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播磨旅行記(3)

2008-11-27 20:37:04 | 旅行記

食事もそこそこに、今度こそ大石神社を目指します。
大石神社は、大石内蔵助邸宅跡に建てられた1900(明治33)年創建の神社です。
詳しいいわれは、リンク先を参照してもらうとしまして、主祭神は大石内蔵助以下四十七士と悲運の義士・萱野三平、浅野家三代、それから浅野家の後に藩主となった森家の祖先となっています。
神社なんていっていたので、まさか城郭内にあるとは思わず、少し迷ってしました。
まず圧巻なのはですね、神社の境内に入る前です。参道の両脇にずらりと四十七士たちの石像が並んでいるんです。
まだ新しいもののようですが、寄進なされた方の名前を見ると、どうやら義士のご子孫の方のようです。先祖伝来の名を名乗っている方もいれば、故あってか別姓の方もおります。
こう見ていって悲しいのは、一部の石像の寄進者が赤穂の企業やお店なんです。血脈が途絶えてしまったのか、ご子孫の方が見つからなかったのかはわかりませんけども。
一介の水呑み百姓を先祖に持つわたしから見ますとね、有名人を先祖に持つなんて実にうらやましい限りですねぇ。

そんな話はいいんです。
参道を歩きまして、境内に入ります。
大石神社の御利益は、何と言っても「大願成就」。受験合格から恋愛成就まで、大きめの願い事なら何でもこいやー、バッチコイヤーぐらいの勢いです。
大きな絵馬が掲げられ、何とひしゃくにも願い事が書いてあります。
そう、2009年ワールドベースボールクラシック日本代表投手コーチに就任した山田久志さんのご子息のものと思われるひしゃくがありました。
ああ、あと半年もないんだなぁと思うと、ぜひよい結果を残していただきたいと願って、そのひしゃくを借りまして手水を頂きました。
まずは拝殿にて賽銭を差し上げまして、お参りをいたしました。
時節柄、七五三でおしゃれをした小さい子どもたちがたくさん来ておりました。地元に根ざした神社なんだなぁと思いました。
おみくじもしましたよ。わたしは見たことないんですけどね、水みくじという不思議なおみくじです。神を水に浮かべると文字が浮かび上がってくるといいます。
結果は大吉でした。おお、なんかついているらしい。全然、そんな気はしないんですけどねぇ。
その後、義士宝物殿を見学。赤穂義士資料を中心とした本館と、森家の資料も展示してある別館を綿密に見ます。
花岳寺にあったものが、大石神社にもあったらどうしようなんて話をしていたんですけどね。何と、こっちにも大石内蔵助が振るったという采配があったんですよねー。
うーん、どっちも本物なんでしょうけど、討ち入りで活躍したのはどちらなんでしょう。
そうそう。本殿回りに忠臣蔵…というか、赤穂事件のあらましを絵と文で表わした、ものすごくわかりやすいキャプションが掲示してあるんですよ。
赤穂なんて、忠臣蔵に興味がある人ぐらいしか行かないでしょうが、非常にうまくまとめられていて、おさらいにはちょうどいいです。脇のエピソードも満載です。
境内をあっちへうろうろ、こっちへうろうろしながら、次にたどり着いたのは、義士木像奉安殿です。
その名の通り、大石内蔵助はじめ赤穂義士47名に主君・浅野内匠頭。そして、討ち入りを前に義と孝の狭間で苦悩し、自ら命を絶った48人目の義士・萱野三平の木像が納められています。
しかも、おのおのにすばらしく簡潔明快な解説文がついているんです。もうここを見れば、忠臣蔵が一通り理解できてしまいますよ。
花岳寺は江戸時代の作。こちらは、昭和28年義士自刃萬250年を記念して企画されたものです。もうそれそれはすばらしい、当代一流の彫刻家たちが腕を振るった木像が安置されています。
有名どころですとね、浅野内匠頭長矩の像を彫ったのは平櫛田中(1872~1979)です。
好きで「開運! なんでも鑑定団」なんか見ている人間ですからね。聞いたような名前もちらほらです。その道の人が聞いたら、バーローと叱られてしまいそうですねぇ。
中でも注目したのは、堀部安兵衛ですよ。
やっぱり、赤穂義士といえば堀部安兵衛武庸(1670~1703)じゃないですか。
だって、赤穂浅野家臣だったとはいえ、堀部弥兵衛金丸(1627~1703)の娘を妻に迎えて婿養子に入ったのは、内匠頭が刃傷に及ぶわずか七年前ですからね。生まれはなんのつながりもない新潟の新発田なんですよ。
命をかけられるものだろうかと、不思議に思ってしまいます。
まぁそんなふうに不思議に思うことは、すでに武士道というものを理解していないということなのでしょうが…。

ああ、いけない。大石神社で思わぬ長文を…。
大石神社は、それから国指定史跡である大石邸長屋門と庭園を見学して後にしました。
その後、赤穂城の本丸跡へと向かいます。
赤穂城は今、再建工事か調査のために一面のっぱらのようなっています。
赤穂城の縄張り…つまり設計をしたのは甲州流軍学者の近藤正純(1604~1662)です。
甲州流軍学はですね、その名の通り甲斐武田家の軍法を学問にまとめたもので、そうしたのは小畠景憲(1572~1663)という武田遺臣です。父と目されているのは、武田二十四将の一人、小畠昌盛(1534~1582)です。
近藤はその景憲の高弟に当たりまして、意外なところに山梨とのつながりを発見しました。
本丸はとても広くて、住居跡の部屋配置はとても興味深いものでした。天守台からの眺めもいいものでした。

さて、今日の一枚は『赤穂城本丸門』です。当時を偲ぶにふさわしい場所だと思います。
よもや赤穂でこんなにかかるとは…。やはり赤穂義士の存在は大きいということなのでしょうか…。


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