今日の本題は、ずーっと下の後半からです。まずは雑談
最初はデスクトップPCで、ここ10年ちょっとノートPCでしたが3回壊れて、今はまたデスクトップPC。そうするとデータ移行の度に重複したり、MD時代の取り込んだデータ、楽譜のデータ、写真、色々と整理する時間がなくて。時間がないので、たまに見つけたファイルにちゃんとタイトルを入れるようにしました。検索して出ればいいやって。
それで、たまたま見つけた10年前1度きりのユニットで演奏した時の音源。えー私って、昔のほうが上手いかも。スピード感やキレがあって、聞いていると自信を失いそうになりました
つまり、あれですね、年とともに衰えてる。でもでもでも!スウェーデンの伝統音楽奏者に目をやれば、確かに皆若い頃のほうが早弾きしてて、年齢とともに落ち着いた演奏になっています。数年前に亡くなった大御所のBjörn Ståbiも若い頃の演奏は、聞いていてフレッシュでキレもあって。でも、晩年は美しくて物事の本質がダイヤのようにキラっと輝く、そんな燻し銀の演奏でした。そうだ、それを心の支えに頑張ろう!落ち込んだところで仕方ない!と思い直す今日この頃です。
先日、クラシックバイオリニストの服部百音さんのインタビューをYoutubeで見ていて、10代と20代で既に体の衰えを感じていると言っていました。30代、40代ではどうなるんだろう?という不安もよぎるのだとか。クラシックと伝統音楽、全くアプローチの異なる世界ですが、百音さんのこだわりや努力というのは聞いていて共感する部分ばかりで、言葉にしたことがなかった部分を語ってくれている感じがして聞いていてドキドキしました(すごく若い方なのですが言語化能力がすごい)。伝統音楽は努力や根性の世界ではありませんが、何であっても自分に真剣に向き合う時というのは、ジャンルに関わらず普遍的な部分があるんだろうと思います。前も、書道家の先生のインタビューで共通するものがあってじーんときたのを思いま出します(同じ書を模写し続ける中で隠せない個性が芽生えるような話)
さてさて、もう少しだけ雑談です。SNSで書けばいいのでしょうがSNSは苦手で、ブログで書きたいなと前から思っていました。「買って良かったもの。ずっと使っているもの。」です。
「桐のパン箱」、「炊き立てごはんを入れるお櫃」、「山中牧場の赤缶バター」です。
桐のパン箱は、増田桐箱店という福岡のお店です。https://kiribako.jp/ パンは今も週1-2回、1.5斤を焼いていてその保存箱を探したの最初でした。パン屋さんで買ってきたパンも長持ちするし、メロンパンも買ってきてすぐ入れると、翌日もベタベタにならないんです。木だったら良いという訳ではないようです。開封済みのものはなんでも入れちゃうので、2斤と1.5斤の2箱持っています。
お櫃は、「博多曲物(まげもの)」です。炊き立てごはんはすぐにお櫃にうちあげてそのまま食卓において自由についで食べています。ここに入れると、水分の加減がほどよく、もちもちしっとりのまま。この後、移し替えて保存しても水分がほどよいんです。曲物で有名な地方は他にありますが、4万、6万とすごく高くて。手が届くと思うと、ウレタン加工と書いていてがっかりしたり。この博多曲げ物は、4合サイズで1.5万円くらいでした。博多曲物で調べると、「柴田徳商店」と「(柴田)玉樹」と2つヒットすると思います。元は同じで枝分かれしたようです。玉樹さんのほうは女性。私は、玉樹のほうのお櫃、柴田徳商店のお弁当箱を使っています。
山中牧場の赤缶バターは、発酵バターです。真っ黒のライ麦パンが好きで、クネッケブロードにぬるバターもスウェーデンはコクがあっておいしく、そういうのに合うバターをずっと探していました。発酵バターと名がつくものは大抵試したけど、どれも物足りない。結局、山中さんの発酵バターに戻るんです。口の中にふわっとミルキーな香りが広がります。焼き菓子屋をしていた親戚に聞いたのですが、日本人のバターの好みは、あっさりだとか。カルピスバターも日本人好みの味だと聞きました。海外のバターはコクが強すぎるって。でも、そのコクの強いバターが好きで、今のところ、赤缶が私の中でNO1です。でも、高いんですよねー!!!(北海道からクール便になる送料のせい)
さて、そろそろ本題に入りましょうか。
認める伝統、認めない伝統。
どういうことかと言うと、随分前になりますが共演者と雑談の中で「スウェーデンの伝統音楽奏者Aさんが弾くと、何を弾いてもAさん流になる。原曲のテイストはいずこへ?」という話が出ました。原曲(その時の話ではノルウェーの曲)を聞くと、全然、雰囲気が違ったんだそうです。私は「Aさんならいい。ファンだから全然いい!」と言ったのですが、後からずっとそのことについて考えていました。伝統音楽として、「伝承」音楽としてどうあるべきなのか。伝承音楽の世界では、独自の解釈で演奏すれば「オリジナル・アレンジ」とみなされることが。誰のどういった時に「その人の解釈や表現」と言われ、どういう時に「伝承音楽として受け入れられる」のか。時間をかけて考えると見えてくるものがありました。
その地域、その時代を代表する伝統音楽奏者かどうか
結局、これにつきるのではないでしょうか。
故Viksta-Lasse(ヴィクスタ・ラッセ)は言わずもがな、ウップランドを代表する伝統音楽奏者です。Viksta-Lasseは、演奏ツアーが多かったからか、知り合い(August Bohlin)の影響か、ダーラナ地方(ビングシュー)やノルウェーの曲がレパートリーにあります。そして、その地域の本家とは少し違うんですよね。Viksta-Lasse風というか。例えば、Frisells polskaはダーラナ地方の曲ですが、「Viksta-LasseのFrisells polska」というバージョン違いがあります。バージョン違いと言っていますが、つまりViksta-Lasseが自分流に弾いたということです。当時は70-80年代。「録音や生で本家バージョンを聞く機会がない訳でもない。でも、デジタル文化の今ほど簡単には聞けない。」そういう時代的な違いはあるものの、Viksta-Lasseが伝統音楽奏者として認められた存在だったからこそ、「彼のバージョンとしての枝分かれ」が定着したのだと思います。ウップランド地方の曲に、「efter Viksta-Lasse(ヴィクスタ・ラッセの伝承)」として、ダーラナ地方やノルウェーの曲が含まれる所以です。そうやってウップランド地方の新しい伝統が作られた、とも言えます。
逆に考えて「枝分かれ、バージョン違いが受け入れられないケース」を考えると、その時代、その地域を代表する奏者とするにはあと一歩、という場合。
それでいうと、冒頭のAさんは「その時代、その地域を代表する奏者」で、反対する人は少数派だと思います。貢献度、知名度、何をとっても大御所でファンも多い。ただ、確かに、Aさんを通すと大体「Aさん流」になります。スタイルが出来上がっているんですね。ですが、他の地域や他の国の曲を「Aさん流」で弾くと、デジタル時代(用意に比較できる)には批判する人も増えるだろうとは思います。ただ、「変化してほしくない伝統」も分かるものの、「変化を経て今がつくられてきた伝統」もあります。そこで一番大事なのは、「伝統への敬意があるかないか。それが感じられるか。」なのかな。今、認められるかどうか微妙な場合も、死後「あの人はこんな風に弾いていた」と後の人が広めていくこともあるでしょう。
最初に紹介した百音さんのインタビューに、作曲家の三枝さんのコメントもあるのですが「芸術家は壊す人。言われたことをする人じゃない」。いつの時代も、「名を残す人は型やぶりなのだ」と思えば、この伝統音楽に出てくるバージョン違いの話題も、違う印象があります。人が作って伝えてきた、形のない伝統音楽。やっぱり、おもしろいです!