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ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

子供たち

2020-06-25 | 心の旅・追想

寺院で遊ぶ子供たち 学校が終わったのだろう 服装からみても高カーストの子供だ


山間の村から出稼ぎにきている 朝から働く子供 
インドもネパールもカースト制度の国である 不条理のように思えるが
その下で生きていくしかない
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赤ちゃんと家族

2020-05-15 | 心の旅・追想


カトマンズから西の方向に小さな山が見える その上にスワヤンブーナート
(通称 目玉寺)がある 市内から歩いて20分ぐらいで山の下に着く 
山裾に沿って左へ道を歩いて行くと両側に家屋が立ち並ぶ 部屋を借りて
ヒッピーたちがのんびりと生活をしていた ぼくも通り面したベランダのある
二階の一部屋で自炊生活をしていた 夜中、ベランダを歩く音がする 小窓から
覗くと家主の親父ではないか 板の階段がバタバタ、バタバタと人が上り下りする
うるせ~と頭にきた時 二階の奥からおんぎゃ~、おんぎゃ~と赤ちゃんの泣き声 
その時、生まれた男の子である 二人の娘と年が離れ小学高学年の小賢しいガキがいる 
トントン 小窓を開けると小梅ぐらいの濃褐色の物を持っている 手にとって嗅いでみる
うぅ~フレッシュなチャラスだ 今、ガンジャ畑で作ったと言う それぇ~早朝,畑へ行く
グラストップを両手で揉み上げる、がんばってみたが茶色くなるだけ 諦めた
グラストップを摘んで部屋に戻り紐にぶら下げる 野菜炒めには刻んで入れ食べる
乾燥したらティーグラスに入れお湯をいれたら緑の日本茶になる 効いたかどうか
記憶にない 夕方、ガキからチャラスを買い 作ったら持って来い
ぼくはガキの小遣い稼ぎの鴨になってしまった

緊急事態宣言
福岡県は解除された まだ気を緩めることはできない
医療従事者の皆様へありがとうの感謝を送ります。

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心をひとつに

2020-04-12 | 心の旅・追想
僕たちは心を一つにして”3・11”の苦難の道を歩き乗り越えてきた
僕たちは今 コロナウイルスに試されている
厳しく先の見えない困難なコロナウイルスとの闘いを続けられている医療従事者の方々に
感謝します
僕たちにできることは感染者にならないこと
医療従事者の方々に心から感謝のエールを届けよう

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ガンジス河源流ゴームクへ・・・2

2020-03-03 | 心の旅・追想
ゴームク(聖なる牛の口)氷河の一滴からガンジスは始まる(スキャンの失敗)


ゴームクの聖水で沐浴をすればあらゆる穢れが清められる


河畔には薄氷 気合で膝までガンガに入ったがあまりの冷たさに逃げ出し
ぼくは清められなかった そんなもんでしょう人生なんって


聖地ガンゴトリ行きローカルバス 偶然デリー大学で声楽を専攻しているという
日本人のWさんに会い三日間、行動を共にした 
一人旅のぼくではこの画像はない、Wさんとの出会いは幸運だった
ガンゴトリまで二人で下山 ぼくはヨガアシュラへ 旅とは出会いと別れ それぞれの道を行く

                   ガンジス河源流ゴームク・・・おわり
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ガンジス河源流ゴームクへ・・・1

2020-02-04 | 心の旅・追想
最後のアシュラム・ボージバーサ 標高約3500m


ガンガ河畔で写真を撮ってもらった
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少女

2020-01-17 | 心の旅・追想
デリー・マドラスEXP 48時間の列車の旅 車中で会った砂漠の家族


ポカラの少女 朝、目を覚ますと美味しいチャイを持ってきてくれた


1900年代 インド ネパール追想
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朝の祈り

2019-12-31 | 心の旅・追想
カトマンズの朝


神々とこどもたち


1970代・カトマンズ追想
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心の旅・追想・・・3  クリスからの手紙

2019-12-02 | 心の旅・追想


手紙は東京から神奈川の姉宅へ送られていた。帰国してぼくはこの手紙を読んだ。フランス人の彼とぼくは英語のネイティブではない、“これほんま英語かいな”と思われるかもしれませんが、ぼくらの正真正銘の英語なんです、多々不明な個所がありますが。
まず驚いたのは“19/11/95/フランスを出発”である。ぼくはその時、デリー・メインバザールの安宿でブラックアウトしていた。彼は旅の予定を書いている、インド滞在6ヵ月その後ネパールへ入国、約1年の旅を考えていると。それにしても甘いよ君は、5年前のインドが大きく変化し思っていた以上の出費が重なり財布が厳しくなったとは。しかしまだ帰国はしたくない、“GOA(this year)で会ったKasumiとコンタクトをとり日本で働きたいと書いてある。だがその時、ぼくが93年フランスへ出した手紙、どこをどう彷徨っていた のか彼の手元へ届いたのだ、おかしな話である。But I got it in Nepal I don’t know how それはぼくも同じだ。93年に出した手紙の内容は94年からカトマンズの外国語学校でネパール語の勉強をする、だった様に思っている。それ以前に彼女に赤ちゃんが生まれたので1年、旅に出られない、とクリスからの手紙を受け取っていた。もしカトマンズで待てないようだったら東京へ行くことは可能だろうか、彼女はフランス語の先生をしている、日本でもそれはできる、とフランスへ帰国するより東京へ行く事に望みを寄せていた。Can I see you? Can I work? だがぼくはそれに応えられる状況になかった。デリー、カトマンズ、同じ時期に滞在していたのに会えなかった、もし会えていれば、それはもう過ぎた去ったこと、お互いの道を歩くしかない。Sex&Drugs&Rock&Roll That’s my way man IAN DURY Let’s go to see you smoke a big Joint together
インドでの経緯などを書いた手紙をクリスへ出す,文末に福岡で落ち着いたら新しいアドレスを連絡する、だがぼくはそれをしなかった、薬物治療を受け社会復帰しなければならない、旅とのつながりのすべてを断った。
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心の旅・追想・・・2  大使館への手紙

2019-11-05 | 心の旅・追想

 マリーは逃亡に必要な情報を集めてくれた。そして二人で計画を練った。Bさんの面会のとき、ぼくは逃亡計画のすべてを話した。退院しデリーに留まれば再び薬物に溺れる、薬物を断ったいまネパールへ逃亡し帰国する。
「それしか方法はないでしょう」Bさんは黙認された。
12月29日 退院手続きが遅くなり大使館に着いたのは暗くなっていた。28日、大使館は閉館されている がBさんは待っていてくれた。事務的処理が終わり、お世話になりました、とぼくがお礼を言うと
「ご無事で・・・」危険を伴なうぼくの逃亡について危惧されての言葉だ。もし国境で逮捕され再び刑務所に収監されるという最悪のシナリオになったとしても
「どういう事情であろうと大使館、大使館員は個人の身元保証にはなれない」
という意味が含まれていた。
執務室を出ようとするぼくに
「無事帰国したら手紙を下さい」と付け加えられた。

カトマンズ在日本大使館でDさんに会った。二日間、ネパール出入国管理事務所での経緯を話した。よほど憔悴した顔をしていたのだろう
「それは大変でしたね」と慰めてくれた。その後、Dさんは
「ネパールのボーダーにレコードがないというのは出入国管理事務所の責任であって、パスポートの盗難に合い苦労しているあなたは被害者じゃないですか。その被害者のあなたに速やかにビザを発給しないのはおかしい。早く連絡してくれたらよかったのに」
と言ってくれた。
「明日もう1度ここへ来て下さい。ビザ収得に必要な書類は用意しておきます。」
デリーではぼくの裁判が続いていた。だが、ここはボーダーを超えたネパール、一人の日本人旅行者として大使館は対応することが可能になる。
Dさんの言葉にBさんの意思を感じた。無事、訪ねてきたら速やかに帰国させて下さい。

無事帰国しました、ありがとうございました。

この文面だけ、それ以上、書く必要はなかった。デリー在日本大使館のBさんへ手紙を出した。

かなりの文章はブログからの引用です。構成だけ変えています。
次回はフランス人、クリスからの手紙について・・・うぅ~



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心の旅・追想・・・1

2019-10-07 | 心の旅・追想

 東京へ向かう新幹線の車中、窓外を後方へ一定の流線を描いて流れる雪、一面は冷たく白い雪景色だった。心が凍るような帰国となった。デリー・メインバザールで帰国の為に買った安物の革ジャンとジーンズそれにハイネック、1月の日本は寒いだろうと厚地のシャツを選んでいると
「そのサイズが丁度いいわよ」とマリー
保釈後、バザールへ買い物に行くと体重計があった。それに乗って50パイサ・コインを投入口から入れると窓口から鉄道の厚紙切符らしき物が出てきた、48㎏と印字してあった。ホテルへ戻ってシャツを着てみる、いつもと違う、何が?よく見るとボタンの列が反対側になっていた、女性用シャツだったのだ。48㎏のぼくに合う男性用シャツはなかった、それだけのこと気にするはない。

日本へ送ったスタッフ10g、銀行口座残高700万、これで薬物による禁断と後遺症の深い闇から抜け出し社会復帰しなければならない。 
東京に住むことはできない、千葉のK、埼玉のK、駅前にたむろし網を張っているイラン人に依頼すればどんな薬物でもアレンジしてくれる。苦しむ禁断者はどんな手段を使ってもヤクを手に入れようとする。ぼくは何度も同じ事を繰り返していた。
デリー精神病院、退院するインド人に
「おまえ、外に出て止められるのか」
「おれには家族がある」
福岡へ行く決心をした。

旅の追想という言葉が浮かびなんとなく書いてみた。先の構想などなく毎回、手書きとなる。書き続けられるだろうか、何度も書いては訂正するを繰り返す、納得できる文章なんて書けないだろう。書き終わったとき、次の文章について、三通の手紙を書くが浮かんだ、どうなるのか自分でも分からない。

東京の友人からチョコ(チャラス)を送ったと電話があった。
千葉k、埼玉kは1996年頃のことである、当然のこと、今は変わっているのではないかと思っている。
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