ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)のエッセー集『Einbahnstraße(一方通行路)』が、『パッサージュ論』全5巻の訳者である細見和之の新訳によって、『この道、一方通行』という新らたな邦題のもとに刊行された(みすず書房 刊)。細見は、道路標識の感覚を復活させたかったのだという。原題の「アインバーンシュトラーセ(一車線道路)」とは、第一次大戦後のインフレで破綻したドイツ経済のもとにあって、来るべき悲劇の予感を抱きつつも、それでも一本道を行くしかない著者自身の宿命を指し、と同時にこの本が文字どおり一方通行の旅程──つまり片思いの恋に向かって、母国ドイツからモスクワ、やがてラトヴィアの首都リガまでの旅程──を進む、愛のストリート・オブ・ノー・リターンを進むみちすじであることも示しているだろう。
1923年から26年にかけて書かれた本書の巻頭には、「この通りは アーシャ・ラツィス通りと呼ばれる 著者のなかにこの道を 技師として 切り拓いたそのひとの名前から」という献辞が捧げられている。このアーシャ・ラツィスこそ、本書の校正刷りを抱えたベンヤミンがヨーロッパの北東の果て、ラトヴィアまで会いに行ったプロレタリア演劇の女優・演出家である。
「このごろは、自分に最初から「できる」ことにこだわることなど、誰にも許されていない。力は即興にこそ宿っている。決定的な打撃はすべて、左手でなされるだろう。(中略)長い道の最初のところにひとつの門があった。その道をくだってゆくと、私が毎晩訪れていた女性**の家に行き着く。」
本書は断章形式でふらりふらりと、しかし決然と進んでいく。断章とはなんとエロティックな形式だろう。書き手の欲望、潜在意識、息遣いがこれほど感知されうる形式は他にあるまい。それはロラン・バルトの本からも明らかである。本書は、のちの時代のロラン・バルトの登場を予告しているように思う。評論や思想にとどまらず、幻想、夢の記述、幼年期の記憶、からくり人形や消印つき切手へのフェティシズムなど、虚実が一車線の狭い通路の中で乱反射しながら、書き手を物心両面で異邦人化させていく。
ベンヤミンは映画についてもふれている。その認識はあまりにも現代的で、サイレント映画時代に書かれた文章とはとても思えないものである。「事物はあまりにも火急の形で人間の社会に迫っている」がゆえに「批評の衰退を嘆くのは愚かな者たち」であり、「批評の時代などもうとっくに終わっている」と断りつつ、次のように指摘する。
「映画は、批評的に観察する者に、家の家具やファサードを全体像として提示しない。それはもっぱら頑なで、不意打ちの仕方で間近に現れて私たちを刺激する。(中略)建物の壁には「クロロドント」や「スライプニル」の絵が巨人族にとって手ごろなサイズで描かれていて、そういう巨大な絵を前にして、ようやく回復した感情が、アメリカ的に解放される──ちょうど、もう何からも感動も感銘も受けなくなったひとびとが、映画館でもう一度泣くことを覚えるように。」
アーシャ・ラツィス女史への愛は、短期間の同棲をへて、ついに失恋で終わった。しかし彼女の紹介でベンヤミンは、劇作家・詩人のブレヒトと知り合う。そして彼は非業の死をとげる直前まで、ブレヒトの活動を擁護していくことになる。
1923年から26年にかけて書かれた本書の巻頭には、「この通りは アーシャ・ラツィス通りと呼ばれる 著者のなかにこの道を 技師として 切り拓いたそのひとの名前から」という献辞が捧げられている。このアーシャ・ラツィスこそ、本書の校正刷りを抱えたベンヤミンがヨーロッパの北東の果て、ラトヴィアまで会いに行ったプロレタリア演劇の女優・演出家である。
「このごろは、自分に最初から「できる」ことにこだわることなど、誰にも許されていない。力は即興にこそ宿っている。決定的な打撃はすべて、左手でなされるだろう。(中略)長い道の最初のところにひとつの門があった。その道をくだってゆくと、私が毎晩訪れていた女性**の家に行き着く。」
本書は断章形式でふらりふらりと、しかし決然と進んでいく。断章とはなんとエロティックな形式だろう。書き手の欲望、潜在意識、息遣いがこれほど感知されうる形式は他にあるまい。それはロラン・バルトの本からも明らかである。本書は、のちの時代のロラン・バルトの登場を予告しているように思う。評論や思想にとどまらず、幻想、夢の記述、幼年期の記憶、からくり人形や消印つき切手へのフェティシズムなど、虚実が一車線の狭い通路の中で乱反射しながら、書き手を物心両面で異邦人化させていく。
ベンヤミンは映画についてもふれている。その認識はあまりにも現代的で、サイレント映画時代に書かれた文章とはとても思えないものである。「事物はあまりにも火急の形で人間の社会に迫っている」がゆえに「批評の衰退を嘆くのは愚かな者たち」であり、「批評の時代などもうとっくに終わっている」と断りつつ、次のように指摘する。
「映画は、批評的に観察する者に、家の家具やファサードを全体像として提示しない。それはもっぱら頑なで、不意打ちの仕方で間近に現れて私たちを刺激する。(中略)建物の壁には「クロロドント」や「スライプニル」の絵が巨人族にとって手ごろなサイズで描かれていて、そういう巨大な絵を前にして、ようやく回復した感情が、アメリカ的に解放される──ちょうど、もう何からも感動も感銘も受けなくなったひとびとが、映画館でもう一度泣くことを覚えるように。」
アーシャ・ラツィス女史への愛は、短期間の同棲をへて、ついに失恋で終わった。しかし彼女の紹介でベンヤミンは、劇作家・詩人のブレヒトと知り合う。そして彼は非業の死をとげる直前まで、ブレヒトの活動を擁護していくことになる。