先週アイルランド人の友人Hと話していたとき「アメリカの公立学校の対応」について、そこまでする?と思うことがよくある、という話になった。
例えば:
トイレでふざけて個室の下からのぞいて停学処分になった(男の子同士)、とか
校庭で転び小枝が瞼に刺さった事件後、近辺の木の周り全てに囲いができ近寄ることもできなくなった、とか
全ての公立小学校で雪合戦禁止、とか
アメリカ人とはかなり異なると感じている友人Hは「アメリカ人は何でもコントロールしたがる」とよく言う。トイレの出来事なんて冗談ですむことなのじゃないかと私も思う。
子育てをみていても、あまり「砂場で社会を学ぶ」という様子はみられない。砂場で喧嘩を始めたらすぐに干渉し別の場所へ、という感じだ。
この「コントロールのきつさ」の原因のひとつには、やはり「相異」ということがあるのだろう。米国には、世界各地からの、宗教、文化背景、考え方、価値観など全く異なる者同士がひしめきあって暮らしている。アイルランドや日本のように、小さな島国でほとんどが似たような文化背景をもった者同士が暮らしている状況とは全く違う。
互いに異なりすぎるからまとめるためには「より強い縛り」も必要だろうし、異なりすぎるから砂場で交わりながら学ぶなんて無理なのだろう。
「異なるもの」に囲まれたこちらでの生活、同類集団内に閉じていく人々もいれば、扉を開け放ち、異なるものをより理解していこうとするオープン・マインドな人々もいる。
こちらで出会ったオープン・マインドな人々には、私のように同質同類のなかでのほほんと生まれ育った人間がオープン・マインドであろうとするのとは全く違った強さの土台がある。常に「自分とは異なるもの」にさらされながらも、オープン・マインドであることをしっかりと自分自身で「選択」し続けてきたという貫禄がある。
これからも続くこちらでの生活、オープンでいる選択を積み重ねていけたら、と思っている。
例えば:
トイレでふざけて個室の下からのぞいて停学処分になった(男の子同士)、とか
校庭で転び小枝が瞼に刺さった事件後、近辺の木の周り全てに囲いができ近寄ることもできなくなった、とか
全ての公立小学校で雪合戦禁止、とか
アメリカ人とはかなり異なると感じている友人Hは「アメリカ人は何でもコントロールしたがる」とよく言う。トイレの出来事なんて冗談ですむことなのじゃないかと私も思う。
子育てをみていても、あまり「砂場で社会を学ぶ」という様子はみられない。砂場で喧嘩を始めたらすぐに干渉し別の場所へ、という感じだ。
この「コントロールのきつさ」の原因のひとつには、やはり「相異」ということがあるのだろう。米国には、世界各地からの、宗教、文化背景、考え方、価値観など全く異なる者同士がひしめきあって暮らしている。アイルランドや日本のように、小さな島国でほとんどが似たような文化背景をもった者同士が暮らしている状況とは全く違う。
互いに異なりすぎるからまとめるためには「より強い縛り」も必要だろうし、異なりすぎるから砂場で交わりながら学ぶなんて無理なのだろう。
「異なるもの」に囲まれたこちらでの生活、同類集団内に閉じていく人々もいれば、扉を開け放ち、異なるものをより理解していこうとするオープン・マインドな人々もいる。
こちらで出会ったオープン・マインドな人々には、私のように同質同類のなかでのほほんと生まれ育った人間がオープン・マインドであろうとするのとは全く違った強さの土台がある。常に「自分とは異なるもの」にさらされながらも、オープン・マインドであることをしっかりと自分自身で「選択」し続けてきたという貫禄がある。
これからも続くこちらでの生活、オープンでいる選択を積み重ねていけたら、と思っている。
初めから「違う」と思って付き合うのと、「同じ」だと期待して「違う」のとでは、後者のほうが、ストレス溜まるかもしれないね。相手からも「同じ」を期待されるし。
日本の密な関係でのびのびと暮らしているよっちゃんこそえらいと思うよ。
どこへいってもよい面きつい面あると思うけれど、ここで「違い」を楽しむようにするよ。
ありがとうね!
カレーさんに感謝!
さて同質同類でも、なかなかわかりあえない事が多い近年、そちらでの常識や価値観はそれこそ千差万別なんでしょうね
きっとビックリする事の連続に、その「違い」を楽しむ位でないと長い間生活は出来ないのかもしれませんね。
海外旅行に行くとトイレ一つ戸惑うのに、十年以上「生活」として受け入れているマチカさんはすごーいと思いますよ…ホントに
同じ、異なる、も相対的なもの。同じ集団のなかにも果てしない互いに異なるものが存在するのでしょうね。それらの自分とは異なるものに対してオープンでいること、私もそうありたいです。
バイリンガル、言語が違うと「悩み」を「外」からみることができるのかもしれませんね。それでもう悩む必要もなくなる。
これからも続くこちらでの生活、オープンでいる選択を積み重ねていけたら、と思っている。
日本に居てもそうありたいな。
かといって
数ヶ月滞在する異種なアラスカの新鮮な雰囲気にも
満足している自分を思うと、
もしかしてその場の気分で、
都合の良い生き方をしているのかもしれないと、
ちょっと考えてしまいました。
完全なるバイリンガルは、悩まない。
なぜなら、すぐに片方の言語に逃げることが出来るから。
という言葉を思い出しました。