荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『鳥の歌』 アルベルト・セラ

2012-02-11 07:18:56 | 映画
 いま話題沸騰の若き映画作家アルベルト・セラの『鳥の歌』(2009)。モノクローム撮影でいうと最近ではコッポラの『テトロ』が鮮烈であったが、『鳥の歌』はよりアルカイックな、いわば古文書を剥がして眺めていくような白と黒と鼠色だけで地球の表面が成り立っている世界である。「レ・ザンロキュプティーブル」誌のライター、ジャッキー・ゴルトベルクは「禁欲的かつ道化的、モンティ・パイソンとストローブの間」と評言しているが、一方で主題寄りの見方をするならば、ロッセリーニ『フランチェスコ、神の道化師』とエルマンノ・オルミ『どんどん歩いていくうちに』の中間であるとも言えるのではないか。

 東方の三賢人が砂漠や氷原、森林や岩山、湖水など、さまざまな土地を経巡りながら、最終的にはキリストの誕生を祝いに行き、マリアが赤子のイエスを抱く馬小屋の軒先で三人が平伏するいきさつを描く。これはロードムービー以前の旅のスケッチであり、その理由はそこには単に道ができていないからで、地球は依然として無垢で、文明によるアレンジを施されてはおらず、未知の惑星としての凶暴な表面をさらけ出している。あたかもSF映画に登場するどこかの無人の惑星のようである。
 リアリズムというよりこれはイノセンスと言った方がよく、このイノセンスはまだじゅうぶんに観客の心を鷲づかみするには至っていないかもしれない。カプリッチ・フィルムズのティエリー・ルナスが上映前の弁論でセラの作風を評して「彼はショットの作家ではなく、シークエンスの人である」と述べていたが、私は逆の感想をもった。いまどきこれほどショットの人はいないように思うし、それはいくぶんかアナクロニズムでもある。決めのショットが単体の持続の中で自足している。その都度、三人の旅路がリセットする。
 誕生したばかりの赤子に三賢人が平伏するシーンで、稀代のチェリスト、パウ・カザルスによる『鳥の歌』が作品中唯一の劇伴として流れるのは、カタルーニャの映画作家セラの面目躍如といったところだ(「パブロ・カサルス」という表記はスペイン語で、カタルーニャ語では「パウ・カザルス」。母音に挟まれたsが[z]音で濁るのはフランス語やポルトガル語などと同じルール)。思えば、紀元零年の時点でベツレヘムに赴く東方の人間がカタルーニャ語をしゃべるわけはなく(東方の三賢人は一説によるとイラン人だったと言われている)、ヘブライ語とカタルーニャ語がなんの断りもなく同居しているのは、きわめて荒唐無稽な状態である。こういうふざけた真似をするから、バチカンから公認を得られなかったのであろう。

P.S.
 『鳥の歌』という曲は、FCバルセロナがホームのカム・ノウで誰かの死去に際し、1分間の黙祷を捧げる時にいつも使用されている。それと、斎藤敦子の指摘によれば、カイエ・デュ・シネマ派がフランス都市部を除けば世界で最も多く残存しているのが日本ではなく、カタルーニャ自治州だということだ。


東京日仏学院(東京・市谷船河原町)の特集《カプリッチ・フィルムズ ベスト・セレクション》内で上映
http://www.institut.jp/