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播磨旅行記(2)

2008-11-26 20:41:37 | 旅行記

息継ぎ井戸を後にして、駅前の通りから路地裏に入って、今度は花岳寺へと向かいます。
花岳寺は、代々の赤穂藩主の菩提寺であり、大石家代々の墓所でもあります。創建は1645年で、建てたのは長矩の祖父にあたる浅野長直(1610~1672)です。
赤穂義士の墓所といえば、江戸高輪の萬松山泉岳寺が有名ですが、実は赤穂にも墓所がありまして、それがこの台雲山花岳寺です。
解説してくれた方の話によれば、泉岳寺には骨が、花岳寺の方には髪の毛が納められているそうです。
山門をくぐってまず目につくのは、「大石内蔵助名残の松」です。今あるのは二代目だそうで、脇の休憩所には一代目の幹がおいてあります。樹齢などについてはわかりませんが、何でも内蔵助の母が亡くなった際に寄進したものだそうです。
それから、鳴らずの鐘というのもあります。

大石内蔵助ら赤穂義士が本懐…つまり、主君の死のきっかけとなった吉良上野介の首を討ち取ったのは、内匠頭が切腹し果てたその翌年、元禄15年12月14日(1703年1月30日) のことでした。
この時点で、赤穂義士は犯罪者となるかそうでないかは、実はぎりぎりのところでした。
当時、中国からもたらされた儒教の考えでは、忠義というものが尊ばれており、判断次第ではその忠義に免じて極刑は免れるかも知れなかったのです。
現に、のちの博物館の資料などによりますと、義士助命論者の方が多かったようです。
一方では、義に乗っ取っていようがいまいが、幕府の裁断を仰がず、私闘に及び殺人をおこなったことは違法行為であり、極刑は免れないという話もありました。
その裏には、赤穂義士を「忠義者」として死なせることは最大のはなむけである、という考えもあったようです。
かくして幕府は、被疑者被害者双方の面目が立つ論を採用し、翌元禄16年2月4日(3月20日)。赤穂義士は見事な切腹にておのおのの人生を閉じたのでした。

鳴らずの鐘の話は、その後日談。
赤穂義士切腹の話は、あまり間をおかずに播磨国赤穂にも届けられました。
その話を聞いた赤穂の町民はたいそう嘆き悲しみ、なぜか花岳寺の鐘を衝いて衝いて衝きまくったそうです。すると、驚いたことに、この鐘から音が失せてしまったというのです!
しかも、その間じつに50年あまり。
その50年の間、誰ともなく「ならずの鐘」と呼び始めたということです。
うーん、ミステリー

さて、境内の見学もそこそこに、義士宝物館と墓所を見ることにします。
花岳寺は赤穂藩歴代殿様の菩提寺です。つまり、普通の人はここにお墓を作ることはできません。殿様かその家来ぐらいしかないわけです。
ちなみに、赤穂藩の歴代藩主は、まず播磨一国の大名だった池田氏。
その後、常陸国笠間から入ったのが浅野氏でした。
浅野氏が三代で改易後、下野国烏山から永井氏。
最終的には、森氏が入って幕末へと繋がっていくのですが、松之廊下事件では赤穂藩が取り潰されたわけではなく、赤穂浅野家が潰されたんです。
まぁ考えてみればそうなんですけどね。
花岳寺を建てたのは、浅野さんだというのは先ほども書きました。永井氏はわずか五年の統治でしたので、実際にお墓があるのは浅野さんと森さんです。
国家老という重臣だった大石家もここにお墓があります。
宝物館はまさしくお宝がたくさん。浅野家ゆかりのものから、大石内蔵助が実際に振るった采配まで、浅野家断絶後に赤穂を治めた森家関連の貴重な資料まで、文化財がてんこ盛りです。
中でも、浅野家歴代藩主の肖像画は、本やテレビで見ることができる有名なものです。
それから、この寺には、およそ250年前に作られたという赤穂義士+萱野三平の木像があります。何でも、赤穂義士33回忌から作られはじめ、100回忌に完成したそうです。
実は、のちに訪れる大石神社にも木像があるんですが、そちらとはまた違った素朴な作りが昔を感じさせます。白装束をきた萱野三平が実にもの悲しい。
こういうものをじっくり見ていると、意外と時間がかかってしまうものですねー。

花岳寺を後にして、今度は大石神社を目指していきます。
が、折しも時は昼ということで、先にご飯を食べるかと言うことになりました。
ところが、どうも赤穂市の名物がいまいちわからない。赤穂義士と赤穂塩は、確かに全国に比類のない名産ですが、赤穂のグルメというと…という感じです。
大石神社は、赤穂城内の一角にあるのですが、大手門前に面白いのぼりを発見しました。
「討入そば」と書いてあります。
「討入そば」。
なんと軌新…いや、斬新なネーミング。赤穂銘菓の塩味饅頭の名店、巴屋本舗さんで食べることが出来ます。
なぜ、赤穂でそばなのか。

吉良上野介邸への討ち入り日時が決まりました。
奇しくも、月は違えど亡君・浅野内匠頭の命日である14日です。その日の夜、一同は吉良邸近くのそば屋の二階に集まりました。
表向きは火消し衆の会合ということになっていましたので、怪しまれぬよう火消し装束に身を包み、おのおのの武器はこもにくるんで見つからぬようにしてありました。
そこで最後の晩餐に成るかも知れぬ、今生の別れの酒宴を行い、縁起を担いで手打ちのそばを食したそうです。

以上が、赤穂でそばの由来、らしいです。
手打ちならぬ、討入そばが売られていたわけですね。
味はおいしかったですよ。
わたしは、うどんよりもそば派なので、おいしく食べられました。付け合わせで頼んだ元禄おむすびも、きびなごの煮付けなどもおいしかったです。

というわけで、今日はこのあたりで。
今日の一枚は、『大石名残の松(一代目)』。
このように、切られて赤穂のあちこちに安置してあるようです。


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