さじかげんだと思うわけッ!

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飯田龍太展

2008-11-11 20:23:10 | 

先々週末の話になりますが、山梨県立文学館で行われている飯田龍太展に行ってきたので、その話をしましょう。

飯田龍太といえば、現代を代表する俳人であり、山梨では屈指の文化人・文学者です。
父であった飯田蛇忽から俳句雑誌『雲母』の主催として、実に30年もの間、第一線で活躍してきました。
出版人としても一つの理念を持ち、発行し続けた人でしたが、もちろん俳人としても一流。批評家、紀行文などを著す散文家としても優れた才能を発揮しました。
そんなさまざまな功績を持つ龍太は、2007年2月、86歳の長寿をもって亡くなりました。
今回の展示は死後約二年が経っての追悼展であり、彼の功績を忘れぬための追憶展でもあったのです。
龍太の評価は生前から高く、それは死後も変わらぬところですが、その多々ある成果や作品を時系列で追い、さらに彼の数奇な運命と絡ませることで確認し、偉大なる文学者として揺るぎのない地位にするためのものではないかと。そんな風に考えます。

1920(大正9)年、山梨県五成村(旧境川村、現笛吹市)に生まれます。五男の末っ子でした。
父は、飯田武治。俳号を、蛇笏といいました。
近代において、俳句の発展に大きな影響を与えた、あまりにも偉大すぎる俳人です。
代表的な句に、教科書などにも載っている
「芋の露 連山影を正しうす」
があります。
俳人であり、俳句界の中心であった蛇笏を父に持ったことは、龍太にとっては幸だったか不幸だったか。自ずから俳句に親しみ、のちに父と同じ立場に上り詰めたことを思えば、きっと幸だったんだろうと思います。
龍太の青年時代は不遇でした。
次兄を肺結核を亡くし、龍太自身も重病を患います。
これが結果的にはよかったのかもしれません。徴兵検査にひっかかり、戦争に行かずに済んだのです。田舎に帰り、農耕に従事する日々を送ります。
長兄は戦死。三兄は拘留中のシベリアで病を得て死去。龍太は飯田家の跡取りとなります。そして、家だけでなく、その俳人としての血脈も受け継ぐことになったのでした。
龍太は、父・蛇笏の句風を受け継ぎつつ、発展させ、独自の句風を確立。父同様、風景を的確に捉え、さらに光をプリズムで通すがごとくきらめく俳句を作り続けたのです。
1962年10月、父・蛇笏が亡くなり、句誌『雲母』の主催を継承します。1997年に、900号をもって廃刊となりましたが、テレビ・ラジオ・新聞などを通して、俳句の裾野を広げました。
反面、その安易な芸術性を危惧もしており、『雲母』最終号にも選句に対する厳しい態度が認められます。2007年2月に亡くなるまで、俳句の発展につとめた人でした。

印象的だったのは、飯田龍太という人が現代の作家であることを象徴するように、映像が展示されていたということです。しかも、地元のローカルテレビのインタビューです。
動画によって、記録が半永久的に残るんですものね。文章や写真などよりも、より鮮明で強烈な記録ですよね。
うつむきがちにぽそぽそとしゃべる龍太。ただ俳句のことになると、はっと顔を上げ、慎重に言葉を紡ぎ出す姿が印象に残っています。