東京国際映画祭コンペティション部門にて、ロマン・グーピルの最新作『来るべき日々』。この新作を見て思うのは、おそろしく率直かつ素直な作品であるということだ。自分には映画作家として才能がないという厳然たる事実に正面から向き合い、あまつさえ作品の主題にまでしてしまうという厚かましさを見せている。「L’ARGENT(お金)」「LE MONDE(世界)」「LA RESIDANCE(住居)」といったタームが、ゴダールばりに大書される黒画面がインサートされたりして、失笑まじりの微笑みを呼び込むが、本人はいたって大まじめなので、いくら何十年ぶりかに見たヴァレリア・ブリュニ=テデスキの女っぷりが予想外に上がっていたとしても、リラックスしてばかりではいられないのである。
ロマン・グーピルみずから主人公の売れない映画監督を演じ、低所得の芸術家用の共同アパルトマンの自治会運営やら、担当プロデューサー(女性映画作家のノエミ・ルヴォフスキが演じている)に話して聞かせる大して面白くなさそうな映画企画のプランやら、トリヴィアルなエピソードが幾重にも重ねられていき、そこに1990年代の記録映像フッテージが挿入される。グーピル自身が取材でおもむいたボスニア紛争当時の映像である。スナイパーたちによって射撃を受けた痕が蜂の巣ごとく穴だらけになったアパートに住むサラエボ女性と、映画作家の恋。戦下の恋はその後どうやら実ったらしく、現在はこのサラエボ女性との間に2人の子どもがいて、一家はみな、パリ市内の芸術家用共同アパルトマンに居住している。
アパルトマンの中庭には、しょっちゅうグランドピアノが落下してくる。おそらく最近死んだ音楽家の部屋を整理事業者が清掃しながら、ピアノを廃品としてベランダから落としているのだろう。音楽家たちが生きている間は、彼ら彼女らの表現の源であり、相棒であり、苦悩の源泉でもあったピアノも、音楽家が死んでしまえば(そして彼らの業績がオマージュの対象たりえないと判断されてしまえば)、ベランダから無造作に突き落とす粗大ゴミでしかない。グーピルは、この落下してやまぬピアノたちのすさまじい衝撃音の連続に、自己そのものを重ね合わせていることと思う。
ラストは、主人公自身(=ロマン・グーピル自身)の葬列シーンを撮影している。なんとナルシスティックなラストだろう。葬儀に参列したエキストラの表情が緊張感を欠いているとメガホンで激高するロマン・グーピル。これに対し、撮影の段取りのまずさに抗議し、やる気をなくしていくエキストラたち。その中には、マチュー・アマルリックやアルノー・デプレシャンの顔も見える。その時、この作品を見る観客は、「このロマン・グーピルという人は、夢が成就したかどうかは別として、ヌーヴェル・ヴァーグの潮流のど真ん中に居場所を確保した人なのだな」ということを理解しただろう。TIFFの舞台挨拶では、去年逝った梅本洋一に対するオマージュを述べたそうである。目がちゃんと行き届く人なのだと思う。ラストの葬列シーンで妻のサラエボ女性を注目して見てみると、彼女だけは全テイクで悲しみを真剣に湛える表情で歩いている。この人は本当に夫にいい映画を作ってほしいのだろうなと、彼女の思いをちゃんと受け止めることができた。
ロマン・グーピルみずから主人公の売れない映画監督を演じ、低所得の芸術家用の共同アパルトマンの自治会運営やら、担当プロデューサー(女性映画作家のノエミ・ルヴォフスキが演じている)に話して聞かせる大して面白くなさそうな映画企画のプランやら、トリヴィアルなエピソードが幾重にも重ねられていき、そこに1990年代の記録映像フッテージが挿入される。グーピル自身が取材でおもむいたボスニア紛争当時の映像である。スナイパーたちによって射撃を受けた痕が蜂の巣ごとく穴だらけになったアパートに住むサラエボ女性と、映画作家の恋。戦下の恋はその後どうやら実ったらしく、現在はこのサラエボ女性との間に2人の子どもがいて、一家はみな、パリ市内の芸術家用共同アパルトマンに居住している。
アパルトマンの中庭には、しょっちゅうグランドピアノが落下してくる。おそらく最近死んだ音楽家の部屋を整理事業者が清掃しながら、ピアノを廃品としてベランダから落としているのだろう。音楽家たちが生きている間は、彼ら彼女らの表現の源であり、相棒であり、苦悩の源泉でもあったピアノも、音楽家が死んでしまえば(そして彼らの業績がオマージュの対象たりえないと判断されてしまえば)、ベランダから無造作に突き落とす粗大ゴミでしかない。グーピルは、この落下してやまぬピアノたちのすさまじい衝撃音の連続に、自己そのものを重ね合わせていることと思う。
ラストは、主人公自身(=ロマン・グーピル自身)の葬列シーンを撮影している。なんとナルシスティックなラストだろう。葬儀に参列したエキストラの表情が緊張感を欠いているとメガホンで激高するロマン・グーピル。これに対し、撮影の段取りのまずさに抗議し、やる気をなくしていくエキストラたち。その中には、マチュー・アマルリックやアルノー・デプレシャンの顔も見える。その時、この作品を見る観客は、「このロマン・グーピルという人は、夢が成就したかどうかは別として、ヌーヴェル・ヴァーグの潮流のど真ん中に居場所を確保した人なのだな」ということを理解しただろう。TIFFの舞台挨拶では、去年逝った梅本洋一に対するオマージュを述べたそうである。目がちゃんと行き届く人なのだと思う。ラストの葬列シーンで妻のサラエボ女性を注目して見てみると、彼女だけは全テイクで悲しみを真剣に湛える表情で歩いている。この人は本当に夫にいい映画を作ってほしいのだろうなと、彼女の思いをちゃんと受け止めることができた。