今日は地区公民館主催の”間瀬銅山跡”探索に参加・・昨日迄大荒れの新潟だが、今日は快晴に恵まれた。
講師に案内された山の中に大発見!・・良く見ると大型の”火焔土器”の様だ・・それがなんでこんな所に?
途中、こんな竹藪をかき分けて進む・・事前に関係者の皆様が竹を切ったりして道を確保してくれていたのです。
滝の右上の穴は坑道からの排水口とか・・もう一枚は手掘りをしようとした穴らしい(たぬき堀りと言うのだそうです)
神社の跡が見つかりました・・よく見ると祠に続く石の階段の様です。
この石像にはお賽銭があげられていました・・どうも関係者の方が供えた様です。
明治の頃の墓石も確認出来ましたが、倒れて藪に隠れているのも有りました・・訪ねてくる縁者もいなくなったのでしょうか?
天保と彫られているので歴史が感じられます。
周りを土盛りで囲んである間瀬石の保管庫?・・講師の説明では”終戦間際に造られた軍の弾薬庫ではないか”だそうだ。(三ヶ所有るが地元の人も知らない)
安田から運ばれた御影石?らしいが、なんの為に誰が?運び、放置したのだろうか?・・これも謎です。
坂の向こうには日本海が見えます。
かっては260人程が住んでいたそうだが、今は竹藪になっています。
間瀬の村では相当大きな集落であったと言えましょう・・当時神社では祭りなど盛大に行われていたものと思われます。
*原発予定地になって廃村になった(毒消し売りで知られている)旧巻町の”角海浜地区”は、今は入れませんが、この様でしょうか?・・一度訪ねてみたいものです。(東北電管理地)
(映画 渡されたバトンでは竹さんが漁協の窓から大漁旗を振ったり、耕耘機を押したりしています。)
ここの銅は品質が良く、燕の銅器製造の原料として使われたと言われている。
岩室の老舗旅館”高島屋”は間瀬の銅を燕へ運んで(商売して)財をなし、当時の領主(高崎藩)に多額の献金をして庄屋職についたそうだ。
写真は製錬に使われたコークスとか。
*最初の火焔土器だが、新潟で国体が開催された当時の陸上競技場の聖火台で、新潟地震で破損した為修理の為にここに運ばれたのだそうだ。
上部の火焔のみ再利用して、下部はここに保管?(放置)されている様だ・・当時製作者はここに住んでいたとか。
*調べたら作者は彫刻家の早川亜美と言う方で、赤塚中学の白鳥や越後七浦観音像の製作者だった事が分った。
昭和38年、新潟国体の聖火台(火焔土器型)を建て、昭和43年に間瀬銅山精錬所跡にアトリエを建てたと有りました。
*時折、山歩きの方とすれ違いました。