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日野日出志「ぼくらの先生」「おーいナマズくん」

2013-11-24 22:13:41 | 日野日出志
 

 ひばりヒットコミックス「ぼくらの先生」および「幻色の孤島」は中身は全く同じ。今回はこれらに収録されている「ぼくらの先生」「おーいナマズくん」を紹介。その他に「かわいい少女」「つめたい汗」「猟人」「人魚」が収録されています。いずれの作品もドロドロのホラー描写は少なく、山村や江戸時代が舞台のややソフトなものが多くなっています。

 「ぼくらの先生」の主人公は大仏先生と呼ばれていて、生徒からの人気が非常に高く、とても慕われています。授業は面白く、休み時間は一緒に遊んでくれます。また、とても動物が好きなようで、先生の家にはたくさんの動物が飼われています。



 おっちょこちょいな一面もありますし、いたずらされても怒ることはありません。街の中の捨て犬を集めて家で飼ったりするような優しい先生であり、遠足のときなどは蛇に足を噛まれた女子生徒の傷から毒を吸い出すようなこともしています。責任感も強く、自分が病気のときは父親を学校によこして授業をさせます。とにかく生徒全員から大仏先生は好かれているのです。

 ところが大仏先生自身は自分が本当に教育者としての資格があるのかと悩んでいます。というのも、先生には恐ろしい秘密があったのです。先生が子供の頃、今と違って病弱でした。ある時、縁側に出てあくびをしていたら偶然に蝶が口の中に飛び込んできました。すると素晴らしい味が口の中に広がったというのです。それからというもの、蝶はもちろん芋虫やネズミ、小鳥まで獲っては食べ、周囲が驚くほど丈夫な体になったのでした。



 この作品は最後の2ページ以外は全て独白における回想シーンで、前半は生徒達の、後半は大仏先生の独白という構成になっています。このページの右下のコマは前の画像のコマと同じ場面であり、したがってほとんど同じ絵ですが、コピーは使わずに全て手描きのようです。よく見るといろいろ違っていますが。

 大仏先生が動物をたくさん飼っているのは食べるためであり、捨て犬を集めているのも食べるためです。こんなことではいけないと考えて動物を食べるのをやめたところ、一晩で老人のような体になってしまい、やむを得ず大仏先生の父親と称して教壇に立ったこともあります。このように大仏先生はもはや生きた動物を食べなければ生きていけない体になったのです。

 そして現在、遠足で蛇の毒を吸い出すと偽って口にした生徒の血の味が忘れられず、その時の女子生徒に声をかけて……、というところで話は終わります。もちろん、この期に及んで傷口から流れる血をなめると言うだけでは先生は満足しないだろうから、連れて行かれた女子生徒は生きたまま……、と想像してしまいますが、そういう描写はされずに読者へと投げられています。

 もう一編の「おーいナマズくん」はハートフルでコメディタッチの少年向け漫画。主人公の太郎はここのところ毎日水風呂に入っています。それには秘密があるのでした。



 なんと太郎の身体にはナマズが乗り移っていました。それには理由があったのです。太郎が住む村には学校があったのですが、生徒の減少によって廃校となり、町の学校に通学することになりました。ところが太郎の名字は鯰(なまず)といい、それをネタにいじめられていました。

 太郎の村には沼があり、そこには大ナマズが生息しているといわれ、村の人々に守り神として祀られていました。このために村には鯰という名字は珍しくないのだそうです。

 夏休みに入り、太郎は沼のほとりで愚痴っていると伝説の大ナマズが現れ、情けない太郎を鍛えてやろうと言います。こうして太郎に乗り移ったナマズは夏休みの間ずっと太郎を鍛え、自信を付けさせます。そして迎えた新学期。



 いじめっこ達を返り討ちにした太郎はこの日からリア充に転向。スポーツで大活躍し、いじめっこ達とも仲良くなり、女子生徒にモテモテ。そして役目を終えたナマズは沼に帰っていく、というお話。日野日出志作品にはこのようなものが何編かあります。

 上記二編では体格や健康に恵まれなかった少年のそれぞれの解決法が描かれています。しかしながら、「ぼくらの先生」では大仏先生が良き教師になりつつも最終的には教え子さえ食料として見てしまった一方、「おーいナマズくん」のナマズは鯰太郎に対して師であり対等な友人でもある、という大きな違いがあります。ナマズも人間も対等な共存関係であると同時に、蝶も芋虫もネズミも人間も等しく食料である、というのが日野日出志作品が持つ視点と言えましょう。


日野日出志作品紹介のインデックス

オルフ:カトゥーリ・カルミナ、アフロディテの勝利

2013-11-15 20:48:57 | CD


カール・オルフ:
・カトゥーリ・カルミナ
・アフロディテの勝利

指揮:フランツ・ウェルザー=メスト
バイエルン放送交響合唱団

EMIミュージック・ジャパン: TOCE8783



 オルフはドイツの作曲家ですが、いわゆるドイツロマン派ではありません。即物的な原始主義書法を駆使し、それでいて楽劇のような文学的なものを指向しています。以前に紹介したオルフの代表作『カルミナ・ブラーナ』は「トリオンフィ(勝利)3部作の第1作で、残る2作がこのディスクに収録されている『カトゥーリ・カルミナ』と『アフロディテの勝利』です。

 『カトゥーリ・カルミナ』とは「カトゥルスの歌」という意味で、このガイウス・ヴァレリウス・カトゥルスは古代ローマの詩人だそうです。メインの合唱にピアノと打楽器という楽器編成で、ストラヴィンスキーの『結婚』そのまんまであり、非常に大ききな影響を受けたことが伺えます。

 舞台は古代ローマの劇場のイメージ。とある若いカップルがイチャついているところ、それを見ていた老人たちが嘆かわしいと文句を言ってきて、この年寄りの話を聞きなさいと余計なお世話をかましてきます。そこまで言うならば、と若いカップルは話を聞くことにしました。老人たちはカトゥルスの詩を演劇にし、それによって愛は永遠ではないこと、愛と憎しみは裏表であることなどを伝えようとします。ところが禁断の愛にコーフンしたのか、若いカップルは再びイチャつき始めて老人達はズッこけるというオチ。

 イチャつきシーンではピアノと打楽器の伴奏が付き、劇中劇では伴奏のないアカペラになります。テンポは速く、複雑なハーモニーも使っており、無伴奏で歌うのはかなり大変そう。歌詞はラテン語で書かれていて、イチャつきシーンでは「...mammae, molliculae dulciter turgidae, gemine poma」だとか「O tua mentula, mentula, mentula...」だとか歌われます。このGoogle先生の翻訳はイマイチの精度ですが。

 イチャつきシーンの下品でやかましい響きと劇中劇での硬い響きの対比が面白く、『カトゥーリ・カルミナ』は3部作の中でも一番とんがった作品かも知れません。

 『アフロディテの勝利』の方の雰囲気は古代ギリシャ。アフロディテはギリシャ神話における愛の女神。合唱に加えてオーケストラにピアノ3台、ギター3本、打楽器群という異常な編成ですが、今度は内容が結婚式の様子ということでこれまたストラヴィンスキーの『結婚』そっくり。新郎新婦が顔を合わせて婚礼の儀式が執り行われ、寝室に入っていくという流れも一緒。結婚式の儀式的な様子を表すために、執拗に単純なリズムを繰り返すという得意の技法をひたすら使っているので、音楽はところどころで異様な盛り上がりを見せています。



 この動画は曲の中盤となる「花嫁と花婿」、および9:08より「婚礼の呼びかけー婚礼讃歌」。後者は私が一番好きな部分で、特に13:10あたりからの怪しげな低音に乗って繰り返される部分がイカシてます。

 曲の最後は「アフロディテの顕現」となっており、寝室で一体となった新郎新婦のもとに愛の女神アフロディテが現れた(かのようだ)、というシーンだと思われます。なんとなく『スターウォーズ』のような部分もあります。アフロディテを讃える歌の最後にある渾身の溜めの後、一瞬の静寂の中にアフロディテの姿が浮かび上がるようです。

 とにかく三部作いずれも主題の展開とか変奏とかの伝統的な音楽語法を考慮せずに作られたような、身体にガスガスと突き刺さるカンタータです。『結婚』に似てると何度も書きましたが、実のところストラヴィンスキーの音楽は「結婚」という人類の普遍的な営みに対して徹底的に抽象性を追求しているのに対し、オルフの音楽は中世ドイツ(カルミナ・ブラーナ)、古代ローマ、古代ギリシャなどの具体的な時代を想定しているという違いがあります。その後のストラヴィンスキーの音楽はより抽象化された精神の遊びを指向するのですが、オルフの音楽は常に肉体的イメージを持ち続けたというのが両者の最大の違いかもしれません。


クラシックCD紹介のインデックス

超兄貴~究極無敵銀河最強男~

2013-11-10 20:52:43 | ゲーム
 1992年にPCエンジンで発売された『超兄貴』はホモっぽいギャグテイストをまとったシューティングゲームで、当時は結構な話題になりました(私は未プレイ)。その続編の一つとして発売されたプレイステーションの『超兄貴~究極無敵銀河最強男~』では画像が実写取り込みになり、ホモっぽいどころか体臭までにおってきそうなキツい作品となりました。

 画面はとにかく半裸でムキムキの男達であふれていて、解説書にも「スウィートな一夜をあなたに」とか「勿論、愛があれば2人同時プレイも可能です」とか書いてあり、なかなかにしんどいものがあります。

 ゲームの基本は普通の横スクロールシューティングで、自機(韋駄天または弁天)の上下に無敵のオプションが付き、地形のないシンプルなものです。敵が適当に列をなして現れたりするといった一見イイカゲンに見える作りもありますが、そういった点も含めてPCエンジンにはそのようなシューティングが結構あった気がします。

 自機やオプションがプロテインを取ることでそれぞれのショットパワーがあがります。オプションはパワーの上がりが早いけれど上限が低く、自機は逆に上がりが遅く上限が高いので、まずはオプションにプロテインを十分に注入すると序盤は楽でしょう。パワーが上がると特殊攻撃が使え、その種類も増えていきます。難所で使うのがいいですが、私はクリアまでに二回しか使いません。全12面(敵ボス操作ステージ除く)で、クリアまでの難易度は高くないのですが、動きにクセがある敵が何種類かいるため難所ではそれぞれ1~2回ずつ死ぬことになるでしょう。また、コンティニューすると自機のパワーが初期状態まで戻るので、ノーコンティニュープレイが基本。

 オプションは攻撃の他に敵や敵弾を防ぐシールドとして使うこともできますが、オプションがダメージを受けるたびにショットパワーが低下して、最後には拗ねてしまい、あまつさえステージボス戦では敵側についてしまいます(攻撃はしてこない)。オプションへのダメージの量でエンディングが変わるようです(韋駄天と弁天でエンディングは異なり、それぞれ何種類あるのかは未確認)。

 ちょっと残念なのはハイスコアの記録ができないことですが、ゲームオーバーになった時点でスコアの確認ができなくなるので、スコアそのものが無意味な存在になっています。まあスコアを追求するゲームでもなく、さくっと楽しめてクリアできるのがいいところですけど。一方、サターンへの移植版はタイトルがちょっと変わり、かなり難しくなっているらしいです。

 音楽もグラフィック同様に狂った作りですが、手間がかかっていてクォリティの高いものになっています。宇宙戦艦YAROUステージは男の声で「お兄さま…」とかいうポエムが朗読されたり、最終ボスでは「本当のことを教えてちょんまげー」とか叫んだり、スタッフロールでは「鈍器でメッタ打ち」とか穏やかでないセリフの断片があったり、とことんふざけています。私としてはハニワボスの曲がケチャに念仏を足したようで好きですが。

 制作した日本コンピュータシステム(ブランド名はメサイヤ)はもともとビジネスソフトを作っていて、8ビットPC時代末期にゲーム作りに参入して『エルスリード』など割と渋めのゲームを作っていたのに、この『超兄貴』シリーズでハジケすぎてバカゲーメーカーとしての認知度が上がってしまいましたが、今はどうしているのでしょうか。スーファミ版の『ヴァルケン』もいいゲームでしたが…。



 この動画は前半までの名所などを編集したもののようです。一時期流行った『超クソゲー』の本によると、冒頭からキスマークまでのムービーは下請け会社のスタッフが遊びで作ったもので、それをたまたま目にしたメサイヤ担当者が気にいったために採用されたとのこと。また、弁天役の「桐生まどか」なる人物は、電車の中でたまたま見かけた一般女性だそうで。

マーラー:交響曲第1番「巨人」

2013-11-03 21:54:14 | CD


グスタフ・マーラー:
・交響曲第1番 ニ短調「巨人」

指揮:レナード・バーンスタイン
ニューヨーク・フィルハーモニック

CBS/SONY: 30DC 767



 楽天の日本シリーズでの勝利おめでとうございます。巨人に対する勝利にちなんで、マーラーの交響曲第1番「巨人」の紹介。こちらの「巨人」はジャイアンツではなくてタイタンの方ですが。

 いきなりで申し訳ありませんが、私はマーラーの音楽をほとんど聴きません。その理由は、長そうだし面倒くさそうだし、という先入観がもたらす純然たる食わず嫌いです。私が唯一持っているマーラーのCDがこの「巨人」ですが、あまりマーラーっぽくないと言われているようです。それだけにマーラー入門には良いらしいのですが、私は今のところ入門する気はないので「巨人」でお腹いっぱいです。

 なんでもこの曲はもともと交響詩として作られて、その時に「巨人」と名付けられたそうです。この「巨人」というのはドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルの「巨人」という小説を読んで感激し、それに由来しているとのことです。この小説は天才・巨人というものを否定したものです。交響詩の時のプログラムとして、現在の第1~2楽章は第1部「青春の日々」、第3~4楽章は第2部「人間喜劇」とされており、さらに第1部には「花の章」という楽章がありましたが、改訂をした最終稿ではタイトルの「巨人」を含む全ての標題と「花の章」を取っ払って特定の意味を持たない純粋な交響曲としました。しかしながら現在でも「巨人」という標題を残したまま演奏されるみたいですね。

 第1楽章は夜明け前のウィーンの森を青年が散策しているイメージ。カッコウのさえずりや狩りのラッパを聞きながらのんびりブラブラしていると、朝日が登り燦然と輝き、う~ん毎日が楽しいわい、という音楽です。第2楽章は3拍子のオーストリアの農民の舞曲で、私が好きな楽章です。このディスクの演奏では3拍子の2拍目を長めにとって、より田舎っぽさを強調しています。まだまだ気ままに暮らしている様子。第3楽章では雰囲気が変わって森の動物たちの葬送行進曲。フランスの童謡「フレール・ジャック」という曲を短調にしたものだそうです(日本では「あーかい、きものの、サンタクロース、サンタクロース」などの歌詞で歌われています)。

 ここまではいいんですよ。第3楽章まではいずれも牧歌的でお茶目で、ひねくれた私も純粋に楽しく聴くことができます。ところが第4楽章は私にはもう堪らんのです。シンバルの一撃で始まり、金管楽器ががなり立てて、「自分は今まで一体何をやっていたんだ!!」と絶叫します(セリフはイメージです)。「何ということだ! こんなことではいけない! 何かを成し遂げなければならない! そうだ! あの時の森で見た朝日を思い出せ!! キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!! ビッグになるぜよーーーーーー!!」とかそんな感じ(セリフはイメージです)。聴いていて実に恥ずかしいのです(好きな人ゴメンナサイ)。

 そんなんだからこそわかりやすくて入門者向きなのでしょうけど、私には胸やけ気味。「巨人」だけでマーラーを語るな、とマーラー好きは言うかもしれません。それはわかっていますし、ひょっとしたら「巨人」以降の作品の方が私向けなのかも知れませんが、まあいずれ気が向いたら入門してみることにします。



 こちらの第2楽章の動画は同じくバーンスタイン指揮ですが、より本場っぽいウィーンフィルの演奏。ディスク同様に田舎っぽく演奏しています。


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