ティズ トウキョウ・インセクト・ズー(プレイステーション)
2009年4月23日掲載、これもちょっとどうなんでしょう。
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夏休みのある日、不思議な少女に出会った主人公のリョウは突然カブトムシになってしまった。リョウは戸惑うが、カブトムシの仲間達とともに「お母さん」を探して森や砂漠など様々な場所を冒険することになった。だが、そこは閉鎖間近の「東京昆虫博物館」の中であり、環境の制御が失われて気温が低下していく。虫たちの運命はどうなるのか、なぜ主人公が虫になったのか・・・。
これが「ティズ トウキョウ・インセクト・ズー」のあらましである。なかなか興味深い展開であり、クリアしてしみじみとした気分を味わった。素晴らしい作品である。絵本が原作であるらしい。本作のことがとても気に入っているという人もいるだろう。
だが私は納得していない。なぜなら、本作のオビに「ゲームを、ゼロから変えてみた。Playing Movie Game」と書いてあるからだ。こうきたら、あとは私のいつもの主張である。
「作品」としては素晴らしくとも、これは断じて「ゲーム」ではない。ゼロ(原点)から変えてしまったものはもはやゲームではない。もしオビに「インタラクティブ・デジタル絵本。お子様の誕生日プレゼントに最適!」と書いてあれば私も納得できるのだが。
例えば「ラーメンをゼロから変えてみた」としよう。麺の代わりにご飯を、スープの代わりにカレーを入れてみたとしよう。果たしてこれをラーメンと言えるのか? こんなものは「ラーメンどんぶりに入ったカレーライス」であると誰もがわかるのに。
知恵(と操作技術)を使って勝利を目指し、その過程を楽しむのがゲームだ。かつてゲーマーはゲーム戦士だったものだ。ゲームとは何かを「描く」ためのものではないのだ。描かれたものを「観るだけ・読むだけ・眺めるだけ」のものはゲームではない。ゲームではなくなったものを「革新的なゲーム」みたいに表現してはならない。
面白ければなんだっていい、と言う人もいるだろう。全くそのとおりだ。面白ければゲームでなくともいいのだ。これはゲームである、とさえ言わなければいいのだ。売れるものを作るのは企業として当然で、消費者がそれを求めているのである。ただし、国内に限り。
日本のゲームが世界に通用しなくなってきていると言われている。ごく端的に言って、その原因を私は次のように考えている。かつての日本のゲームは緻密な設計のために世界に認められていた。だがゲーム機の性能向上に伴って、「緻密」であることと「繊細」であることが混同され、(ゲーム以外の)何かを繊細に「描く」ことにばかり向かってしまい、緻密さが失われたのである。繊細さとは日本人の特性なのだろうが、海外で必ずしも理解されるとは限らない。今後の日本のゲーム業界に必要なのは、何かを繊細に描くためのクリエータではなく、ゲームを緻密に設計する職人なのである。
本作はプレステ初期に発売された。やはりそうだ。当時の多くのクリエータは何かを描きたかったのだ。確かにその当時、このようなものを描こうとすれば、プレステなどのゲーム機で開発するのが簡単だし、しかも金になっただろう。だがその時点でラーメン屋がラーメンという名のカレーライスを作ってしまったのだ。変わっていないのはゲーム機という器だけ。そしてこれをなぜか新しいラーメンだと思い込んでしまった消費者も多かった。古くからの客が「最近のゲームはつまらない」というのもよくわかる。ラーメンを待っていたのにカレーライスが出てきては納得がいかないだろう。今となっては、ゲームを3あたりから変えてみたWiiとDSには期待したいところだ。
業界への文句ばかり書いてしまったが、デジタル絵本としては本作をオススメできる。さすがに今見ると技術的には未熟だし、中盤にはどこにいけばわからない時もあったが、斬新な部分もいくつかある。会話は字幕なしのフルボイスで、ホンジャマカの石塚氏や爆笑問題の太田・田中両氏のほか、前田愛氏(声優ではなく女優さんのほう)も出演しているので、そちらのファンの方もどうぞ。