたにしても、やはり圧倒的に人手は足りない。こうしたことから、「江戸の町は治安が良かった」などと、日本人は素晴らしい的な解釈をして満足している人たちが存外に多いのには、少々驚きです。



そりゃ確かに、同時代の他国の都市に比べたら治安は良かったのかもしれない。

確かに日本人は素晴らしいでしょうよ。


でも、本当に「それだけ」なんでしょうかね?



いいえ、それだけじゃないんですよ、それだけじゃ。





というわけで、つづく。

江戸町奉行所のはなし その2 お奉行様のお仕事

2018-09-03 04:23:19 | 時代劇





【勘定奉行】【寺社奉行】【町奉行】は「三奉行」と呼ばれ、それぞれの管轄内における行政権と司法権を有しており、幕政にも参画しました。町奉行は旗本の役職としては最高位のもので、格としては大目付の方がうえでしたが、その大目付や目付などの役職を経験した者が最終的に就くのが町奉行でしたから、実質、旗本の役職としては最高位といっていい。


町奉行所とは現代で云うところの「東京都庁」や「警視庁」「裁判所」などの権能を併せ持っており、町奉行職は大変な激務であったと云います。午前中は朝の4時頃から江戸城に上がり、上司である老中との打ち合わせ等に費やし、午後は奉行所に出仕して、下から上がってくる書類に目を通したり、刑罰の裁断を下したりと、一日中びっしりと仕事が詰まっており、休む暇などないとはこのことです。

司法から行政、江戸御府内の治安維持に至るまでを一手に引き受けていたわけですから、そりゃあ忙しいはずですわ。


その激務故に、亡くなってしまった方もいるほどです。

よく時代劇などで、お奉行様自らが町に出て、市井の人々と触れ合いながら事件を解決していく、なんてことが描かれていますが、実際にはあんなことをしている暇などないくらいに忙しかった。『遠山の金さん』みたいな話は、時代劇特有のファンタジーだと思っていただければよろしいかと。




激務故に、町奉行職は平均3年から5年程度で交代されたようです。長い人でも10年、短い人だと一年ももたなかった。大岡越前守忠相のように20年に亘って勤め上げた人というのは、大変に珍しかった。






町奉行職がこのように数年で交代していくのに対し、奉行所に務めていた与力・同心たちは世襲であり、その結束力は強かったようです。町奉行職は老中の配下であり、与力・同心たちと直接的な主従関係はありません。むしろお奉行様の方が「よそ者」といっていい立場でしたから、季節ごとに反物を送ったり、出役の際には自腹で弁当を用意したりと、お奉行様の方が、部下たちに対してなにかと気を使っていました。


お奉行様って、大変な仕事だったんですねえ。そりゃ神経も磨り減るわ。




町奉行所は「北」と「南」に分かれており、それぞれに奉行が一人づついて、それぞれに務める与力・同心たちがいました。「月番制」ということを聞いたことのある方もおられるかと思います。北と南で一月ごとに交代したがら職務を遂行していたわけですが、これは非番の月には一切の仕事を休んでいたというわけではなく、民事の訴訟事などの受付を一か月交代で行っていたのであって、非番の月には未だ未処理だった訴訟事の処理にあたっていたんです。仕事をしていなかったわけではないんですね。それと刑事事件に関しては月番は関係なく取り扱っていたようです。




ところで、時代劇などでは「お白洲」においてお奉行様が直々に罪人を取り調べ、「打首、獄門!」などとその場で判決を申し渡す場面がよくありますね。しかし実際には、あんなことは殆どなかったらしい。


抑々お白洲というのは、時代劇に見られるような、屋外に設置されただだっ広い場所ではなかった。屋根のかかった場所、屋内などに設置され、もっと狭い場所だったようです。地面や土間のようなところに白砂利を敷き詰め、その上に筵を敷いて罪人を座らせ、上段にはお奉行様ではなく、「吟味方」という取り調べ専門の部署の与力・同心が尋問にあたった。

この吟味方は時に拷問も行ったようです。時代劇では罪人を捕縛した「定町廻同心」がそのまま拷問も行うシーンがよくありますが、実際には捕縛する者と詮議をする者は別だったんですね。


お奉行様はその吟味方から上がってきた報告書を基に、過去の判例などと照らし合わせながら量刑を決めていったわけです。

しかしこの量刑も、ある程度以上の重い刑罰に関しては、お奉行様だけで判決を下すことができませんでした。必ず老中に上申し、老中より裁可が下ろされて初めて判決を下すことができたのです。



重い量刑に関しては出来るだけ慎重に、出来るだけ偏りなく、御法に添って判決を下す。江戸時代は封建時代だから、都合でバンバン罪人をでっちあげて、ガンガン処刑してたんだろ?みたいなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、抑々そういうことが出来ないようなシステムになっていたわけです。



必殺シリーズなどによくあるような、悪徳同心が無実の罪をでっちあげて処刑してしまう、みたいなことは、実際にはできないようになっていたわけですね。




さて、お奉行様のお仕事はこのくらいで押さえて置いて、次は奉行所に務める与力・同心たちの仕事についてさらっと見て見ましょう。





というわけで、つづく。