荻野洋一 映画等覚書ブログ

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NHK-BS『役者 奈良岡朋子 ~舞台の上の60年~』

2012-02-07 02:30:02 | ラジオ・テレビ
 NHKが、昨秋に津軽のイタコ、いわゆる「カミサマ」を舞台上で演じた奈良岡朋子の稽古風景にカメラを密着させた。奈良岡朋子といえば、かつてはテレビドラマのバイプレーヤーとしては不可欠な存在であったが、現在の露出頻度はそれほどではない。大河ドラマ『篤姫』のナレーションは印象深かったけれども、宇野重吉の愛弟子である彼女は現在、所属する劇団民藝をもっぱらメインの活動領域としているようである。
 映画史的には、演劇集団円の芥川比呂志と恋人役で共演した黒澤明の『どですかでん』(1970)がもっとも大きい。しかし、鈴木清順の最高傑作のひとつ『すべてが狂ってる』(1960)もいいし、島津保次郎1937年の名作を斎藤武市がリメイクした『浅草の灯』(1964)では、オリジナル版で坪内美子が演じた役を演っていたのも捨てがたい(作品としては、島津版のほうが比べものにならないくらいに優れているが)。

 今回の彼女の稽古風景を見ていて興味深かったのが、いわゆる「リアリズム演劇」の申し子である彼女が、徹底的に形から入っていく演技の探求方法を模索していたこと。サイコロジカルに役に接近するだけでなく、顔の向き、上げ下げのタイミングなどアクションのディテールを、パート譜のテストのように何度も何度もやり直し、修正を施し、それを身体にすり込ませていく。よく小津演出が「気持ちなし」で形式を追究していた、という証言をいろいろな本で読むことができるが、今回それに近いものを感じ、蒙を啓かれた。

『閉ざされた谷』 ジャン=クロード・ルソー

2012-02-05 16:47:54 | 映画
 ストローブ=ユイレが「ヨーロッパで最も偉大な映画作家の一人」と賞讃したジャン=クロード・ルソーの長編第2作『閉ざされた谷』(1995)は、作者が10年以上にわたりSuper 8のカメラをもって、南フランスのフォンテーヌ・ドゥ・ヴォクリューズの風景と相対した記録。山間部の映像が独特の構図で切り取られ、ゴダールの『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981)を思い出させる自在な音声編集が施される。ジョルジョーニ、ペトラルカ、ベルクソンの関連要素によって風景への視線を補強しつつ、(おそらく作家自身の)電話の声が、日記映画としての色を強めてもいる。電話の声はごく日常的な会話のようであるが、相手の声は聞こえない。
 アヴィニョンにも住んだ詩人ペトラルカがこの地で、永遠の淑女ラウラへの愛を謳った『カンツォニエーレ』(1336-1374)を書いたのだそうで、実際に本作にも、その故事を観光客向けに告げる看板が写っている。ペトラルカはラウラと交際したことはなく、彼の恋愛叙情詩は独り言である。そして本作の電話の主も「ロラ! ロラ!」(Lauraのフランス語読み)と叫び続けたりもするのだが、これはどこに届くとも思われぬ独り言、つまり「閉ざされた谷」からの咆哮なのだ。
 ヴォクリューズの源泉から地下水の湧き出る洞窟は、人間たちの目の前に、冷たくまっ黒な洞窟の口をパックリと開けている。人間というのは愚かなもので、この闇と空洞の現前ぶりに耐えかねるのか、観光客の誰もが、巨大な闇に向かって小石を投げ込まずにいられないようである(左の写真は映画スチールの転載ではなく、パブリック・ドメイン)。「ボッチョン!」という水面に石が落ちる音がのべつ幕なしにくり返され、それがこの作品の基調音にさえなっている。
 ルソーは、人間個々の生、人格、物語に近づくことを拒否した。大部分のカットは風景のみの無人ショットであって、人間が写っているとしても、山水画の中の点景にすぎない。水の源泉を辿り、水の歴史が生成される渓谷の流れが辿られ、最後に海が写る。海岸線にぽつんとある公衆電話のボックス。ここにひとりの男が入っていく。この男は、さきほどの電話の声の主であろうか?


東京日仏学院(東京・市谷船河原町)の特集《カプリッチ・フィルムズ ベスト・セレクション》内で上映
http://www.institut.jp/

『三国志英傑伝 関羽』 麥兆輝、莊文強

2012-02-01 02:21:29 | 映画
 そのどれもが傑作であるわけはないのは重々承知の上で、甄子丹(ドニー・イェン)の映画となると、そそくさと見に行ってしまうのは、受け手としての私が単にミーハーだからでしかないのだが、『インファナル・アフェア』シリーズの演出を劉偉強と共につとめた麥兆輝(アラン・マック)と、脚本の莊文強(フェリックス・チョン)の共同監督作品と聞いてしまえば、期待半分、予想通りかなという考え半分で落ち着いてしまう。
 よく、フレッド・アステアのダンスシーンを見た時の感嘆を評して「演出放棄」などと表現されたことがあるが(そしてそれはマーク・サンドリッチのような才能豊かな作り手にとっては、まったく侮辱とも思わないだろう)、最も良い功夫映画、武侠映画にもそれと同じようなことが言える。私は、甄子丹のアクション監督としての、そして顔面芝居としての緊張感が、そうした一見「演出放棄」にも見えるような閾に達するのが先か、それとも肉体的な衰えが先か(彼はもう48歳になってしまっているのだ)、ひやひやするような気持ちで見守っている。
 『三国志英傑伝 関羽』の作品そのものは標準作といったところで、『三国志』の中でも “赤壁”(レッドクリフ)や “鶏肋” などをあえて描かずに、その数年前の、引き留める曹操を振りきった関羽が、蜀に無事帰国するために、5つの関所を手形なしで通れる約束を取りつけたにもかかわらず、じつは後漢のラストエンペラーから暗殺命令が下されていたという “過五関、斬六将” のチャプターを、麥兆輝と莊文強の2人組がごく手短に語りきっている。大軍勢のスペクタクルではなく、1対1の勝負を、さまざまな空間条件の下で腰を据えて撮ることができただろう。
 映画の冒頭、すでに死した関羽の遺骸を柩に安置し、「真にこの男を弔うに値するのは、この俺のみだ」と言わんばかりの曹操を演じた姜文(『鬼が来た!』以外にも監督作はあるのだろうか?)は最高である。


ヒューマントラストシネマ有楽町&渋谷ほかで新春公開
http://www.sangokushi-kanu.com/