荻野洋一 映画等覚書ブログ

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福田恆存 作『龍を撫でた男』(演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

2012-02-18 07:12:20 | 演劇
 ケラリーノ・サンドロヴィッチがナイロン100℃の外で広岡由里子らと組んだ別ユニット、オリガト・プラスティコの新作は、福田恆存 作『龍を撫でた男』の初演からちょうど60年後の再演である。本多劇場(東京・下北沢)。
 先行する作家の換骨奪胎に余念がないケラだが、こんどは福田恆存だと聞かされても、意外の感を抱く人はまったくいないであろう。近年も岸田國士の一幕劇やサマセット・モームのディヴォース・コメディに再評価の光を当て、あるいは川島雄三の映画『しとやかな獣』を舞台化し、オリジナルの戯曲をやるにしても森本薫『華々しき一族』の世界そのもののようなブルジョワ家庭の閉塞をシュールな室内劇に仕上げてみせたり(『黴菌』『世田谷カフカ』)している。

 そこで浮上する問題が、とりあえず2つ。
 1つめは、なぜいまさら上記に挙げたような埃をかぶった新劇的系譜の再露出を図るのかという問題だ。以前にも書いたが、ケラによる系譜の復刻作業はスラップスティックな盗用、接着、野合である。「何をイタダイテも、すべて結局ケラ的なものに変質してしまうのだから、それでいいではないか」という、取るに足らぬ結論しか引き出せないのが忍びない。オリジナル作品『黴菌』から遡行して、原曲みたいな地点に漂着したのだろうか。
 ちなみに今回の『龍を撫でた男』は『福田恆存全集 第八巻』(文藝春秋)の記録によれば、福田が1952年の春に発表した戯曲で、分裂前の文学座が同年11月、三越劇場(東京・日本橋室町)で初演した。演出は長岡輝子だった。長岡輝子はもちろん『山の音』で山村聰の愚痴っぽい妻役を演じたり、映画ファンにはざっかけない老婆役でおなじみの人(拙ブログに追悼文あり)。福田の戯曲は、現代人の私の目から見れば、インテリ家庭の空虚をあげつらった自己批判的、心理主義的な諷刺喜劇で、たくみなセリフには満ちてはいるものの、ケラがやらなければ誰が採り上げるのだろうというのが率直な印象だ。だからこそタイムスリップして、長岡輝子の演出を見てみたいところではある。

 もう1つの問題は演出家の妻であり、また専属女優の観を呈しつつある緒川たまきである。この人はサイレント映画の女優のような現実離れしたルックスも相まって、近過去の時代物にうってつけのプロパーとなっている。晩年の市川崑がWOWOWのドラマWで、なんと小津の『晩春』を無謀にもリメイクしたことがあるのだが(そしてそれは、えらくちぐはぐな怪作として記憶すべきものとなった)、このリメイクの中で緒川は、父親思いのヒロイン(鈴木京香 小津版では原節子)のハイカラな友だち役、つまり月丘夢路の役を演じた。ケラ作品においても『しとやかな獣』『黒い十人の女』などの翻案物で、おそらくその翻案のコンセプトワークそのものを体現していると言って過言ではない。
 今回は、主人公の精神科医(山崎一 初演では芥川比呂志)をひそかに慕う新劇女優の役で、これは初演の三越劇場では杉村春子が演った役である。おのずとケラ演劇における緒川たまきのポジションが判定できるのではないだろうか。

追悼淡島千景 私的ベストテン

2012-02-17 04:07:39 | 映画
 2012年2月16日の朝に膵臓がんのため87歳で亡くなった女優、淡島千景。月並みなリストアップではありますが、A Young Guide to Okei-chanとして、わが私的なベストテンを掲載したいと思います。

1 夫婦善哉(豊田四郎)
2 珍品堂主人(豊田四郎)
3 にごりえ(今井正)
4 喜劇 とんかつ一代(川島雄三)
5 大番 4部作(千葉泰樹)
6 麦秋(小津安二郎)
7 気違い(渋谷実)
8 早春(小津安二郎)
9 カルメン純情す(木下惠介)
10 母のおもかげ(清水宏)

次点 てんやわんや(渋谷実) やつさもつさ(渋谷実) 鰯雲(成瀬巳喜男) 善魔(木下惠介) 日本橋(市川崑) お茶漬の味(小津安二郎) 真実一路(川島雄三) 新・夫婦善哉(豊田四郎)


 いやぁ、すばらしい名作に、すばらしい名演ばかりですね。
 彼女の代表的な出演作に東京映画の『駅前』シリーズがありますが、それらのうちどれかを選ぶというより、4位の『とんかつ一代』がそれらをがぶりと包括しているのだと推察していただけると助かります。それでも数多いうちであえて選ぶなら、『駅前団地』(久松静児)における凛々しい女医役となるでしょうか。全体的には、渋谷実作品の地位がもっと高くあるべきかもしれませんし、上の10本はシリアスなものに偏ってしまったかもしれません。淡島千景は個人的な印象では、「日本のキャサリン・ヘップバーン」という感じがします。絶世の美女というのとは少し違うが、粋で洒落ていてモダンで元気である。ふくらはぎが太い点も似ているかもしれません(失敬平伏)。
 ちなみに、マキノ『武蔵と小次郎』『江戸っ子肌』、内田吐夢『酒と女と槍』、五所平之助『螢火』は未見。

 テレビドラマで1つ挙げておきたいのが、松本清張原作のNHK『氷雨』(1958)。陰謀により夫を失ってから、どんどん復讐の鬼へと変貌していく未亡人を彼女が妖艶に演じ、その後の清張ドラマの基調をなしたと言って過言ではないでしょう。私は再放送で見ましたが、さいわいなことにDVD化もされています。
 川島雄三『とんかつ一代』のラストシーンにおける主題歌、「♬たくましくとんかつを喰い 二人で腕を組んで 大きな鼻の穴でいっぱい空気を吸おうよ 吸おうよ はァァ、とんかつの油のにじむ接吻をしようよ 接吻をしようよ!」 と、淡島千景も森繁久彌もあでやかなる芸者衆も、上野・池之端の「とんQ」(モデルは「井泉」)のカウンターに集まって、みなで唱和するところはもう、うれし涙を流さずに画面を見続けるなどという芸当はまったく不可能でしょう。

御殿山がけ下日記(2) ジャン=ミシェル・オトニエル《マイ ウェイ》 @原美術館

2012-02-14 18:35:18 | 御殿山がけ下日記
 フランス・サンテティエンヌ出身の美術作家ジャン=ミシェル・オトニエルの日本における最初の個展《マイ ウェイ》が、原美術館(東京・北品川)で開催されている。硫黄、蜜蝋を主材料とする初期作品から、イタリア・ヴェネツィアで産出され、素晴らしい発色を誇るムラーノガラスを素材とした近年の大型作品までがいろいろと見られ、かつ写真撮影も許可されていることから、カメラを持った男女で賑わいを見せている。
 周知のとおり、第一京浜から旧・岩崎男爵別邸(三菱開東閣)を通り過ぎた、御殿山の高級住宅街のど真ん中に建つ原美術館は、1938年完成の旧・原男爵邸を改造したモダニズム建築であり、かつては現実の家屋でもあった。この生活空間が現在の使い手の意図どおりに歪曲し、ひたすら美にのみ奉仕する空間となっていることから、美術であると同時に肥大化したジュエリーのお化けでもあるという両義性をもつオトニエル作品と、あやしくシンクロしている。オトニエル自身も、若手時代から同館を知っており、「このエレガントな空間でいつか個展を開くのが夢だった」と述べている。
 ここに展示されたムラーノガラスや鏡面ガラスの作品群は、透き通って清純で、曇りがなく滑らかでありながら、引き千切られ、無残に取り出された臓物でもある。オトニエルはこれを「可変性」と言っている。『私のベッド(Mon lit)』は彼の代表的な作品。男と女が寝台でセックスをし、そこから新たな生が形成され、やがてその生は寝台の上で円環を閉じる。生と死の裏返し(エロス/タナトス)を「可変性」に富んだガラスに託したものである。


原美術館(東京・北品川)にて3月11日(日)まで開催
http://www.haramuseum.or.jp/

『鳥の歌』 アルベルト・セラ

2012-02-11 07:18:56 | 映画
 いま話題沸騰の若き映画作家アルベルト・セラの『鳥の歌』(2009)。モノクローム撮影でいうと最近ではコッポラの『テトロ』が鮮烈であったが、『鳥の歌』はよりアルカイックな、いわば古文書を剥がして眺めていくような白と黒と鼠色だけで地球の表面が成り立っている世界である。「レ・ザンロキュプティーブル」誌のライター、ジャッキー・ゴルトベルクは「禁欲的かつ道化的、モンティ・パイソンとストローブの間」と評言しているが、一方で主題寄りの見方をするならば、ロッセリーニ『フランチェスコ、神の道化師』とエルマンノ・オルミ『どんどん歩いていくうちに』の中間であるとも言えるのではないか。

 東方の三賢人が砂漠や氷原、森林や岩山、湖水など、さまざまな土地を経巡りながら、最終的にはキリストの誕生を祝いに行き、マリアが赤子のイエスを抱く馬小屋の軒先で三人が平伏するいきさつを描く。これはロードムービー以前の旅のスケッチであり、その理由はそこには単に道ができていないからで、地球は依然として無垢で、文明によるアレンジを施されてはおらず、未知の惑星としての凶暴な表面をさらけ出している。あたかもSF映画に登場するどこかの無人の惑星のようである。
 リアリズムというよりこれはイノセンスと言った方がよく、このイノセンスはまだじゅうぶんに観客の心を鷲づかみするには至っていないかもしれない。カプリッチ・フィルムズのティエリー・ルナスが上映前の弁論でセラの作風を評して「彼はショットの作家ではなく、シークエンスの人である」と述べていたが、私は逆の感想をもった。いまどきこれほどショットの人はいないように思うし、それはいくぶんかアナクロニズムでもある。決めのショットが単体の持続の中で自足している。その都度、三人の旅路がリセットする。
 誕生したばかりの赤子に三賢人が平伏するシーンで、稀代のチェリスト、パウ・カザルスによる『鳥の歌』が作品中唯一の劇伴として流れるのは、カタルーニャの映画作家セラの面目躍如といったところだ(「パブロ・カサルス」という表記はスペイン語で、カタルーニャ語では「パウ・カザルス」。母音に挟まれたsが[z]音で濁るのはフランス語やポルトガル語などと同じルール)。思えば、紀元零年の時点でベツレヘムに赴く東方の人間がカタルーニャ語をしゃべるわけはなく(東方の三賢人は一説によるとイラン人だったと言われている)、ヘブライ語とカタルーニャ語がなんの断りもなく同居しているのは、きわめて荒唐無稽な状態である。こういうふざけた真似をするから、バチカンから公認を得られなかったのであろう。

P.S.
 『鳥の歌』という曲は、FCバルセロナがホームのカム・ノウで誰かの死去に際し、1分間の黙祷を捧げる時にいつも使用されている。それと、斎藤敦子の指摘によれば、カイエ・デュ・シネマ派がフランス都市部を除けば世界で最も多く残存しているのが日本ではなく、カタルーニャ自治州だということだ。


東京日仏学院(東京・市谷船河原町)の特集《カプリッチ・フィルムズ ベスト・セレクション》内で上映
http://www.institut.jp/

もうひとつの「サウダーヂ」

2012-02-10 01:00:13 | 映画
 矢口史靖と山崎貴のそれぞれの新作『ロボジー』『ALWAYS 三丁目の夕日'64』には、似たような人々、似たような心情が写っている。ようするに、日本産業社会および日本型ハイテクノロジーの斜陽、終焉に対するノスタルジーである。『ロボジー』は、人型ロボットの開発に失敗したメーカー担当者たちが、苦しまぎれにロボットの筐体サイズにぴったりの老人を臨時に雇って着ぐるみとし、いったいいつまでこの子ども騙しのトリックで世間を欺き続けられるか、というナンセンスなギャグ喜劇。一方、『三丁目の夕日'64』は戦後復興色の濃かった前2作から一転し、著しい経済成長とオリンピック開催を背景に、勢いづく庶民生活と若者の台頭を、例によって「あの頃は良かった」式の懐古調で扱っている。
 これもひとつの「サウダーヂ」であろう。日本人の幸福はあたかも、『モテキ』の大根仁のようにライナーノーツ的イメージとして提示するか、「いまはもう消えてしまった」ことへの懐古においてしか見せることができないかのようである(それにしても、ライナーノーツというジャンルもまた、無茶苦茶に懐古を掻きたてるものではないか?)。フランス人の幸福をアニエス・ヴァルダがその名も『幸福』の中で、冷淡なるクリシェとして提示したことを思い出させる。そして矢口、山崎両者によるそうした方法は、見当外れではいない。誰もが現代日本の直面する、雪崩を打ったような急激な衰退ぶりを肌で感じており、人間という動物には結局のところ、懐古は生きる上での必需品であるからだ。
 それでも「まだ諦めない」と粘りを誇示しつつV字回復を期したり、ごくわずかな風穴を突破口にして新たなオルタナティヴ性をもって世界を出し抜く、ということが大事であるのは論を俟たない。だが、その広大な背後には、だらしなく子ども騙しのトリックで事態をごまかしたり、ノスタルジーに耽溺しつつリアルに対して偏狭になったりする精神性が広がっている。そして、その広がりを見るにつけ、ある社会、ある文明の斜陽、終焉の始まりが本当のことであることが確認できる。コンスタンティノープルで胚胎されたビザンツ文化であるとか、ポルトガル人のサウダーデ(ブラジルではサウダーヂ)は、このように生成していったのだろうか。出来がいいとか悪いとかということではなく、『ロボジー』も『三丁目の夕日'64』も健全な社会で生まれる作品であるとは思えない。そしてその不健全のゆくえも、私は見ていきたいと思っている。